モリソン号
事件
一元化
樋口重右衛門所有の宝順丸鳥羽浦入港と暴風雨遭遇漂流・山本音吉久吉岩吉のケープ・アラバ漂着14ヶ月とマカ族奴隷使役・ハドソン湾会社ラーマ号船長ウイリアム・マックネルによる救出・ロバート・モリソン死去とカール・ギュツラフへの志継承・イーグル号ダービー船長ロンドン向け出港・ジェネラル・パーマー号ダウンズ船長内伶停島到着とジョージ・ベスト・ロビンソン引き渡し・マカオ白鴿巢公園近くカール・ギュツラフ自宅預けとキャプテン・エリオット日本人確信・天草出港原田庄蔵寿三郎熊太郎力松4名漂流とルソン島北岸漂着・サミュエル・ウィリアムズ久吉英会話記録・約翰福音之伝と約翰上中下書翻訳完成と堅夏書院出版尾張方言混入・モリソン号38名乗船とインガソル船長キング夫妻ピーター・パーカーサミュエル・ウィリアムズと漂流民7名・ヒマレー号案却下とローレィ号那覇案再提案とギュツラフ単独乗船代替案採用・マカオ7月4日独立記念日大砲外し祝砲無し出港・那覇到着と山羊豚サツマイモ受領・伊豆大島通過と城ヶ島遠見番所異国船発見と香山助七郎報告・太田運八郎による1825年異国船打払令適用と平根山観音崎洲崎砲台合砲・モリソン号砲撃と野比村停泊と漁師200名招待ワインビスケットパン振舞・松平乗寛水野忠邦太田資始松平信順4老中宛報告・夜中海岸4門大砲砲撃と白旗無視・薩摩進路変更と山川港入港・チャールズ・キング書簡と第10代鹿児島藩主島津斉興取次・島津久風交渉と異国船打払令通告と空砲砲撃・3名丸坊主祖国捨覚悟・マカオ帰着・水野忠邦オランダ風説書受領と林述斎評議と評定所打払答申と穏健策採用・芳賀市三郎尚歯会蛮社渡辺崋山高野長英小関三英鈴木春山評議書写し閲覧・戊戌夢物語公表と異国船打払令否定と幕政批判・渡辺崋山伝馬町揚屋投獄と高野長英百姓牢投獄・筒井政憲判決と田原藩蟄居と永牢・渡辺崋山切腹『餓死るとも二君に仕ふべからず』遺書・高野長英伝馬町放火脱獄と高野隆仙離座敷潜伏・鴻巣同心詰所石抱拷問・青山百人町沢三伯硝酸顔焼き町医者と密告捕縛駕籠中喉突き自刃・高野隆仙拷問傷死去──
「餓死るとも二君に仕ふべからず」──田原藩蟄居中に切腹した渡辺崋山の遺書、平根山砲台の砲煙が起こした蛮社の獄の連鎖27年余りを一冊に。
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本書について
西暦1832年10月22日、1,500石の廻米や陶磁器等を江戸に運ぶ為に小野浦を出港していた尾張藩の樋口重右衛門所有の「宝順丸」が時化の為鳥羽浦に入港し11月3日に出港するも暴風雨に遭い帆柱や舵を失い漂流が始まった日から、西暦1859年に高野長英の門人であった蘭方医高野隆仙が拷問の傷が癒えない儘死去した日まで。本書は、宝順丸の14ヶ月の漂流と山本音吉・久吉・岩吉のアメリカワシントン州ケープ・アラバ漂着・原田庄蔵らルソン島北岸漂着・カール・ギュツラフによる聖書翻訳協力・1837年7月のモリソン号38名による漂流民7名送還の試みと太田運八郎による異国船打払令適用に基づく平根山砲台と観音崎砲台からの砲撃・第10代鹿児島藩主島津斉興と島津久風による山川港での空砲砲撃・1838年7月の老中水野忠邦による穏健策採用と評議書の蛮社漏洩・高野長英『戊戌夢物語』による異国船打払令否定と幕政批判・1839年6月の蛮社の獄での渡辺崋山と高野長英の伝馬町投獄・1841年11月23日の渡辺崋山切腹と『餓死るとも二君に仕ふべからず』遺書・1844年8月の高野長英放火脱獄と高野隆仙の石抱拷問・1850年12月3日の青山百人町沢三伯名義での捕縛と駕籠中喉突き自刃——以上の漂流から蛮社の獄の連鎖事件群を、宝順丸出港から高野隆仙拷問死まで月日単位で時系列に一元化した電子書籍です。本書の核となるのは、1837年7月3日のマカオ出港から8月29日のマカオ帰着まで僅か2ヶ月のモリソン号航海本体と、其の後の1838年7月の水野忠邦の評議と11月の評議書漏洩、そして1839年から1850年迄の渡辺崋山切腹・高野長英自刃・高野隆仙拷問死へと至る蛮社の獄の連鎖——です。1832年の宝順丸暴風雨遭遇から1859年の高野隆仙拷問傷死去まで、漂流民送還という人道的航海が引き起こした砲撃と思想弾圧の27年余りを一冊に束ねます。
