モリソン号事件一元化
西暦1,837年、七人の漂流民を乗せた船が浦賀に現れた──
砲撃で追われたモリソン号の顛末を一元化。
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本書について
西暦1,832年10月22日、1,500石の廻米や陶磁器を江戸へ運ぶ為に小野浦(現在の愛知県知多郡美浜町)を出港していた尾張藩の樋口重右衛門の持船「宝順丸」が、時化に遭って鳥羽浦(現在の三重県鳥羽市)へ入った。乗り組んでいたのは船頭を含む14名である。天候の回復を待って11月3日に鳥羽浦を出た船は、間も無く暴風雨に遭い、帆柱と舵を失って漂い始めた。本書は、此の一隻の廻船の漂流を起点として、七人の漂流民を送り届けに来た商船モリソン号が浦賀と山川で砲撃を受け、其の余波が蛮社の獄へと繋がってゆく二十七年の連鎖を、年月日単位で一元化した記録である。
漂流は14ヶ月に及んだ。西暦1,834年1月、宝順丸はアメリカのワシントン州ケープ・アラバ付近に漂着するが、生き残っていたのは山本音吉・久吉・岩吉の3名だけで、他の乗組員は壊血病で死亡していた。3名はインディアンのマカ族に捕らえられ、奴隷同然に使役される。同年8月頃、獣皮類の取引の為に年に1、2度訪れるハドソン湾会社の商船「ラーマ号」の船長ウイリアム・マックネルが3名を見付けて買い取り、救出した。11月、3名はフォート・バンクーバー(現在のアメリカのワシントン州)のジョン・マクローリンの下からブリッグ型帆船「イーグル号」でロンドンへ向かい、西暦1,835年5月13日に到着——漂流民は、日本へ帰る為に地球を半周する事となった。
復路で「ジェネラル・パーマー号」に乗り換えた3名は、同年12月に内伶停島(現在の中国深圳市南山区)へ着き、駐清イギリス商務庁長官ジョージ・ベスト・ロビンソンへ引き渡された後、マカオの白鴿巢公園近くに住む中国語通訳官カール・ギュツラフの自宅に預けられる。次官キャプテン・エリオットがアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの描いた日本地図を見せると、3名は名古屋と江戸の沿岸を指で辿ってみせた。此れによって日本人である事が確信された。エリオットは12月25日、外国船での送還は危険であり、イギリス船を用いて慎重且つ友好的に行うべきだとする書簡をロビンソンへ送っている。
同じ頃、もう一組の漂流が始まっていた。西暦1,835年12月20日、天草を出て長崎へ向かっていた船頭原田庄蔵と水夫寿三郎・熊太郎・力松の船が悪天候に遭って漂い出し、翌西暦1,836年1月10日には米も水も尽きた。1月24日にルソン島(現在のフィリピン)の北岸へ漂着し、マニラを経て、西暦1,837年3月にマカオへ到着する。此処に七人の漂流民が揃った。此の間ギュツラフは音吉等3名の協力を得て新約聖書の一部「約翰福音之伝」「約翰上中下書」を訳し終え、西暦1,837年5月、シンガポールの堅夏書院から木板刷りで出版している。日本語訳聖書の最初期の一つであったが、誤りが多く、尾張の方言が混じっていた。
送還の船を巡っては、幾つもの案が退けられた。ギュツラフが訴えた「ヒマレー号」による送還は却下され、イギリス商務庁長官チャールズ・ポーレット・トムソンが出したイギリス軍艦「ローレィ号」で琉球まで運ぶ案には、日本人がイギリス軍艦に乗って来たと知られれば疑惑を招くとしてオリファント商会広東支配人チャールズ・キングが反対した。結局、ギュツラフだけがローレィ号に乗り、漂流民7名は商船「モリソン号」に乗るという代替案が採られる。西暦1,837年7月4日、船長インガソル・キング夫妻・医療宣教師ピーター・パーカー・サミュエル・ウィリアムズ等38名を乗せてマカオを出港。此の日はアメリカの独立記念日であったが、大砲を全て外していた為に祝砲は打たれず、静かに祈りが捧げられた。7月12日に那覇へ寄り、15日、ギュツラフが乗り換えて江戸へ向かった。
