宝永の
富士山大噴火
一元化
野島崎震源M8.2元禄地震と犬吠埼下田沿岸津波10,000名超犠牲・小田原藩皆瀬川村58戸中51戸倒壊・15,000両支給と100,000両城廻り普請金60,000両町郷中手当金の財政難・富士山山麓山鳴り・紀伊半島震源M8.4宝永地震20,000名超犠牲・富士宮余震・1707年12月16日10時富士山噴火・須走村冨士浅間神社神主小野家含む37戸焼失と香積寺西寿院永昌寺含む39戸倒壊・3m超火山灰重みによる残39戸倒壊・噴火終息・松長藩棚頭村飢人扶持・中筋代官青木仁右衛門大西角野右衛門通達・皆瀬川村1合10日支給と餓死者・品川での御救米20,000俵7,400石相当取り付け・若年寄稲垣重富火山灰除去命令・「御救いは此れだけではない、追加がある」誘導と品川約束不履行・川村山北村等5村独自訴状提出・足柄御厨地方上知と小田原藩56,384石上知岐阜静岡愛知兵庫村替え・第7代関東郡代伊奈忠順砂除川浚奉行就任・100石当2両高役金488,770両徴収と240,000両江戸城北の丸御殿建設費用備蓄・大久保忠増命土井利知池田綱政細川綱利細川利昌池田仲央小笠原忠雄6名酒匂川内山川皆瀬川川音川金目川狩川浚渫工事・大雨岩流瀬大口堤決壊・須走村1,333両家作御救金・御救夫食石代金砂退け御救金終了・駿東郡39村伊奈忠順屋敷出訴・河野通重伊奈忠順酒匂川視察・御厨地方58村170,000両見積不実現・大口堤再決壊・冨士浅間神社再建勧進と大久保忠方寄進・大岡忠相命田中休愚岩流瀬大口両堤再建と弁慶枠蛇籠・小田原藩9村6,000石代知無し上知・3堤決壊70名犠牲と蓑正高堅固堤防・1747年元小田原藩領全復帰10,120石減──
「御救いは此れだけではない。追加がある」──守られなかった品川の約束と江戸城北の丸へ流れた240,000両、永久に戻らなかった10,120石の44年余りを一冊に。
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本書について
西暦1703年12月31日2時、野島崎を震源としたM8.2の元禄地震が発生し、小田原藩が30,000戸の被災家屋に対し江戸幕府からの15,000両の支給と100,000両の城廻り普請金・60,000両の町郷中手当金で財政難に陥った日から、西暦1747年に小田原藩が宝永富士山噴火以前と比べ10,120石の石高減を抱えた儘で天領化されていた元領地の全てを復帰させた日まで。本書は、宝永の富士山大噴火と其れに伴う酒匂川の度重なる氾濫・小田原藩56,384石の上知と40年に亙る部分復帰・天領諸国への100石当2両の高役金徴収と240,000両の江戸城北の丸御殿建設費用への流用・須走村の37戸焼失39戸倒壊・足柄地方104村と御厨地方39村の村方訴願運動・「御救いは此れだけではない、追加がある」と口頭で誘導された品川での御救米約束の不履行——以上の被災地支援を巡る一連の事件群を、元禄地震から領地復帰まで月日単位で時系列に一元化した電子書籍です。本書の核となるのは、1707年12月16日10時の富士山噴火と1708年1月1日未明の終息までの僅か2週間余りの噴火本体と、其の後の1708年2月から3月にかけての小田原藩領上知・酒匂川浚渫工事・高役金徴収、そして1726年・1734年の田中休愚と蓑正高による岩流瀬・大口堤の二度に亙る再建——です。10,000名超の犠牲を出した元禄地震・20,000名超の犠牲を出した宝永地震を呼び水とし、3m超の火山灰が須走村を埋め、240,000両が江戸城北の丸へ流れ、10,120石が永久に戻らなかった44年余りを一冊に束ねます。