西暦1832年10月22日、樋口重右衛門・仁右衛門・利七・三四郎・常治郎・六右衛門・吉治郎・山本音吉・久吉・政吉・岩吉・仙之助・勝五郎・辰蔵の14名を乗せた宝順丸が小野浦を出港し時化の為鳥羽浦に入港、11月3日に出港するも暴風雨で帆柱と舵を失い漂流を開始しました。1834年1月、14ヶ月の漂流の末アメリカワシントン州ケープ・アラバ付近に漂着、生存者は山本音吉・久吉・岩吉の3名のみで他は壊血病で死亡、3名はマカ族に捕らえられ奴隷同然に使役されました。1834年8月、ハドソン湾会社の商船ラーマ号船長ウイリアム・マックネルが3名を発見し買い取り救出、コロンビア川を遡行しフォート・バンクーバーへ連行、同年8月1日には日本へのプロテスタント伝道を目指していた宣教師ロバート・モリソンが死去し其の志はカール・ギュツラフへ継承されました。11月にハドソン湾会社太平洋岸総責任者ジョン・マクローリンの下からダービー船長率いるイーグル号でロンドンへ向け出港、12月にオアフ島寄港を経て1835年5月13日ロンドン到着・5月28日出発、12月にダウンズ船長のジェネラル・パーマー号で内伶停島到着、駐清イギリス商務庁長官ジョージ・ベスト・ロビンソンに引き渡されてマカオに送られ白鴿巢公園近くの商務庁の中国語通訳官カール・ギュツラフ自宅に預けられました。キャプテン・エリオットがアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの日本地図を見せると名古屋と江戸の沿岸を辿って見せたので日本人と確信、12月25日にエリオットがロビンソンと臨時インド総督サー・チャールズ・メトカーフに対し『漂流民3名は帰国を熱望しているが外国船での送還は危険であり、慎重且つ友好的に行うべきである。イギリス船を使うのが良く、来年4月下旬に軍艦1隻をマカオに送って欲しい』との書簡を送りました。1835年12月20日には天草を出港し長崎へ向かう原田庄蔵・寿三郎・熊太郎・力松4名の船が悪天候に遭い漂流を開始、1836年1月10日に米水切れ・1月24日にルソン島北岸漂着・2月22日にマニラへ向け移動を開始し、1837年3月にマカオに到着しました。1836年6月20日には宣教師サミュエル・ウィリアムズが久吉と英語で交わした会話を記録、11月にはギュツラフが3名の協力で『約翰福音之伝』及び『約翰上中下書』の翻訳を完成、1837年5月にシンガポールのアメリカ外国伝道協会の印刷所『堅夏書院』から木板刷りで出版されました(誤りが多く尾張の方言が混じった)。
西暦1837年7月3日、ギュツラフは当初モリソン号の姉妹船ヒマレー号で漂流民を送還する事をイギリス商務庁に訴えるも外国船で日本に送還するのは危険との理由で却下され、イギリス商務庁長官チャールズ・ポーレット・トムソンはイギリス軍艦ローレィ号でギュツラフと漂流民7名が琉球に行き那覇でオリファント商会広東支配人チャールズ・キングの日本行きの船に乗り換える案を提案、しかしキングは日本人がイギリス軍艦に乗って来た事実を知られると疑惑を抱かれるとの理由で反対しギュツラフだけがローレィ号・漂流民7名はモリソン号に乗るという代替案が採用され、船長インガソル・キング夫妻・医療宣教師ピーター・パーカー・サミュエル・ウィリアムズと山本音吉・久吉・岩吉・原田庄蔵・寿三郎・熊太郎・力松の漂流民7名を含む38名がアメリカの商社オリファント商会の商船モリソン号に乗船しました。