7月28日、モリソン号は伊豆大島(現在の東京都大島町)を通過する。同じ日の6時、城ヶ島遠見番所の同心から異国船発見の報を受けた三崎詰支配組与力香山助七郎が浦賀奉行所へ注進し、浦賀奉行太田運八郎は直ちに江戸へ報告した。30日、太田は西暦1,825年4月6日に発せられた異国船打払令に則って砲撃の準備を進め、11時に観音崎・平根山と洲崎砲台(現在の千葉県館山市洲崎)が合砲を交わす。モリソン号は平根山と観音崎から砲撃を受け、14時に三浦郡野比村(現在の神奈川県横須賀市野比)へ停泊した。キング夫妻は現地の漁師等200名を後甲板へ招いてワイン・ビスケット・パンを振る舞い、さらし木綿やアメリカの貨幣を与えて役人を待ったが、役人は来なかった。翌31日の6時、夜の内に海岸へ移された4門の大砲が火を噴く。白旗を揚げても砲撃は止まず、インガソルは退却を決めた。吉田(現在の愛知県豊橋市)沖で開かれた会議で、船は交渉の余地の有る薩摩へ針路を変える。
8月10日、モリソン号は山川港に入った。キングは来航の目的を語り、漂流民7名の送還と通商を求める書簡を役人に手渡す。書簡は第10代鹿児島藩主島津斉興に届けられ、家老島津久風が山川へ派遣されて交渉に当たったが、藩は異国船打払令を伝え、漂流民はオランダを介して送還する様に告げ、薪水と食糧を与えて船へ帰した。12日には久風の指示で砲撃が行われる——尤も、全て空砲であった。13日、音吉・久吉・岩吉の3名は丸坊主になって祖国を捨てる覚悟を示し、キングは針路をマカオへ向けた。8月29日の夕方、モリソン号はマカオへ帰り着く。二度の砲撃を受けながら、一人の漂流民も故郷の土を踏めなかった。
事件は、日本の内側で別の連鎖を生んだ。西暦1,838年7月、老中水野忠邦は第95代長崎奉行久世広正を経てオランダ風説書を受け取り、モリソン号が漂流民を送り届け、通商を求めに来ていた事を知る。評定所の答申は「漂流民受け取りの必要無し。再来の場合は再び打ち払うべし」であったが、水野は強硬策に危惧を抱いて再度の上書を促し、最終的に漂流民を引き取る穏健策を採った。同年11月21日、辰ノ口評定所記録方芳賀市三郎が尚歯会の席で評議書の写しを渡辺崋山・高野長英等に見せ、12月7日、高野は「戊戌夢物語」を公表して異国船打払令を否定する。翌西暦1,839年6月、渡辺と高野は投獄され、西暦1,841年11月23日、渡辺は「餓死るとも二君に仕ふべからず」の遺書を残して切腹した。高野は西暦1,844年に牢を出て逃亡を続けたが、西暦1,850年12月3日に捕縛され、護送の駕籠の中で自ら喉を突く。高野を匿った蘭方医高野隆仙もまた、拷問の傷が癒えぬまま西暦1,859年に世を去った。
登場人物
- 山本音吉 宝順丸の水夫。西暦1,834年1月にケープ・アラバ付近へ漂着した後の生存者3名の一人で、マカ族に使役され、ウイリアム・マックネルに救出された。イーグル号でロンドンへ渡り、ジェネラル・パーマー号でマカオへ運ばれ、カール・ギュツラフの下で新約聖書の翻訳に協力した。モリソン号で日本へ向かうも二度の砲撃に阻まれ、西暦1,837年8月13日、丸坊主になって祖国を捨てる覚悟を示した。
