電子書籍「宝永の富士山大噴火一元化」の表紙

宝永の富士山大噴火一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,703年12月31日〜1,747年
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
17ページ
最新更新日
西暦2,026年8月4日

西暦1,707年12月16日10時、富士山が火を噴いた──
降り積もった灰と、其の後四十年の記録を一元化。

JPY 200(税込)

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,703年12月31日の2時、野島崎(現在の千葉県南房総市白浜町白浜)を震源とするM8.2の地震が起きた。犬吠埼(現在の千葉県銚子市)から下田(現在の静岡県)に至る沿岸が津波に襲われ、死者は10,000名を超え、被災家屋は30,000戸に及んだ。小田原藩の皆瀬川村(現在の神奈川県足柄上郡山北町)では58戸の内51戸が倒壊している。小田原藩は江戸幕府から15,000両の支給を受けたが、城廻りの普請金100,000両と町郷中への手当金60,000両を要し、財政は既に傾いていた。本書は、其の地震から四年後に富士山が火を噴き、灰に埋もれた村々が四十年を掛けて元の姿を取り戻す迄の全過程を、年月日単位で一元化した記録である。

予兆は早くから在った。西暦1,704年2月4日、富士山の山麓で山鳴りが始まり、6日と7日には激しい山鳴りが起きている。そして西暦1,707年10月28日の14時、紀伊半島の南端から20kmの海底を震源とするM8.4の地震が発生し、津波によって死者20,000名超、倒壊・流出家屋80,000戸という被害を出した。翌29日の6時には富士宮(現在の静岡県)付近で余震が起き、12月3日頃には再び山麓で山鳴りが始まる。12月15日の夜、数十回に渡る強い地震が山麓を揺さぶり——そして翌16日の10時、富士山が噴火した。

降灰が最も多かったのは、小田原藩の須走村(現在の静岡県駿東郡小山町)である。冨士浅間神社(現在の静岡県駿東郡小山町須走字日向)の神主小野家を含む37戸と、冨士浅間神社を含む3寺院が焼失し、香積寺・西寿院・永昌寺を含む39戸が倒壊した。焼失を免れた残りの39戸も、12月20日迄に降り積もった3mを超える火山灰の重みと度重なる震動に耐えられず潰れている。0.8m程の灰が降った皆瀬川村では、丹沢山中に散在する80戸の内12戸が倒れた。四年前の地震で倒れた家をようやく建て直した所であり、二度共被災した者もいた。噴火が終息したのは、年が明けた西暦1,708年1月1日の未明である。

灰の下に残されたのは、耕せない田畑と食糧の無い冬であった。西暦1,708年2月5日、現在の神奈川県足柄上郡・足柄下郡の104村の代表は品川で小田原藩の役人と会い、御救米20,000俵(7,400石相当)と飢人扶持の支給を取り付ける。しかし2月10日、飢人の基準が村毎にばらばらであるとして支給は見送られ、13日に郡奉行杉山小右衛門等から示されたのは、20,000俵の内10,000俵のみを米で渡し、残りは後日金銭で渡すという説明であった。15日には金子村(現在の神奈川県足柄上郡大井町)で郡中寄合が、16日には荻窪村(現在の神奈川県小田原市)寺町の観音堂で寄合が開かれて訴状が作られ、18日には川村山北村を始めとする5村が104村から離れ、本田畑の御朱印高では無く被害面積を基準に算出して欲しいと独自に訴え出た。そして3月10日、品川での約束は、遂に果たされなかった。

西暦1,708年2月24日、江戸幕府は被害の大きかった足柄地方(現在の神奈川県)と御厨地方(現在の静岡県御殿場市)の村を上知して天領とした。小田原藩からは56,384石が取り上げられ、代わりに岐阜・静岡・愛知・兵庫の村が与えられている。28日には第7代関東郡代伊奈忠順が砂除川浚奉行に就任して被災地の最高責任者となり、同じ日、天領と諸国に100石当たり金2両の高役金が課された。集まった金488,770両・銀1貫870目の内、240,000両は江戸城北の丸御殿の建設費用として備蓄され、被災地の支援に使われたのは160,000両であった。3月1日には第7代小田原藩主で老中の大久保忠増が5名の大名に酒匂川・内山川・皆瀬川・川音川・金目川の浚渫を、第4代小倉藩主小笠原忠雄に狩川の浚渫を、御手伝い普請として命じている。