7月4日アメリカの独立記念日に大砲を外した為祝砲は打たずマカオを出港、7月12日11時に琉球王国の那覇に到着し7月13日・14日に飲み水・塩・卵・瓜・山羊・豚・サツマイモを受領(キングの金貨決済は流通していない為断られポケット字典とハンカチを贈答)、7月15日にギュツラフがローレィ号からモリソン号に乗り換え江戸へ向け出発しました。7月28日に伊豆大島を通過、6時に三崎詰支配組与力香山助七郎が城ヶ島遠見番所の同心から異国船発見の報告を受けて浦賀奉行所に注進、浦賀奉行太田運八郎は直ちに江戸に報告しました。7月30日、太田は与力中嶋清司を異国船見届けに出港させ観音崎御備場には平井藤右衛門を出陣させ自身は平根山御備場へ向かい、1825年4月6日の異国船打払令に則り砲撃を実行、11時に観音崎・平根山から洲崎砲台に合砲を打ち、モリソン号は平根山砲台と観音崎砲台からの砲撃を受け14時に三浦郡野比村に停泊、キング夫妻が現地の漁師200名を後甲板後方に招きワイン・ビスケット・パンを振る舞いさらし木綿とアメリカの貨幣を与えるも役人は来ず、太田は松平乗寛・水野忠邦・太田資始・松平信順の4老中に1822年来航の船に似ておりイギリス船と予測する旨を含めて打払の実行を報告しました。7月31日6時、夜中に海岸に移動した4門の大砲から砲撃を受け白旗を揚げるも砲撃は止まず、インガソルは江戸湾の奥を進むのは危険と判断し退却、夕方石廊崎を通過し吉田沖で会議を開き薩摩へ進路を変更しました。8月10日に山川港に入港、チャールズ・キングは漂流民7名の送還と通商を求める書簡を役人に手渡し、役人は第10代鹿児島藩主島津斉興に取り次ぎ、家老島津久風が派遣されモリソン号との交渉に当たり、鹿児島藩側は異国船打払令を伝え漂流民はオランダを介して送還する様言って薪水と食糧を与えて船に帰しました。8月12日に島津久風の指示で空砲砲撃が行われ、8月13日には山本音吉・久吉・岩吉が丸坊主にして祖国を捨てる覚悟を示しキングは針路をマカオに向け、8月29日夕方にマカオに帰着しました。
西暦1838年7月、水野忠邦がオランダ商館長によって齎されたオランダ風説書を第95代長崎奉行久世広正経由で受け取りモリソン号が日本人漂流民を送り届けに来た事と通商を求めて来た事を知り、昌平坂学問所大学頭林述斎等の幕閣に意見を求め評議を行い、評定所は『漂流民受け取りの必要無し。モリソン号再来の場合は再び打ち払うべし』と答申するも水野は強硬策に危惧の念を抱き再度の上書を促し勘定奉行所等に独自の上書を提出させ、結果穏健策を採用し漂流民を引き取る政策を実行しました。1838年11月21日、辰ノ口評定所記録方芳賀市三郎が『尚歯会』の集まりで南蛮学同好会『蛮社』の渡辺崋山・高野長英・小関三英・鈴木春山にモリソン号評議書の写しを見せ、1838年12月7日に高野長英が著書『戊戌夢物語』を公表しイギリスの国力データ・清に於けるイギリスの立場・日本近海の島々への勢力を示し『漂流民を送り届けるという人道的な意図を明らかにしている以上、打ち払いを行えば日本は不仁の国と見なされる』として異国船打払令を否定し幕政を批判しました。1839年6月24日、渡辺崋山が北町奉行所からの差紙により出頭し伝馬町牢屋敷の揚屋に投獄、6月28日夜に高野長英が渡辺の投獄を知り北町奉行所に自首し詰め小屋で一夜を明かし6月29日に伝馬町牢屋敷の百姓牢に投獄(武士や公認の医者では無かった為)、1840年1月22日に第29代南町奉行筒井政憲が渡辺を田原藩への蟄居・高野を永牢とする判決を下しました。1841年11月23日、渡辺崋山が第11代田原藩主三宅康直に罪が降りかかるのを恐れ『餓死るとも二君に仕ふべからず』との遺書を残し切腹、田原藩池ノ原屋敷で蟄居中の渡辺の貧窮を憂慮した高弟福田半香の計らいで義会を始めて于公高門図・千山万水図・月下鳴機図・虫魚帖・黄粱一炊図等を描くも『罪人身を慎まず』と悪評が起こり田原藩が問題視していた所であった。