- 久吉 宝順丸の水夫。音吉・岩吉と共に漂着から救出、ロンドン、マカオへと運ばれた。西暦1,836年6月20日には、宣教師サミュエル・ウィリアムズが此の人物と英語で交わした会話の内容が書き留められている。
- 岩吉 宝順丸の水夫。音吉・久吉と共に14ヶ月の漂流を生き延び、マカ族の下から救い出された後、ロンドンを経てマカオへ至り、ギュツラフの聖書翻訳に協力してモリソン号に乗った3名の一人。
- 原田庄蔵 天草を出港し長崎へ向かう船の船頭。西暦1,835年12月20日に悪天候で漂流を始め、米も水も尽きた末、西暦1,836年1月24日にルソン島北岸へ漂着した。水夫の寿三郎・熊太郎・力松と共にマニラを経て西暦1,837年3月にマカオへ到着し、先の3名と合わせて七人の漂流民が揃う事となった。
- カール・ギュツラフ 駐清イギリス商務庁の中国語通訳官。宣教師ロバート・モリソンの日本伝道の志を受け継いだ人物で、マカオの自宅に漂流民3名を預かり、其の協力を得て「約翰福音之伝」「約翰上中下書」を訳した。送還にはヒマレー号の使用を訴えたが容れられず、西暦1,837年7月15日、ローレィ号からモリソン号へ乗り換えて江戸へ向かった。
- チャールズ・キング オリファント商会広東支配人。日本人がイギリス軍艦で来航したと知られれば疑惑を招くとして軍艦による送還案に反対し、モリソン号での渡航を実現させた。西暦1,837年7月30日には野比村で漁師等200名を後甲板へ招いてワイン・ビスケット・パンを振る舞い、8月10日の山川港では漂流民の送還と通商を求める書簡を役人へ手渡した。
- インガソル モリソン号の船長。西暦1,837年7月31日、白旗を揚げてもなお続く砲撃を受け、此れ以上江戸湾の奥へ進むのは危険であり日本側との交渉の余地も無いと判断して退却を決めた。退く際、現地の日本人へ自分達の国籍と来航目的を役人に伝えて欲しいと頼んだが、伝わらなかった。
- ロバート・モリソン 日本へのプロテスタント伝道を目指していた宣教師。西暦1,834年8月1日に死去し、其の名が商船モリソン号の由来となった。日本伝道の志は、カール・ギュツラフへと引き継がれた。
- ウイリアム・マックネル ハドソン湾会社の商船ラーマ号の船長。獣皮類の取引の為に年に1、2度インディアンを訪れており、西暦1,834年8月頃、使役されていた音吉・久吉・岩吉を見付けて買い取り救出した。3名を伴ってコロンビア川を遡行し、ハドソン湾会社の毛皮工場へ向かった。
- キャプテン・エリオット 駐清イギリス商務庁の次官。マカオで漂流民の取り調べを行い、クルーゼンシュテルンの日本地図を見せた際に3名が名古屋と江戸の沿岸を辿ってみせた事から、日本人であると確信した。西暦1,835年12月25日には、外国船での送還は危険でありイギリス船を用いるべきだとして、翌年4月下旬に軍艦1隻をマカオへ送る様求める書簡を送っている。
- 太田運八郎 浦賀奉行。西暦1,837年7月28日に異国船発見の報を受けて江戸へ報告し、30日には与力中嶋清司等を見届けに出港させ、観音崎御備場には平井藤右衛門を、自身は平根山御備場へ入って砲撃に当たった。老中松平乗寛・水野忠邦・太田資始・松平信順の4名へ、二日に渡って打払の実行を報告している。
- 島津久風 鹿児島藩家老。西暦1,837年8月、山川へ派遣されてモリソン号との交渉に当たった。異国船打払令を伝え、漂流民はオランダを介して送還する様に告げて薪水と食糧を与え、12日には砲撃を指示したが、其れは全て空砲であった。