西暦1703年12月31日2時、野島崎を震源としたM8.2の地震が発生し犬吠埼から下田の沿岸で津波が発生、地震と津波による死者は10,000名を超え被災家屋は30,000戸となりました。小田原藩皆瀬川村では58戸中51戸が倒壊し、小田原藩は江戸幕府から15,000両の支給を受けるも、城廻りの普請金100,000両・町郷中への手当金60,000両の出費が発生し財政難に陥りました。1704年2月4日、富士山山麓で山鳴りが始まり、2月6日・2月7日には激しい山鳴りが発生しましたが、其の後3年余りの沈黙を保ちます。1707年10月28日14時、紀伊半島の南端から20kmの所を震源としたM8.4の宝永地震が発生し、津波による被害から死者20,000名超・倒壊流出家屋80,000戸を出しました。10月29日6時には富士宮付近で前日の余震が発生、12月3日には富士山山麓で再び山鳴りが始まり、12月15日夜には数十回に渡る強い地震が発生しました。12月16日10時、遂に富士山が噴火し、降灰が最も多かった小田原藩須走村では冨士浅間神社の神主小野家を含む37戸と冨士浅間神社を含む3寺院が焼失、更に香積寺・西寿院・永昌寺を含む39戸が倒壊しました。0.8m程度の降灰のあった皆瀬川村では丹沢山中に散在する集落80戸の内12戸が倒壊し、1703年12月31日の地震で倒壊した家を建て直した所であった2度共被災した者もいました。江戸に居た第7代小田原藩主で老中の大久保忠増は家臣柳田久左衛門に被害状況を調べさせ、12月20日には降灰による焼失を免れた須走村の39戸が3m超の火山灰の重みや度重なる震動により倒壊、12月21日に徒目付等が須走村を視察し、1708年1月1日未明に噴火が終息しました。
西暦1708年1月4日、小田原藩の支藩であった松長藩が棚頭村25戸150名の内13戸41名に対し3月21日頃迄数度に分けて飢人扶持を支給、1月17日には小田原藩の中筋代官青木仁右衛門・大西角野右衛門が山家筋に飢人扶持の支給を通達しました。2月、皆瀬川村にて1合/人を10日分の支給を559名が受けるも餓死者が発生、体力のある者は出稼ぎや奉公に出ました。2月5日、現在の神奈川県足柄上郡・足柄下郡の104村の代表が品川にて小田原藩の役人から御救米20,000俵(7,400石相当)と飢人扶持の支給を取り付け、2月7日には若年寄稲垣重富が武蔵・相模・駿河の被災地の領主に対し春の耕作前の火山灰除去等を命じ詳細は勘定奉行荻原重秀に相談する様指示しました。2月13日、104村の惣代数名が地方役所に呼び出され杉山小右衛門等4名の郡奉行から「20,000俵の内10,000俵は米で直ぐに支給するが、残り10,000俵は後日金銭で渡す」「御救いは此れだけではない。追加がある。支給を希望する村は2月16日に小田原の地方役所に出頭し再度飢人帳を書いて提出する様に」と説明されるも、品川での約束は最終的に守られませんでした。2月18日、川村山北村・川村岸村・川村向原村・松田庶子村・松田惣領村の5村が104村連合から離脱し独自に訴状を提出、本田畑の御朱印高ではなく被害面積を基準とした算出を要望しました。2月24日、江戸幕府は足柄地方と御厨地方の村を上知し天領とし、小田原藩は56,384石が上知され岐阜・静岡・愛知・兵庫の村と村替えとなり、松長藩も6,000石を君沢郡等に移されました。2月28日、第7代関東郡代伊奈忠順が砂除川浚奉行に就任し被災地の最高責任者となり、同日江戸幕府は天領・諸国に対し100石当金2両の高役金を課し金488,770両・銀1貫870目が集まるも——其の内240,000両は江戸城北の丸御殿建設費用として備蓄され、被災地支援には僅か160,000両が使われるに過ぎませんでした。3月1日、大久保忠増は第6代大野藩主土井利知・第5代岡山藩主池田綱政・第5代熊本藩主細川綱利・第2代熊本新田藩主細川利昌・第2代鳥取新田藩主池田仲央の5名に酒匂川・内山川・皆瀬川・川音川・金目川の浚渫工事を命じ、第4代小倉藩主小笠原忠雄にも狩川の浚渫工事を命じました。8月8日、大雨により大量の火山灰が酒匂川に流入し岩流瀬と大口の堤が決壊、下流右岸の村々が土砂で埋まり、9月には須走村に対し焼失37戸へ1,333両・倒壊39戸へ1,811両の家作御救金が支給されました。