1844年8月13日、高野長英が伝馬町牢屋敷で働いていた非人栄蔵に放火させ『切り放ち』で外に出て其の儘逃亡、9月13日に大間木で蘭方医高野隆仙の離座敷に匿われるも(隆仙の弟で板橋で医者を営む水村玄銅が長英を導き、水村は脱獄前から長英の釈放運動をしていた)、9月20日に隆仙の離座敷を出発、9月21日夜に隆仙の下に迎え駕籠が来て『此れに乗って患者を診て欲しい』と連れて行かれたのは鴻巣の同心詰所であり石抱による拷問を受け、12月30日に釈放されるも長英の行き先に関し一切口を割らず、1845年に拷問の傷が再発しました。1850年4月、高野長英が青山百人町の借家に移り住み沢三伯と名乗り町医者を営み(顔が見破られない様硝酸で顔を焼き人相を変えた)、12月3日夕方に出先から潜伏先に戻る際に小路にて何者かの密告により町奉行に踏み込まれ捕縛され、何人もの捕方に十手で殴打され縄を掛けられた時には既に半死半生で駕籠で南町奉行所へ護送中に自身の喉を突いて自刃、そして1859年に高野隆仙が拷問の傷が癒えない儘死去しました——平根山砲台の砲煙が引き金となり、漂流民送還という人道的航海が異国船打払令適用の砲撃と蛮社の獄の連鎖を経て27年余りに亙る思想弾圧と自死の連鎖へと辿り着いた全貌を一冊に束ねた書です。
主要登場人物
- 山本音吉 尾張藩宝順丸水夫。1832年10月22日に小野浦から出港して鳥羽浦に入港し11月3日に再出港するも暴風雨で漂流、1834年1月にケープ・アラバ漂着まで14ヶ月生き延び他11名が壊血病で死亡する中で久吉・岩吉と共に生還しマカ族に奴隷同然に使役された。同年8月にウイリアム・マックネルに救出され、ロンドン・マカオを経て1835年12月にカール・ギュツラフ自宅に預けられ翌年11月までに『約翰福音之伝』『約翰上中下書』の翻訳に協力。1837年7月3日にモリソン号に他6名の漂流民と共に乗船しマカオを出港、那覇から江戸へ向かうも7月30日の平根山砲台と観音崎砲台からの砲撃を受け、8月10日山川港でも島津久風の交渉を経て8月12日に空砲砲撃を受け、8月13日に丸坊主にして祖国を捨てる覚悟を示した、本書の主人公にして14ヶ月の漂流から2回の砲撃を経て祖国捨覚悟に至った宝順丸の生存者。
- 久吉 尾張藩宝順丸水夫。山本音吉・岩吉と共に14ヶ月の漂流の末ケープ・アラバに漂着しマカ族に使役されるもウイリアム・マックネルに救出された。1836年6月20日には宣教師サミュエル・ウィリアムズが久吉と英語で交わした会話を記録するまでに英語を習得し、11月までにカール・ギュツラフの聖書翻訳に協力。1837年のモリソン号航海でも他2名と共に乗船し、8月13日には丸坊主にして祖国を捨てる覚悟を示した、本書で英会話の記録が残された宝順丸の生存者。
- 岩吉 尾張藩宝順丸水夫。山本音吉・久吉と共に14ヶ月の漂流の末ケープ・アラバに漂着しマカ族に使役されるもウイリアム・マックネルに救出され、ロンドン・マカオを経てカール・ギュツラフの聖書翻訳に協力。1837年のモリソン号航海でも他2名と共に乗船し、8月13日には丸坊主にして祖国を捨てる覚悟を示した、本書で2人の同胞と共に最後迄行動を共にした宝順丸の生存者。
- 原田庄蔵 船頭。寿三郎・熊太郎・力松の3名と共に1835年12月20日に天草を出港し長崎へ向かう途中で悪天候に遭い漂流、1836年1月10日に米水切れ・1月24日にルソン島北岸漂着・2月22日にマニラへ移動を開始し、1837年3月にマカオに到着、7月3日にモリソン号で他3名と共に山本音吉らに合流し漂流民7名の一員として乗船した、本書で2隻目の漂流民グループとしてモリソン号航海に合流した船頭。