伊奈忠順の名は、以後の頁に繰り返し現れる。西暦1,709年4月頃、須走村を始めとする現在の静岡県駿東郡の39村の代表が江戸の伊奈の屋敷に出訴し、食糧が碌に無く餓死者が出ている事、他藩で乞食に身を落とし、行き倒れとなった死骸が送り届けられる事を訴えた。伊奈は家臣を現地に遣わし、飢え人1人に5文を5日分という御救金を出すが、焼け石に水であった。6月には目付河野通重と共に酒匂川を遡り、28日には用沢村(現在の静岡県駿東郡小山町)を視察している。7月頃に作られた砂除け普請の見積帳は、58村で170,000両に上ったが、此の普請が実現する事は無かった。10月頃、伊奈は勘定奉行荻原重秀の屋敷の勘定所へ御厨地方の村の代表3名を連れて行き、役人達に直接窮状を聞かせている。砂除金の支給が決まったのは、西暦1,710年1月頃の事であった。

山を離れた灰は、川を襲った。西暦1,708年8月8日の大雨で大量の火山灰が酒匂川に流れ込み、岩流瀬(現在の神奈川県足柄上郡山北町岸)と大口(現在の神奈川県南足柄市斑目)の堤が切れて、下流右岸の村々が土砂に埋まる。西暦1,711年9月11日にも大口堤が決壊し、新しい流路となった斑目村を始めとする6村の訴願は実らなかった。西暦1,726年、大岡忠相の命を受けた田中休愚が弁慶枠や蛇籠を用いて両堤を再建したが、西暦1,734年9月5日の未明には岩流瀬・大口・鬼柳村の3堤が同時に切れ、今度は東岸にも溢れて70名程が犠牲となった。堅固な堤が築かれたのは、田中休愚の娘の夫蓑正高の手による。天領とされた元小田原藩領は西暦1,716年に約半分が、西暦1,747年に全てが藩に戻ったが、石高は噴火以前より10,120石少なくなっていた。本書は、其の四十四年間を一冊に束ねている。