西暦1709年4月、火山灰の高さが0.9m以上の村への「御救夫食石代金」と0.9m未満の村への「砂退け御救金」の支給が終了し、其の月須走村を始めとする現在の静岡県駿東郡39村の代表が江戸の伊奈忠順屋敷に出訴、餓死者多数・他藩で乞食となる者・行き倒れの死骸送り届け等を訴え、前年提出の見積り通りの御普請実施か村人全員への3年間1人銀1匁/日の御救金支給を求めました。6月22日、伊奈忠順と目付河野通重が酒匂川を出発し御厨地方を視察、6月28日に用沢村から砂除け御普請願と村絵図を受領、7月に伊奈の家臣による砂除け普請見積帳が58村170,000両に上るも実現せず、10月に伊奈は荻原重秀の屋敷の勘定所に御厨地方の村々の代表3名を連れて行き窮状を聞かせ、1710年1月に砂除金の支給が決定されました。1711年9月11日、大雨により大口堤が再度決壊、新流路となった斑目村を始めとする6村が訴願運動をするも実らず放置されました。1715年に冨士浅間神社の再建の訴願を受けた寺社奉行が江戸市中での勧進を許可し、1716年に天領となった元小田原藩領の内約半分が小田原藩領に復帰、1718年10月に冨士浅間神社が再建され第9代小田原藩主大久保忠方が藩財政の苦しい中白銀10枚・槻20本・鳥居材木杉6本を寄進しました。1726年、大岡忠相の命を受けた田中休愚により岩流瀬と大口の両堤が再建され、弁慶枠や蛇籠を用いた水勢を弱める工夫も為されました。1732年、小田原藩は度重なる洪水に十分な対策を施せず江戸幕府に川除普請を願い出ていた金手村・西大井村・鬼柳村・桑原村・成田村・飯泉村等酒匂川沿いの9村6,000石を代知を受けない儘上知し、改出新田の内で補填する旨が申し渡された為上知された分は石高減となりました。1734年9月5日未明、岩流瀬・大口・鬼柳村の3堤が決壊し東岸にも氾濫して70名程度の犠牲者を出すも、其の後田中休愚の娘の夫蓑正高により堅固な堤防が築かれ1757年迄水害が発生する事はありませんでした。1747年、1708年2月28日に天領となった元小田原藩領が全て小田原藩領に復帰しましたが、1707年12月16日の富士山噴火以前と比べ石高が10,120石減少した儘での復帰でした——元禄地震10,000名超・宝永地震20,000名超の犠牲を呼び水とし、3m超の火山灰が須走村を埋め、240,000両が江戸城北の丸へ流れ、10,120石が永久に戻らなかった44年余りの全貌を一冊に束ねた書です。
主要登場人物
- 大久保忠増 第7代小田原藩主にして老中。1703年12月31日の元禄地震で藩領が甚大な被害を受け15,000両の支給に対し100,000両の城廻り普請金・60,000両の町郷中手当金で財政難に陥り、1707年12月16日の富士山噴火時には江戸に居て家臣柳田久左衛門に被害状況を調査させた。1708年2月8日に中筋代官を川村山北村に派遣して御意を説明、3月1日には御手伝い普請として土井利知・池田綱政・細川綱利・細川利昌・池田仲央の5名に酒匂川・内山川・皆瀬川・川音川・金目川の浚渫工事を、小笠原忠雄に狩川の浚渫工事を命じた、本書の主役にして元禄地震と宝永富士山大噴火の二度の天災に直面し56,384石の上知と財政破綻に追い込まれた藩主。
- 大久保忠方 第9代小田原藩主。1718年10月の冨士浅間神社再建に際し、藩財政の苦しい中、白銀10枚・槻20本・鳥居材木杉6本を寄進した、本書で噴火から11年後の神社再建を藩財政逼迫下で支えた後継藩主。