- ロバート・モリソン プロテスタント宣教師。日本へのプロテスタント伝道を目指すも1834年8月1日に死去、其の志はカール・ギュツラフへと引き継がれた。1837年のオリファント商会の商船はこの宣教師の名を冠して『モリソン号』と命名された、本書の名祖となり志をギュツラフに継承させて漂流民送還航海の起点となった宣教師。
- カール・ギュツラフ マカオの駐清イギリス商務庁の中国語通訳官。ロバート・モリソン死去後其の志を継承し、1835年12月にジョージ・ベスト・ロビンソンから山本音吉・久吉・岩吉の3名を白鴿巢公園近くの自宅に預けられ、1836年1月15日にはロビンソンへ『漂流民は直ぐにでも帰国したいという願望があり、中国船よりもイギリス船で帰国したい』と返信、3名の協力で1836年11月までに『約翰福音之伝』及び『約翰上中下書』の翻訳を完成させ1837年5月に堅夏書院から出版。当初モリソン号の姉妹船ヒマレー号での送還を訴えるも却下され、最終的に7月15日にローレィ号からモリソン号に乗り換え江戸へ向け出発、台湾海峡では清の漁師に中国語訳の聖書を上げ喜ばせた、本書の漂流民送還航海の主導者にして聖書翻訳と外交折衝の双方を担った中国語通訳官。
- ウイリアム・マックネル ハドソン湾会社の商船ラーマ号船長。年に1、2度獣皮類の取引の為にインディアンを訪れる中で1834年8月にアメリカワシントン州で山本音吉・久吉・岩吉の3名を発見し買い取り救出、コロンビア川を遡行しハドソン湾会社の毛皮工場へと向かった、本書で3名の漂流民をマカ族の奴隷使役から救出し其の後の世界一周送還航海への第一歩を作った商船船長。
- ジョージ・ベスト・ロビンソン 駐清イギリス商務庁長官。1835年12月にダウンズ船長から山本音吉・久吉・岩吉の3名を引き渡され、マカオに送りカール・ギュツラフの自宅に預けた。1836年1月14日にギュツラフへ漂流民の帰国意向と外国船送還の希望を確認する書簡を送り、翌15日にギュツラフからイギリス船での送還が最善との返信を受けた、本書で漂流民の引き渡しと帰国手段の調整を司った駐清イギリス商務庁長官。
- キャプテン・エリオット 駐清イギリス商務庁次官チャールズ・エリオット。1835年12月にマカオで山本音吉・久吉・岩吉の3名を取り調べ、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの書いた日本地図を見せると名古屋と江戸の沿岸を辿って見せたので日本人であると確信。12月25日にロビンソンに『漂流民3名は帰国を熱望しているが外国船での送還は危険であり、慎重且つ友好的に行うべきである。イギリス船を使うのが良く、来年4月下旬に軍艦1隻をマカオに送って欲しい』との書簡を送り、臨時インド総督サー・チャールズ・メトカーフにも送る様要請した、本書で日本地図によって3名の出自を確定し送還の方針を初めて文書化した次官。
- チャールズ・キング アメリカの商社オリファント商会広東支配人。当初イギリス商務庁長官チャールズ・ポーレット・トムソンが提案したローレィ号那覇案について『日本人がイギリス軍艦に乗って来た事実を知られると疑惑を抱かれる』と反対しギュツラフ単独乗船代替案を出した。1837年7月3日にモリソン号に夫人と共に乗船し、7月12日那覇到着・14日には金貨決済が断られた為ポケット字典とハンカチをプレゼント、7月30日の野比村停泊時には現地の漁師200名を後甲板後方に招きワイン・ビスケット・パンを振る舞いさらし木綿やアメリカの貨幣を与え、8月10日には山川港で漂流民送還と通商を求める書簡を島津斉興宛に手渡し、8月13日の3名丸坊主祖国捨覚悟を受け針路をマカオに向け、8月29日夕方にマカオに帰着した、本書のモリソン号航海の代表者にして漂流民送還と通商の窓口を担った商会支配人。