- 水野忠邦 老中。西暦1,838年7月、第95代長崎奉行久世広正を経てオランダ風説書を受け取り、モリソン号の来航目的を知った。昌平坂学問所大学頭林述斎等に意見を求め、評定所の強硬な答申には危惧を抱いて再度の上書を促し、諸機関にも独自の上書を命じた末、漂流民を引き取る穏健策を採用した。
- 渡辺崋山 南蛮学同好会「蛮社」の一人。西暦1,838年11月21日、尚歯会の席で芳賀市三郎からモリソン号来航の評議書の写しを見せられた。西暦1,839年6月24日に北町奉行所からの差紙により出頭して投獄され、翌年田原藩への蟄居を命じられる。西暦1,841年11月23日、第11代田原藩主三宅康直に罪が及ぶ事を恐れ、「餓死るとも二君に仕ふべからず」との遺書を残して切腹した。
- 高野長英 蛮社の一人。西暦1,838年12月7日、「戊戌夢物語」を公表してイギリスの国力を具体的な数字で示し、漂流民を送り届けるという意図が明らかである以上打ち払えば日本は不仁の国と見なされるとして、異国船打払令を否定した。西暦1,839年に投獄され永牢を宣告されたが、西暦1,844年8月13日に牢へ火を放たせて「切り放ち」で外へ出た儘逃亡し、西暦1,850年12月3日、青山百人町で捕縛された末に自刃した。
- 高野隆仙 大間木(現在の埼玉県さいたま市緑区)の蘭方医で、高野長英の門人。西暦1,844年9月頃、脱獄した長英を離座敷に匿った。迎え駕籠で鴻巣の同心詰所へ連れ去られ石抱の拷問を受けたが、長英の行き先について一切口を割らなかった。西暦1,859年、拷問の傷が癒えぬまま死去した。
本書が記録する出来事
- 宝順丸の漂流 西暦1,832年10月22日、廻米と陶磁器を江戸へ運ぶ為に小野浦を出た宝順丸が時化で鳥羽浦へ入り、11月3日に出港した直後、暴風雨で帆柱と舵を失って漂い始めた。船頭樋口重右衛門以下14名を乗せた此の一隻が、本書の全ての起点となる。
- ケープ・アラバへの漂着 西暦1,834年1月、14ヶ月の漂流の末にアメリカのワシントン州ケープ・アラバ付近へ流れ着いた宝順丸。生存者は山本音吉・久吉・岩吉の3名のみで、他は壊血病で死亡していた。3名はマカ族に捕らえられ、奴隷同然に使役された。
- ラーマ号による救出 西暦1,834年8月頃、ハドソン湾会社の商船ラーマ号の船長ウイリアム・マックネルが3名を見付けて買い取り、救出した一件。3名はコロンビア川を遡って毛皮工場へ運ばれ、11月にはフォート・バンクーバーからイーグル号でロンドンへ向かった。
- ロンドンへの航海 西暦1,834年12月にオアフ島へ寄港し、西暦1,835年5月13日にロンドンへ到着、28日に出発した往復。帰路でジェネラル・パーマー号に乗り換えた3名は、同年12月に内伶停島へ着いた。日本へ帰る為に、地球を半周する事となった航路である。
- マカオでの身元の確認 駐清イギリス商務庁長官ジョージ・ベスト・ロビンソンへ引き渡された3名が、白鴿巢公園近くのカール・ギュツラフの自宅へ預けられた経緯。次官キャプテン・エリオットがクルーゼンシュテルンの日本地図を見せると、3名は名古屋と江戸の沿岸を辿ってみせ、日本人である事が確信された。
- 原田庄蔵等の漂流 西暦1,835年12月20日、天草を出て長崎へ向かう途中で漂流を始めた船頭原田庄蔵と水夫寿三郎・熊太郎・力松の四人。西暦1,836年1月10日に米と水が尽き、24日にルソン島北岸へ漂着、2月22日にマニラへ向けて移動し、西暦1,837年3月にマカオへ到着した。