- 伊奈忠順 第7代関東郡代。1708年2月28日に砂除川浚奉行に就任し富士山噴火被災地の最高責任者となり職制上は荻原重秀の配下にあった。1709年4月に駿東郡39村の代表39村の代表から江戸屋敷で出訴を受け、5文/日5日分の御救金を急遽支給。6月22日に目付河野通重と共に酒匂川を出発し御厨地方を視察、6月28日に用沢村から砂除け御普請願と村絵図を受領、7月の家臣の砂除け普請見積帳58村170,000両は実現しなかったが、10月に荻原重秀の屋敷の勘定所に御厨地方の村々の代表3名を連れて行き窮状を聞かせ、1710年1月に砂除金の支給を決定させた、本書で江戸幕府の予算に阻まれつつも被災地に最も誠実に向き合った関東郡代。
- 荻原重秀 勘定奉行。1708年2月7日に若年寄稲垣重富から武蔵・相模・駿河の被災地領主への火山灰除去命令の詳細について相談先に指定され、伊奈忠順の上司として職制を統括した。1709年10月に伊奈が御厨地方の村々の代表3名を屋敷の勘定所に連れて行き窮状を聞かされ、1710年1月の砂除金支給決定の道筋を付けた、本書で被災地支援の予算と政策を握っていた幕府勘定奉行。
- 稲垣重富 若年寄。1708年2月7日に武蔵・相模・駿河に於ける富士山噴火被災地の領主に対し、降った火山灰をその儘放置している村は今春の耕作前に取り除く様言い付ける事・自力で火山灰を除去出来ない村も先ず取り掛からせる事・調査の上で支援を行うが其れ迄領民を飢えさせない様にする事・詳細は勘定奉行荻原重秀に相談する事、を命じた、本書で被災地復興の方針を初めて全領主に示した若年寄。
- 柳田久左衛門 大久保忠増の家臣。1707年12月16日の富士山噴火に際し、江戸に居た忠増から命を受けて被害状況を調査した、本書の冒頭で藩主に代わって被害の全貌を最初に把握した家臣。
- 青木仁右衛門 小田原藩の中筋代官。1708年1月17日に大西角野右衛門と共に山家筋に飢人扶持の支給を通達し、皆瀬川村・都夫良野村・湯触村は川村山北村で・世附村・中川村・玄倉村は川西村で扶持米を受け取る事を伝えた。1708年2月18日には川村山北村・川村岸村・川村向原村・松田庶子村・松田惣領村の5村から大西角野右衛門と共に独自の訴状を提出された、本書で藩領の飢え人救済の最前線に立った中筋代官。
- 大西角野右衛門 小田原藩の中筋代官。1708年1月17日に青木仁右衛門と共に山家筋に飢人扶持の支給を通達。1708年2月18日には川村山北村等5村から青木仁右衛門と共に被害面積基準での算出を求める独自の訴状を提出された、本書で青木と並んで山付きの村の窮状に直接向き合った中筋代官。
- 杉山小右衛門 小田原藩の郡奉行。1708年2月13日に104村の惣代数名に対し他3名の郡奉行と共に御救米支給の説明を行い、20,000俵の内10,000俵は米で直ぐに支給するが残り10,000俵は後日金銭で渡す事・「御救いは此れだけではない。追加がある」と口頭で説明したが、品川での約束は最終的に守られず104村の村方訴願運動の引き金を引いた、本書で果たされぬ約束を口頭で誘導した郡奉行。
- 河野通重 江戸幕府の目付。1709年6月に伊奈忠順と共に度々水害を起こす酒匂川を視察し、6月22日に御厨地方へ向けて酒匂川を出発、6月28日に用沢村を視察し砂除け御普請願と村絵図を受領した、本書で伊奈と並んで酒匂川と御厨地方の現地調査を担った目付。
- 土井利知 第6代大野藩主。1708年3月1日に大久保忠増から御手伝い普請として池田綱政・細川綱利・細川利昌・池田仲央と共に酒匂川・内山川・皆瀬川・川音川・金目川の浚渫工事を命じられ、同年7月頃迄工事に従事した、本書で御手伝い普請を命じられた5大名の一人。
- 池田綱政 第5代岡山藩主。1708年3月1日に大久保忠増から御手伝い普請として土井利知・細川綱利・細川利昌・池田仲央と共に酒匂川・内山川・皆瀬川・川音川・金目川の浚渫工事を命じられ、同年7月頃迄工事に従事した、本書で御手伝い普請を命じられた5大名の一人。
- 細川綱利 第5代熊本藩主。1708年3月1日に大久保忠増から御手伝い普請として土井利知・池田綱政・細川利昌・池田仲央と共に酒匂川・内山川・皆瀬川・川音川・金目川の浚渫工事を命じられ、同年7月頃迄工事に従事した、本書で御手伝い普請を命じられた5大名の一人。