- インガソル モリソン号船長。1837年7月3日にマカオから38名を乗せて出港し7月12日那覇到着・7月15日に江戸へ向け出発、7月28日に伊豆大島通過、7月30日には平根山砲台と観音崎砲台からの砲撃を受けて野比村に停泊、7月31日6時に夜中に海岸に移動した4門の大砲から砲撃を受け白旗を揚げても砲撃が止まなかった事から『これ以上江戸湾の奥を進むのは危険であり、日本側との交渉の余地も無い』と判断して退却を決め、夕方石廊崎を通過して吉田沖で会議を開き薩摩へ進路を変更した、本書で異国船打払令の砲撃下で退却と薩摩進路変更を即断したモリソン号船長。
- 太田運八郎 浦賀奉行。1837年7月28日6時に三崎詰支配組与力香山助七郎からの異国船発見報告を受け直ちに江戸へ報告。7月30日には与力中嶋清司を異国船見届けに出港させ観音崎御備場には平井藤右衛門を出陣させ自身は平根山御備場へ向かい、1825年4月6日の異国船打払令に則り砲撃を実行、11時に観音崎及び平根山から洲崎砲台に合砲を打ちモリソン号への砲撃を行い、松平乗寛・水野忠邦・太田資始・松平信順の4老中に1822年来航の船に似ておりイギリス船と予測する旨を含めて打払の実行を報告。7月31日にも野比村停泊中のモリソン号への砲撃と退却を再度4老中に報告した、本書で異国船打払令の現場執行者として平根山砲台の砲煙を上げ27年余りの連鎖の引き金を引いた浦賀奉行。
- 水野忠邦 老中。1837年7月30日・31日に太田運八郎から打払の実行報告を受けた4老中の一人。1838年7月にオランダ商館長によって齎されたオランダ風説書を第95代長崎奉行久世広正経由で受け取りモリソン号の漂流民送還と通商目的を知り、昌平坂学問所大学頭林述斎等の幕閣に意見を求め評議を行い、評定所が『漂流民受け取りの必要無し。モリソン号再来の場合は再び打ち払うべし』と答申するも強硬策に危惧の念を抱き再度の上書を促し勘定奉行所等に独自の上書を提出させて結果穏健策を採用し漂流民を引き取る政策を実行した、本書で打払令の現場執行を受けつつも穏健策に転じた老中。
- 島津斉興 第10代鹿児島藩主。1837年8月10日にチャールズ・キングからモリソン号の漂流民7名送還と通商を求める書簡を山川港の役人を介して受け取り、家老島津久風を山川に派遣してモリソン号との交渉に当たらせ、異国船打払令を伝え漂流民はオランダを介して送還する様伝えて薪水と食糧を与えて船に帰した、本書で薩摩での書簡受領と打払令通告を担った第10代藩主。
- 島津久風 鹿児島藩家老。1837年8月10日に島津斉興から派遣されモリソン号との交渉に当たり、異国船打払令を伝え漂流民はオランダを介して送還する様言って薪水と食糧を与えて船に帰した。8月12日には自身の指示でモリソン号を砲撃するも全て空砲とした、本書で江戸湾の本砲撃と対をなす薩摩の空砲砲撃を選択した家老。
- 渡辺崋山 蛮社の渡辺崋山。1838年11月21日に辰ノ口評定所記録方芳賀市三郎から尚歯会の集まりでモリソン号評議書の写しを高野長英・小関三英・鈴木春山と共に見せられた4名の一人。1839年6月24日に北町奉行所からの差紙により出頭し伝馬町牢屋敷の揚屋に投獄、1840年1月22日に第29代南町奉行筒井政憲から田原藩への蟄居の判決を下された。1841年11月23日、第11代田原藩主三宅康直に罪が降りかかるのを恐れ『餓死るとも二君に仕ふべからず』との遺書を残し切腹、田原藩池ノ原屋敷で蟄居中の渡辺の貧窮を憂慮した高弟福田半香の計らいで義会を始めて于公高門図・千山万水図・月下鳴機図・虫魚帖・黄粱一炊図等を描くも『罪人身を慎まず』と悪評が起こり田原藩が問題視していた所であった、本書で蛮社の獄の連鎖の最初の犠牲者となり遺書をキャッチコピーに残した蛮社の重鎮。