登場人物

  • 伊奈忠順 第7代関東郡代。西暦1,708年2月28日に砂除川浚奉行へ就任し、富士山噴火の被災地に於ける最高責任者となった。職制上は勘定奉行荻原重秀の配下にあった。西暦1,709年4月頃には現在の静岡県駿東郡の39村の代表から江戸の屋敷で直訴を受け、6月には目付河野通重と共に酒匂川を視察、7月頃には58村で170,000両に上る砂除け普請の見積帳を作らせ、10月頃には荻原重秀の勘定所へ村の代表を連れて行って窮状を訴えさせた。西暦1,710年1月頃、御厨地方への砂除金の支給を決定している。
  • 大久保忠増 第7代小田原藩主で老中。西暦1,707年12月16日の噴火に際しては江戸に在り、家臣柳田久左衛門に被害状況を調べさせた。西暦1,708年3月1日、第6代大野藩主土井利知・第5代岡山藩主池田綱政・第5代熊本藩主細川綱利・第2代熊本新田藩主細川利昌・第2代鳥取新田藩主池田仲央の5名に、御手伝い普請として酒匂川・内山川・皆瀬川・川音川・金目川の浚渫工事を命じた。
  • 荻原重秀 勘定奉行。西暦1,708年2月7日、若年寄稲垣重富が被災地の領主に火山灰の除去を命じた際、詳細は此の人物に相談する様にと指示された。伊奈忠順は職制上其の配下に置かれ、西暦1,709年10月頃には御厨地方の村の代表3名が、其の屋敷の勘定所で直接窮状を語る事となった。
  • 稲垣重富 若年寄。西暦1,708年2月7日、武蔵・相模・駿河に於ける富士山噴火の被災地の領主に対し、火山灰を放置している村には今春の耕作前に取り除かせる事、自力で除去出来ない村にも先ず取り掛からせる事、調査の上で支援を行う迄は領民を飢えさせない事を命じた。
  • 河野通重 目付。西暦1,709年6月頃、伊奈忠順と共に度々水害を起こす酒匂川を視察し、22日には御厨地方へ向けて出発、28日には用沢村を視察した。同村からは、砂除け御普請願と村絵図が提出されている。
  • 柳田久左衛門 大久保忠増の家臣。西暦1,707年12月16日の富士山噴火の後、江戸に居た主君の命を受けて、須走村や皆瀬川村を含む領内の被害状況の調査に当たった。
  • 青木仁右衛門・大西角野右衛門 小田原藩の中筋代官。西暦1,708年1月17日、山家筋(現在の神奈川県足柄上郡山北町)に飢人扶持の支給を通達し、皆瀬川村・都夫良野村・湯触村は川村山北村で、世附村・中川村・玄倉村は川西村で扶持米を受け取る様に定めた。同年2月18日には、104村から離脱した5村の訴状を受け取っている。
  • 杉山小右衛門 小田原藩の郡奉行。西暦1,708年2月13日、地方役所に呼び出された104村の惣代に対し、他の3名の郡奉行と共に御救米の支給を説明した。村の石高と火山灰の厚さに応じて割り付けるとし、20,000俵の内10,000俵は米で直ぐに支給するが残りは後日金銭で渡す、御救いは此れだけでは無く追加が有る、と口頭で伝えている。
  • 大岡忠相 西暦1,726年、田中休愚に命じて、噴火の灰が齎した洪水で幾度も切れた岩流瀬と大口の両堤を再建させた。
  • 田中休愚 大岡忠相の命を受け、西暦1,726年に岩流瀬と大口の両堤を再建した人物。弁慶枠や蛇籠を用いて水勢を弱める工夫も施した。西暦1,734年9月5日に3堤が決壊した後、堅固な堤防を築いたのは、其の娘の夫である蓑正高であった。
  • 蓑正高 田中休愚の娘の夫。西暦1,734年9月5日の未明に岩流瀬・大口・鬼柳村の3堤が決壊し、東岸にも氾濫して70名程の犠牲者を出した後、堅固な堤防を築いた。結果として水害は激減し、西暦1,757年迄水害が発生する事は無かった。
  • 大久保忠方 第9代小田原藩主。西暦1,718年10月頃の冨士浅間神社の再建に際し、藩財政の苦しい中、白銀10枚・槻20本・鳥居材木杉6本を寄進した。