- 細川利昌 第2代熊本新田藩主。1708年3月1日に大久保忠増から御手伝い普請として土井利知・池田綱政・細川綱利・池田仲央と共に酒匂川・内山川・皆瀬川・川音川・金目川の浚渫工事を命じられ、同年7月頃迄工事に従事した、本書で御手伝い普請を命じられた5大名の一人。
- 池田仲央 第2代鳥取新田藩主。1708年3月1日に大久保忠増から御手伝い普請として土井利知・池田綱政・細川綱利・細川利昌と共に酒匂川・内山川・皆瀬川・川音川・金目川の浚渫工事を命じられ、同年7月頃迄工事に従事した、本書で御手伝い普請を命じられた5大名の一人。
- 小笠原忠雄 第4代小倉藩主。1708年3月1日に大久保忠増から御手伝い普請として、5大名とは別件で狩川の浚渫工事を命じられ、同年7月頃迄工事に従事した、本書で5大名と並んで御手伝い普請を命じられ単独で狩川を担当した小倉藩主。
- 大岡忠相 江戸町奉行。1726年、度々の決壊で放置されていた酒匂川の岩流瀬と大口の両堤の再建を田中休愚に命じ、弁慶枠や蛇籠を用いた水勢を弱める工夫を為させた、本書で噴火から19年後の堤再建を主導した町奉行。
- 田中休愚 治水家。1726年に大岡忠相の命を受け、酒匂川の岩流瀬と大口の両堤を再建し、弁慶枠や蛇籠を用いた水勢を弱める工夫を為した。娘の夫蓑正高は1734年9月5日の3堤決壊後に堅固な堤防を築き1757年迄水害が発生する事を防いだ、本書で酒匂川治水の系譜の起点となった治水家。
- 蓑正高 田中休愚の娘の夫にして治水家。1734年9月5日未明、岩流瀬・大口・鬼柳村の3堤が決壊し東岸にも氾濫して70名程度の犠牲者を出した後、堅固な堤防を築き1757年迄水害が発生する事を防いだ、本書の終盤で田中の業を継ぎ酒匂川の水害を23年に亙り抑え込んだ娘婿。
野島崎震源M8.2元禄地震と犬吠埼下田沿岸津波10,000名超犠牲・小田原藩皆瀬川村58戸中51戸倒壊・15,000両支給と100,000両城廻り普請金60,000両町郷中手当金の財政難・富士山山麓山鳴り・紀伊半島震源M8.4宝永地震20,000名超犠牲・富士宮余震・1707年12月16日10時富士山噴火・須走村冨士浅間神社神主小野家含む37戸焼失と香積寺西寿院永昌寺含む39戸倒壊・3m超火山灰重みによる残39戸倒壊・噴火終息・松長藩棚頭村飢人扶持・中筋代官青木仁右衛門大西角野右衛門通達・皆瀬川村1合10日支給と餓死者・品川での御救米20,000俵7,400石相当取り付け・若年寄稲垣重富火山灰除去命令・「御救いは此れだけではない、追加がある」誘導と品川約束不履行・川村山北村等5村独自訴状提出・足柄御厨地方上知と小田原藩56,384石上知岐阜静岡愛知兵庫村替え・第7代関東郡代伊奈忠順砂除川浚奉行就任・100石当2両高役金488,770両徴収と240,000両江戸城北の丸御殿建設費用備蓄・大久保忠増命土井利知池田綱政細川綱利細川利昌池田仲央小笠原忠雄6名酒匂川内山川皆瀬川川音川金目川狩川浚渫工事・大雨岩流瀬大口堤決壊・須走村1,333両家作御救金・御救夫食石代金砂退け御救金終了・駿東郡39村伊奈忠順屋敷出訴・河野通重伊奈忠順酒匂川視察・御厨地方58村170,000両見積不実現・大口堤再決壊・冨士浅間神社再建勧進と大久保忠方寄進・大岡忠相命田中休愚岩流瀬大口両堤再建と弁慶枠蛇籠・小田原藩9村6,000石代知無し上知・3堤決壊70名犠牲と蓑正高堅固堤防・1747年元小田原藩領全復帰10,120石減──
「御救いは此れだけではない。追加がある」──守られなかった品川の約束と江戸城北の丸へ流れた240,000両、永久に戻らなかった10,120石の44年余りを一冊に。
JPY 200(税込)
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