電子書籍「正力松太郎一元化」の表紙

正力松太郎一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,924年2月〜1,966年7月25日
最新更新日
西暦2,026年1月22日

正力松太郎の警察官退職時上司後藤新平自宅抵当100,000円借入読売新聞社買収と第7代読売新聞社社長就任、アメリカ大リーグ選抜来日読売新聞社主催日米野球17戦アメリカ全勝・発行部数220,000部から270,000部増加、「野球統制令」公布、日本工業倶楽部「職業野球団発起人会」と市岡忠男・鈴木惣太郎・浅沼誉夫・三宅大輔働きかけ、横浜アメリカ大リーグ選抜来日18試合興業成功、「大日本東京野球倶楽部」創立と大隈信常取締役会長・京成電気軌道筆頭株主、大日本東京野球倶楽部アメリカ遠征とレフティ・オドール「ジャイアンツ」チーム名提案・129日間108試合75勝33敗・「東京巨人軍」改称、阪神電鉄事業課係長富樫興一中心「大阪野球倶楽部」設立、旧西武鉄道「東京セネタース」設立と有馬頼寧オーナー、正力松太郎中心「日本職業野球連盟」創立総会7球団加盟、「株式会社後楽園スタヂアム」設立、後楽園イーグルス経営関係解消と高橋龍太郎オーナー「イーグルス」改称、GHQ戦犯容疑59名逮捕命令と正力松太郎公職追放処分・東京巨人軍読売新聞社運営・「読売ジャイアンツ」改称・野球統制令廃止、正力松太郎不起訴巣鴨拘置所釈放とCIAエージェント約束引き換え釈放、正力松太郎日本野球連盟名誉総裁兼コミッショナー就任と辞任及び株式会社日本野球連盟取締役会長就任、東京會舘日本野球連盟顧問代表者会議2リーグ制実施決定と「太平洋野球連盟」・「セントラル野球連盟」設立、中曽根康弘等MRA(道徳再武装)世界大会出席、カール・ムントのマッカーサー「ビジョン・オブ・アメリカ」日本放送システム提案とマッカーサー拒否、マッカーサー解任、正力松太郎公職追放処分解除とマイクロ波無線中継伝送網構築計画発表、ヘンリー・ホールシューセンのアメリカ国務省ビジョン・オブ・アメリカ計画説明会開催、ペンタゴン・児玉誉士夫経由CIA資金提供「日本テレビ放送網」設立とアメリカ議会説得工作、正力松太郎の吉田茂・白洲次郎関連書簡、柴田秀利渡米とビル・ダナヴァン10,000,000ドル借款要請及びウィリアム・リチャーズ・キャッスル経由ウォルター・ロバートソン紹介、日本テレビ放送網本放送開始と新聞社69社・電電公社・原茂衆院議員等反対、第五福竜丸15,000,000t水爆実験被曝23名、中曽根康弘戦後初原子力予算上程と読売新聞社焼津通信部記者安部光恭朝刊社会面トップ報道、衆参両院電気通信委員会民間マイクロ回線業務非認可決議とマイクロ波無線中継伝送網構築計画頓挫、正力松太郎第27回衆院選富山2区初当選と鳩山一郎防衛庁長官入閣要請断り、読売新聞社・USIA「原子力平和利用博覧会」日比谷公園と全国9箇所開催、自民党・社会党全421議員連名「原子力基本法」成立、「原子力委員会」設置と正力松太郎委員長・湯川秀樹委員及び湯川秀樹辞任意向と森一久慰留、日本原子力研究所東海村設立決定と498,000,000円特殊法人設立、「科学技術庁」設置と正力松太郎初代科学技術庁長官、「原子燃料公社」設立と日本IAEA加盟、原子力委員会GCR・JPDR決定、東海発電所建設着工と兵器用プルトニウム生産主目的GCR採用、JPDR日本初原子力発電、東海発電所営業開始迄──
正力松太郎の読売新聞社買収を起点に、プロ野球連盟設立、GHQ戦犯容疑による公職追放とCIAエージェント約束による釈放、日本野球連盟2リーグ制への移行、ペンタゴン主導の日本テレビ放送網設立、第五福竜丸事件を機とした原子力推進、原子力基本法制定と原子力委員会・科学技術庁・日本原子力研究所設立、東海発電所営業開始に至った、正力松太郎の42年間の活動の系譜を年月日単位で追跡した一冊。