- 約翰福音之伝の翻訳と出版 カール・ギュツラフが西暦1,835年12月から音吉等3名の協力を得て進め、西暦1,836年11月に完成させた新約聖書の一部の和訳。西暦1,837年5月、シンガポールのアメリカ外国伝道協会の印刷所「堅夏書院」から木板刷りで出版されたが、誤りが多く、尾張の方言が混じっていた。
- 送還船を巡る三つの案 ギュツラフが訴えたヒマレー号案、イギリス商務庁長官チャールズ・ポーレット・トムソンが出したローレィ号で琉球へ運ぶ案、そしてチャールズ・キングの反対を経て採られた、ギュツラフのみローレィ号・漂流民7名はモリソン号という代替案。日本側の疑惑を招かぬ配慮が、船の選定を左右した。
- 那覇での補給 西暦1,837年7月12日11時に琉球王国の那覇へ到着したモリソン号が、13日に飲み水・塩・卵・瓜を、14日に飲み水・山羊・豚・サツマイモを受けた一件。キングが金貨で支払おうとした所、琉球では流通していない為に断られ、代わりにポケット字典とハンカチを贈った。
- 浦賀での砲撃 西暦1,837年7月30日、異国船打払令に則って行われた砲撃。11時に観音崎・平根山と洲崎砲台が合砲を交わして準備を整え、モリソン号は平根山と観音崎から砲撃を受けて14時に野比村へ停泊した。翌31日6時には、夜の内に海岸へ移された4門の大砲が火を噴き、白旗を揚げても止まなかった。
- 野比村でのもてなし 砲撃を受けて停泊したモリソン号の後甲板で、キング夫妻が現地の漁師等200名を招いてワイン・ビスケット・パンを振る舞い、さらし木綿やアメリカの貨幣を与えた場面。役人の来訪を待ったが、遂に誰も来なかった。
- 山川港での交渉と空砲 西暦1,837年8月10日、モリソン号が山川港で漂流民の送還と通商を求める書簡を役人へ託し、島津斉興に取り次がれた一件。家老島津久風は異国船打払令を伝え、漂流民はオランダを介して送還する様に告げて薪水と食糧を与え、12日には砲撃を指示したが、全て空砲であった。
- 幕府の評議と穏健策 西暦1,838年7月、水野忠邦がオランダ風説書によってモリソン号の来航目的を知り、林述斎等の幕閣に意見を求めて行われた評議。評定所は「漂流民受け取りの必要無し。再来の場合は再び打ち払うべし」と答申したが、水野は再度の上書を促し、最終的に漂流民を引き取る政策を実行した。
- 戊戌夢物語 西暦1,838年12月7日に高野長英が公表した書。具体的な数字でイギリスの国力を示し、清に於けるイギリスの立場や、其の勢力が日本近海の島々に及んでいる事を明らかにした上で、漂流民を送り届けるという人道的な意図が明らかである以上、打ち払えば日本は不仁の国と見なされるとして幕政を批判した。
- 蛮社の獄 西暦1,839年6月24日の渡辺崋山の投獄と、28日に自首した高野長英の投獄に始まる弾圧。西暦1,840年1月22日、第29代南町奉行筒井政憲は渡辺に田原藩への蟄居を、高野に永牢を言い渡した。渡辺は西暦1,841年11月23日に切腹し、其の絵を売る義会が「罪人身を慎まず」と評された事も背景にあった。
- 高野長英の脱獄と最期 西暦1,844年8月13日、伝馬町牢屋敷で働いていた非人栄蔵に火を放たせ、「切り放ち」で外へ出た儘逃亡した高野長英。門人高野隆仙に匿われた後も潜伏を続け、西暦1,850年4月頃には青山百人町で沢三伯と名乗り、硝酸で顔を焼いて人相を変えて町医者を営んだが、12月3日に密告によって捕縛され、護送の途中で自刃した。
宝順丸の漂流から蛮社の獄へ──
モリソン号事件が二十七年に及ぼした連鎖を一元化。
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