- 高野長英 蘭学者。1838年11月21日に芳賀市三郎から尚歯会でモリソン号評議書の写しを示された4名の一人。1838年12月7日に著書『戊戌夢物語』を公表し、具体的なデータでイギリスの国力を示し清に於けるイギリスの立場と日本近海の島々への勢力を明らかにし『例えどの様な口実であっても漂流民を送り届けるという人道的な意図を明らかにしている以上、打ち払いを行えば日本は不仁の国と見なされる』として異国船打払令を否定し幕政を批判。1839年6月28日夜に渡辺崋山投獄を知り北町奉行所に自首・29日に伝馬町百姓牢に投獄(武士や公認の医者では無かった為)、1840年1月22日に永牢の判決。1844年8月13日に非人栄蔵に放火させ『切り放ち』で外に出て逃亡、9月13日に高野隆仙の離座敷に匿われ20日に出発。1850年4月に青山百人町の借家に沢三伯と名乗り町医者を営み硝酸で顔を焼き人相を変えるも、12月3日夕方に密告により町奉行に踏み込まれ捕縛され駕籠で南町奉行所へ護送中に自身の喉を突いて自刃した、本書で『戊戌夢物語』により異国船打払令を否定し11年に亙る逃亡の末に駕籠中で自刃した蘭学者。
- 高野隆仙 蘭方医にして高野長英の門人。1844年9月13日に脱獄した長英を大間木の自身の離座敷に匿い(隆仙の弟で板橋で医者を営む水村玄銅が長英を導き、水村は脱獄前から長英の釈放運動をしていた)、9月20日に長英が離座敷を出発した翌21日夜に迎え駕籠が来て『此れに乗って患者を診て欲しい』と連れて行かれた鴻巣の同心詰所で石抱による拷問を受けるも、12月30日に釈放されるまで長英の行き先に関し一切口を割らなかった。1845年に拷問の傷が再発し、1859年に拷問の傷が癒えない儘死去した、本書の終幕で長英を守る為に石抱拷問に耐え14年後に其の傷で死去した蘭方医。
樋口重右衛門所有の宝順丸鳥羽浦入港と暴風雨遭遇漂流・山本音吉久吉岩吉のケープ・アラバ漂着14ヶ月とマカ族奴隷使役・ハドソン湾会社ラーマ号船長ウイリアム・マックネルによる救出・ロバート・モリソン死去とカール・ギュツラフへの志継承・イーグル号ダービー船長ロンドン向け出港・ジェネラル・パーマー号ダウンズ船長内伶停島到着とジョージ・ベスト・ロビンソン引き渡し・マカオ白鴿巢公園近くカール・ギュツラフ自宅預けとキャプテン・エリオット日本人確信・天草出港原田庄蔵寿三郎熊太郎力松4名漂流とルソン島北岸漂着・サミュエル・ウィリアムズ久吉英会話記録・約翰福音之伝と約翰上中下書翻訳完成と堅夏書院出版尾張方言混入・モリソン号38名乗船とインガソル船長キング夫妻ピーター・パーカーサミュエル・ウィリアムズと漂流民7名・ヒマレー号案却下とローレィ号那覇案再提案とギュツラフ単独乗船代替案採用・マカオ7月4日独立記念日大砲外し祝砲無し出港・那覇到着と山羊豚サツマイモ受領・伊豆大島通過と城ヶ島遠見番所異国船発見と香山助七郎報告・太田運八郎による1825年異国船打払令適用と平根山観音崎洲崎砲台合砲・モリソン号砲撃と野比村停泊と漁師200名招待ワインビスケットパン振舞・松平乗寛水野忠邦太田資始松平信順4老中宛報告・夜中海岸4門大砲砲撃と白旗無視・薩摩進路変更と山川港入港・チャールズ・キング書簡と第10代鹿児島藩主島津斉興取次・島津久風交渉と異国船打払令通告と空砲砲撃・3名丸坊主祖国捨覚悟・マカオ帰着・水野忠邦オランダ風説書受領と林述斎評議と評定所打払答申と穏健策採用・芳賀市三郎尚歯会蛮社渡辺崋山高野長英小関三英鈴木春山評議書写し閲覧・戊戌夢物語公表と異国船打払令否定と幕政批判・渡辺崋山伝馬町揚屋投獄と高野長英百姓牢投獄・筒井政憲判決と田原藩蟄居と永牢・渡辺崋山切腹『餓死るとも二君に仕ふべからず』遺書・高野長英伝馬町放火脱獄と高野隆仙離座敷潜伏・鴻巣同心詰所石抱拷問・青山百人町沢三伯硝酸顔焼き町医者と密告捕縛駕籠中喉突き自刃・高野隆仙拷問傷死去──
「餓死るとも二君に仕ふべからず」──田原藩蟄居中に切腹した渡辺崋山の遺書、平根山砲台の砲煙が起こした蛮社の獄の連鎖27年余りを一冊に。
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