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本書について

西暦1,924年2月、正力松太郎が、警察官退職時の上司である後藤新平が自宅を抵当に入れて用立てた100,000円を借り入れ、読売新聞社を買収し、第7代読売新聞社社長に就任した。西暦1,931年10月30日、野球のアメリカ大リーグ選抜が来日した。正力松太郎が、発行部数を伸ばす為に手配した。翌月7日から同月30日迄の日程で、東京六大学野球チーム等と読売新聞社主催で日米野球が17戦行なわれ、アメリカ大リーグ選抜が全勝した。興行としては成功を収め、読売新聞社は開催前220,000部だった発行部数を270,000部に増加させた。西暦1,932年3月28日、「野球統制令」が公布された。小学校・中等学校・大学高等学校に分けて、学校長承認の無い大会への参加禁止・宿泊を伴う大会への参加禁止・営利企業の主催禁止・試合日を土曜の午後と休日に限定・入場料の徴収禁止・応援団の組織禁止等、又、文部省承認の無い外国遠征・来日外国チームとの試合の禁止、優勝旗・優勝牌以外の褒賞禁止、選手を広告宣伝に使う事の禁止、プロ選手との試合の文部省承認義務等が規定された。

西暦1,934年6月9日、日本工業倶楽部(現在の東京都千代田区丸の内)にて「職業野球団発起人会」が開かれた。①読売新聞社運動部長市岡忠男②読売新聞社運動部嘱託鈴木惣太郎③学習院野球部監督浅沼誉夫④元慶應義塾大学野球部監督三宅大輔の4名が、西暦1,932年3月28日に公布された野球統制令により、再度アメリカ大リーグ選抜を招聘したとしても、大学チームと対戦させる事が出来なくなった為、正力松太郎に、職業野球チームを設立する事を働き掛けていた。同月11日、職業野球団発起人会の創立事務所が開設された。同年11月2日、横浜にアメリカ大リーグ選抜が来日した。正力松太郎が招聘した。同月4日から翌月1日迄の日程で、日米野球が全国12都市18試合行なわれ、興業的にも成功を収めた。同年12月26日、日本工業倶楽部にて「大日本東京野球倶楽部」の創立総会が開かれた。経営陣は①大隈重信の娘婿で第12代平戸藩主松浦詮の五男の大隈信常(取締役会長)②正力松太郎(取締役)③元警視庁警部で読売新聞社庶務部長の庄田良④第2代京成電気軌道社長後藤圀彦⑤市岡忠男⑥第2代吉本興業社長林正之助で、株主としては①京成電気軌道(筆頭株主)②芝浦製作所③目黒蒲田電鉄④阪神電鉄⑤吉本興業⑥読売新聞社等が名を連ねた。

西暦1,935年2月14日、大日本東京野球倶楽部がアメリカ遠征に出発した。其の後、最初の目的地であるサンフランシスコに到着し、レフティ・オドールが監督を務める大リーグ傘下のAAAパシフィックコーストリーグ所属のサンフランシスコ・シールズと対戦した。オドールは、西暦1,931年・西暦1,934年の日米野球で、アメリカ大リーグ選抜の一員として来日していた。オドールは、大日本東京野球倶楽部マネージャー鈴木惣太郎に「大日本東京野球倶楽部というチーム名が長くて分かりにくい。ニックネームを付けたらどうだ」と、自身の在籍していた大リーグのナショナルリーグに所属する「ニューヨーク・ジャイアンツ」に因んで「ジャイアンツ」というチーム名を提案した。鈴木はオドールの案を採用し、アメリカ遠征中「東京ジャイアンツ」として活動した。129日間108試合の日程を熟し、75勝33敗という成績を残して帰国した。其の後大日本東京野球倶楽部は「東京巨人軍」と改称した。同年12月10日、阪神電鉄事業課係長富樫興一が中心となり、阪神電鉄を親会社として「大阪野球倶楽部」が設立された。球団幹部には、第4代・第6代首相を務めた松方正義の四男で浪速銀行頭取を務めた松方正雄が会長に就いた。本拠地は甲子園球場であった。西暦1,936年1月20日、旧西武鉄道が職業野球チーム「東京セネタース」を設立し、正力松太郎の呼び掛けに応じた貴族院議員有馬頼寧がオーナーに就任した。本拠地は上井草球場であった。