本書が記録する出来事

  • 元禄地震 西暦1,703年12月31日2時、野島崎を震源とするM8.2の地震。犬吠埼から下田の沿岸で津波が起き、死者10,000名超・被災家屋30,000戸。皆瀬川村では58戸中51戸が倒壊した。小田原藩は江戸幕府から15,000両を受けたが、城廻りの普請金100,000両と町郷中への手当金60,000両を要して財政難に陥る、本書の起点となる災害。
  • 富士山山麓の山鳴り 西暦1,704年2月4日に始まり、6日・7日には激しさを増した山鳴り。噴火の三年余り前に記録された最初の兆候であり、西暦1,707年12月3日頃にも再び山麓で山鳴りが始まっている。
  • 宝永地震 西暦1,707年10月28日14時、紀伊半島の南端から20kmの所を震源とするM8.4の地震。津波による被害が大きく、死者20,000名超・倒壊流出家屋80,000戸。翌29日6時には、富士宮付近で余震とされる地震が起きた。
  • 富士山の噴火 西暦1,707年12月15日の夜、山麓で数十回に渡る強い地震が起きた翌16日の10時に始まり、西暦1,708年1月1日の未明に終息した噴火。此の間に降り積もった灰が、以後四十年に及ぶ被災地の困難の全てを生んだ。
  • 須走村の焼失と倒壊 降灰が最も多かった村。冨士浅間神社の神主小野家を含む37戸と、冨士浅間神社を含む3寺院が焼失し、香積寺・西寿院・永昌寺を含む39戸が倒壊。焼失を免れた39戸も、12月20日迄に3mを超えて積もった灰の重みと震動で潰れた。21日には徒目付等が視察に訪れている。
  • 皆瀬川村の二度の被災 0.8m程の灰が降り、丹沢山中に散在する80戸の内12戸が倒壊した村。西暦1,703年の地震で倒れた家を建て直したばかりであり、二度共被災した者もいた。西暦1,708年2月頃には559名が1合を10日分受け取ったが餓死者が出て、体力の有る者は小田原や沼津へ出稼ぎや奉公に出た。
  • 品川での約束と御救米20,000俵 西暦1,708年2月5日、現在の神奈川県足柄上郡・足柄下郡の104村の代表が品川で小田原藩の役人から取り付けた、御救米20,000俵(7,400石相当)と飢人扶持の支給。2月10日には飢人の基準がばらばらである事を理由に支給が見送られ、3月10日、此の約束は結局果たされなかった。
  • 104村の訴願と5村の離脱 西暦1,708年2月15日の金子村での郡中寄合、16日の荻窪村寺町の観音堂での寄合と訴状の作成、そして18日、川村山北村・川村岸村・川村向原村・松田庶子村・松田惣領村の5村が104村から離脱して提出した独自の訴状。山付きの村は本田畑の御朱印高では実態より少なく見積もられる為、被害面積を基準に算出して欲しいと訴えた。
  • 足柄・御厨の上知 西暦1,708年2月24日、江戸幕府が被害の大きかった足柄地方と御厨地方の村を上知して天領とした措置。小田原藩からは56,384石が取り上げられ、代わりに岐阜・静岡・愛知・兵庫の村が与えられた。支藩の松長藩も領地6,000石を移され、旗本稲葉正辰領も村替えとなった。
  • 高役金と江戸城北の丸御殿 西暦1,708年2月28日、被災地支援の為に天領・諸国へ課された100石当たり金2両の負担。集まった金488,770両・銀1貫870目の内、240,000両は江戸城北の丸御殿の建設費用として備蓄され、被災地支援に使われたのは160,000両であった。
  • 御手伝い普請 西暦1,708年3月1日、大久保忠増が土井利知・池田綱政・細川綱利・細川利昌・池田仲央の5名に命じた酒匂川・内山川・皆瀬川・川音川・金目川の浚渫工事。小笠原忠雄も別に狩川の浚渫を命じられ、此の6藩は同年7月頃迄工事に従事した。
  • 御救夫食石代金と砂退け御救金 火山灰の高さが0.9m以上の村へ支給された金銭と、0.9m未満の村へ支給された金銭。4月頃と12月頃の年2回、灰の深さに応じて300文から1分/aが渡されたが、西暦1,709年4月頃に終了した。須走村には、西暦1,708年9月頃に焼失37戸へ1,333両・倒壊39戸へ1,811両の家作御救金も支給されている。
  • 駿東郡39村の出訴と砂除け普請の見積 西暦1,709年4月頃、須走村を始めとする39村の代表が江戸の伊奈忠順の屋敷へ出向き、餓死者や行き倒れの実情を訴えて、前年の見積り通りの御普請か、村人全員への3年間の御救金を求めた一件。7月頃に作られた砂除け普請見積帳は58村で170,000両に上ったが、普請が実現する事は無かった。
  • 酒匂川の決壊と堤の再建 西暦1,708年8月8日の大雨で灰が流れ込み、岩流瀬と大口の堤が切れて下流右岸が埋まった事に始まる水害の連鎖。西暦1,711年9月11日にも大口堤が決壊し、西暦1,726年に田中休愚が両堤を再建、西暦1,734年9月5日には3堤が同時に切れて70名程が犠牲となった。蓑正高の築いた堤により、西暦1,757年迄水害は起きなかった。
  • 冨士浅間神社の再建と領地の復帰 西暦1,715年に寺社奉行が江戸市中での勧進を許可し、西暦1,718年10月頃に再建された冨士浅間神社。上知された元小田原藩領は西暦1,716年に約半分が、西暦1,747年に全てが藩へ戻ったが、石高は西暦1,707年12月16日の噴火以前と比べ10,120石少なくなっていた。

元禄地震から石高10,120石の減少へ──
宝永の富士山大噴火と被災地の四十四年間を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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