西暦1,936年2月5日12時、正力松太郎を中心として、日本工業倶楽部にて「日本職業野球連盟」の創立総会が開かれ、①東京巨人軍②大阪タイガース③名古屋軍④東京セネタース⑤阪急軍⑥新愛知新聞社傘下の國民新聞社⑦名古屋新聞社の7球団が加盟した。役員には、大隈信常(総裁)・東京セネタース理事長安藤信昭(副総裁)・松方正雄(副総裁)・正力(相談役)・小林一三(相談役)等が名を連ねた。同年12月25日、「株式会社後楽園スタヂアム」が設立された。役員には①衆議院議員田辺七六(取締役会長)②第22代東京米穀商品取引所理事長早川芳太郎(取締役社長)③初代帝国拳闘協会拳道社会長田邊宗英(専務取締役)が就き、株主として早川2,130株・水上金三郎1,500株・手塚丈夫1,380株・田邊1,300株・水上源太郎1,100株・投資家小田進平1,090株・共同印刷創業者大橋光吉の長男大橋松雄1,050株・小林一三1,000株・正力松太郎1,000株・東急電鉄創業者五島慶太200株・松竹共同創業者大谷竹次郎200株等が名を連ねた。西暦1,937年10月、後楽園イーグルスが、経営不振による株式会社後楽園スタヂアムと球団との意見の相違により、経営関係を解消した。其の後、正力松太郎の誘いにより、第3代大阪麦酒社長高橋龍太郎がオーナーとなり、球団名を「イーグルス」に改称した。

西暦1,945年12月2日、GHQが、戦犯容疑で梨本宮守正王・正力松太郎・笹川良一・児玉誉士夫・平沼騏一郎・広田弘毅・畑俊六・星野直樹・大川周明・佐藤賢了・鮎川義介・天羽英二・安藤紀三郎・青木一男・有馬頼寧・藤原銀次郎・古野伊之助・郷古潔・後藤文夫・秦彦三郎・本多熊太郎・井田磐楠・池田成彬・赤木桁平・石田乙五郎・石原広一郎・上砂勝七・河辺正三・菊池武夫・木下栄市・小林順一郎・小林躋造・松阪広政・水野錬太郎・牟田口廉也・長友次男・中島知久平・中村明人・西尾寿造・納見敏郎・岡部長景・大倉邦彦・大野広一・太田耕造・太田正孝・桜井兵五郎・下村宏・進藤一馬・塩野季彦・四王天延孝・多田駿・高橋三吉・高地茂都・谷正之・徳富蘇峰・豊田副武・津田信吾・後宮淳・横山雄偉の59名の逮捕を命令した。西暦1,946年1月4日、正力松太郎が公職追放処分となった。同年8月9日、東京巨人軍が、読売新聞社の運営となった。西暦1,947年4月3日、東京巨人軍が、球団名を「東京読売巨人軍」に改称し、チーム名を「読売ジャイアンツ」とした。同年5月21日、野球統制令が廃止された。同年9月、正力松太郎が不起訴となり巣鴨拘置所から釈放された。CIAは正力に、エージェントとして働く事を約束させ、それと引き換えに釈放した。

西暦1,949年2月23日、①鈴木龍二②鈴木惣太郎③読売ジャイアンツの球団代表を務めた野口務等が、第2代GHQ経済科学局長ウィリアム・マーカットの権威を利用して、正力松太郎を新設した日本野球連盟の名誉総裁兼コミッショナーとして迎えた。同年4月15日、正力松太郎が、日本野球連盟の就任会見で、2~3年の内に球団を増やして2リーグにしたいと発言した。同年5月、正力松太郎と永田雅一が、第8代毎日新聞社社長本田親男に、日本野球連盟への加盟を持ち掛けたが、本田は乗り気では無かった。同月2日、正力松太郎が、日本野球連盟名誉総裁兼コミッショナーを辞任した。まだ公職追放処分が解除されていない正力に対する、GHQ参謀第二部の意向を受けた法務庁特別審査局の圧力が有った。同月24日、正力松太郎が株式会社日本野球連盟取締役会長に就任した。又、井上登・内村祐之・宮澤俊義の3名が日本野球連盟コミッショナー代行となった。同年9月29日、東京會舘にて日本野球連盟の既存球団による代表者会議が開かれ、賛成派(大阪タイガース・南海ホークス・阪急ブレーブス・大映スターズ・東急フライヤーズ)と反対派(読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・太陽ロビンス)に分かれた。議論の途中で、読売ジャイアンツ球団代表四方田義茂が、球団代表の会議であるという理由で正力松太郎を追い出すという一幕が有った。同年11月26日10時、東京會舘で日本野球連盟顧問代表者会議が開かれ、2リーグ制の実施が決定された。同日13時、毎日新聞社本社別館のレストランのセント・ポールにて、南海ホークス・阪急ブレーブス・大映スターズ・東急フライヤーズの4球団が「太平洋野球連盟」を設立、近畿日本鉄道・西日本鉄道・毎日新聞社の加入願が承認された。又同日「セントラル野球連盟」の設立が発表された。同年12月15日、読売新聞社本社にてセントラル野球連盟の代表者会議が開かれ、西日本新聞社・大洋漁業・広島野球倶楽部の3チーム加盟が承認され、読売ジャイアンツ・大阪タイガース・中日ドラゴンズ・太陽ロビンスと合わせて7チーム体制となった。重役には、安田庄司(会長)・中村三五郎(理事長)が就いた。

西暦1,950年6月12日、CIAと関係の深いMRA(道徳再武装)でヘンリー・キッシンジャー等のCFRのメンバーと知己を得ていた中曽根康弘を含む国会議員7名等72名が、MRAの本部のあるコー(スイスのヴォー州)で開催のMRA世界大会に出席した。同年7月1日、アメリカ上院議員カール・ムントが、ダグラス・マッカーサーに対し、反共主義の促進を名目に、世界中でテレビ放送ネットワークを建設し、映像メディアを活用する計画「ビジョン・オブ・アメリカ」の一環で、日本に放送システムを作る様提案したが、マッカーサーは拒否した。西暦1,951年4月11日、ダグラス・マッカーサーが、ハリー・S・トルーマンにより連合軍総司令官を解任され、独自に築いていたスパイ網はCIAに引き継がれた。同年8月6日、正力松太郎の公職追放処分が解除された。同月13日、カール・ムントが、ビジョン・オブ・アメリカの一環で、日本全土に総合通信網を民間資本で建設する事を発表した。同年9月4日、正力松太郎が、カール・ムントの同席の下、1社で日本全国に直営局を置き、東京を中央局として全国にマイクロ波を用いた無線中継伝送網を構築する計画を発表し、アメリカから資金と技術援助を受ける約束も取り付けていた。

西暦1,952年3月6日、ヘンリー・ホールシューセンが、アメリカ国務省にアメリカからテレビ機器を輸入する日本企業から円を買い取りドルを与える申し出を行ない、同年4月4日に却下されたが、同月14日にアメリカ国務省国際放送課・FCC(連邦通信委員会)・連邦基準局・大統領通信関連諮問局の代表者を集めてビジョン・オブ・アメリカ計画の説明会を開催した。同年7月31日、正力松太郎が電波監理委員会から予備免許を付与された。同年10月28日、ペンタゴンと児玉誉士夫経由でのCIAの資金提供により「日本テレビ放送網」が設立された。アメリカ上院外交委員会海外プログラム小委員会委員長バーク・ヒッケンルーパー・アメリカ上院外交委員会ジョン・スパークマン・軍事委員会委員エヴァレット・ダークセンの3名が「アメリカ軍が日本本土で行う軍事作戦に関し、日本人が関心を持たず、警戒せず、無知で居続けて貰う為には、テレビで娯楽・スポーツ番組を大量に放送し、そちらの方に、日本人の気を反らす必要がある」としてアメリカ議会への説得工作を展開していた。さらに正力松太郎は、ニューヨークのマーフィー・ダイカー・スミス&バーウェル法律事務所経由で、アメリカ国防総省に日本テレビ放送網を日本支配とアメリカの政策宣伝として用いる趣旨を伝え、ペンタゴンに協力を要請していた。

西暦1,953年1月15日・22日、正力松太郎が、ヘンリー・ホールシューセンに対し「吉田茂が、アメリカが借款を出せばマイクロ回線網建設を電電公社に説得すると確約した」「もし必要なら白洲次郎を特任大使としてアメリカに派遣し力を貸す」という主旨の書簡を送った。同年3月、元NHKニュース解説者柴田秀利が、日本テレビが緊急に必要とする資金を日本輸出入銀行から引き出す事を目的に渡米し、元OSS長官で弁護士のビル・ダナヴァンにマイクロ回線網建設のための10,000,000ドルの借款を要請した。同年4月15日、柴田秀利が、アメリカ対日協議会のウィリアム・リチャーズ・キャッスルから、書簡でウォルター・ロバートソンを紹介された。柴田はキャッスルと接触した際「正力松太郎は、日本でやるテレビ放送は反共プロパガンダの牽引車にするつもりです。日本テレビは賑やかな街角に大きなテレビ画面を設置するつもりです。広告として利用出来ますし、様々な反共番組を定期的に放送出来るでしょう」と言い、キャッスルを感激させていた。同年7月3日、中曽根康弘が、ヘンリー・キッシンジャーが幹事役を務めるロックフェラー財団・フォード財団スポンサーの「ハーバード国際セミナー」の為渡米し、カリフォルニア大学放射線研究所を見学した。同年8月28日11時20分、日本テレビ放送網が本放送を開始した。同年9月、新聞社69社が反対声明を出し、電電公社も反対。同年11月6日、衆院議員原茂が衆議院電気通信委員会でマイクロ中継網に反対する発言を行ない、同年12月7日に正力松太郎の証人喚問が行われた。

西暦1,954年3月1日未明、焼津港所属の遠洋マグロ漁船の第五福竜丸が、①ビキニ環礁②エニウェトク環礁で行われたアメリカ軍の15,000,000tの水爆実験により発生した多量の放射性降下物を浴び、乗組員23名が被曝した。同月3日、改進党で予算委員会の筆頭理事であった中曽根康弘が中心となり、戦後初の原子力予算として「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」(原子力平和的利用研究費補助金235,000,000円(ウラン235に因む)・ウラニウム資源調査費15,000,000円)が両院議員総会にて上程された。同月14日、第五福竜丸が焼津港に帰還し、翌15日に第五福竜丸乗組員が東大病院を受診、夕方には読売新聞社焼津通信部記者安部光恭が、東京の社会部と連携して取材を進めた。同月16日、読売新聞社が朝刊社会面トップで、本月1日のアメリカ軍の水爆実験について報じ、第五福竜丸乗組員23名が原子病で、1名が東大病院で重症と診断されたとした。同年4月、原子力予算案が修正を経て可決された。同年12月3日、衆参両院の電気通信委員会が、民間へのマイクロ回線業務を認可しないとする決議を行ない、西暦1,951年9月4日に正力松太郎が発表した、アメリカ資本による援助でマイクロ波を用いた無線中継伝送網を構築する計画は頓挫した。

西暦1,955年2月27日、正力松太郎が第27回衆院選に富山2区から出馬し、初当選した。同年11月、正力松太郎が、鳩山一郎に防衛庁長官としての入閣を求められたが「原子力をやりたい」と言い断った。同月1日、読売新聞社とUSIA(アメリカ広報文化交流局)主催で日比谷公園にて「原子力平和利用博覧会」が開催され、同月22日迄行なわれた。費用は全てUSIAが負担した。前年アメリカ軍の水爆実験での第五福竜丸の被曝を受けて、原水爆反対に傾いていた世論を塗り替える事を意図していた。其の後USIAは、愛知県美術館・京都市美術館・大阪アサヒアリーナ・広島平和記念資料館・福岡スポーツセンター・中島スポーツセンター・仙台市レジャーセンター・水戸総合体育館・高岡古城公園の9箇所で、西暦1,957年8月迄同様の博覧会を開催した。同年12月、正力松太郎が、柴田秀利を通じ、アジアの原子力センターをマニラではなく日本につくる様アメリカに求めた。同月16日、自民党・社会党全421議員連名の「原子力基本法」が成立した。同法案は中曽根康弘が中心となって作成された。

西暦1,956年1月1日、「原子力委員会」が設置され、原子力委員に①正力松太郎(委員長)②初代経団連会長石川一郎(常勤)③日本物理教育学会会長藤岡由夫(常勤)④湯川秀樹(非常勤、森一久の後押しにより就任)⑤東京大学経済学部教授有沢広巳の5名が就いた。同月4日昼、湯川秀樹が森一久に原子力委員の辞任の意向を伝えた。理由は、正力松太郎が発電用原子炉を米国より輸入したいと発言した事と、湯川の慎重論が相反する為であった。しかし森は「そういった政治家の暴走があるから委員が必要なのです」と言い、湯川は辞任を思い留まった。同日夜、正力松太郎が車中にて記者団に「採算の取れる最初の原子力発電所を5年以内に建設する」と発言した。同年2月15日、原子力委員会が武山を実験炉の第一候補地とし、動力試験用炉を水戸市郊外に設置する事を決定したが、武山はアメリカが基地として使用中で接収地は半分程度の430,000坪と見込まれ、岩鼻村・高崎市も内陸で用水に難があった。同年4月、原子力委員会が日本原子力研究所を東海村(茨城県那珂郡)に設立する事を決定し、同月19日に正力松太郎が東海村を視察した。同月30日に日本原子力研究所法が無修正で国会を通過し、同年5月4日に公布された。同月19日、「科学技術庁」が設置され、初代科学技術庁長官に正力松太郎が就いた。同年6月15日、日本原子力研究所が、財団法人原子力研究所の権利義務・職員・業務を引き継ぎ、資本金498,000,000円(中曽根康弘上程の政府出資250,000,000円+民間出資248,000,000円(内電力業界150,000,000円))で特殊法人として設立された。同年8月10日に「原子燃料公社」が設立され、同年10月26日に日本がIAEA(原子力国際機関)に加盟した。

西暦1,957年3月、湯川秀樹が神経性の胃腸障害を理由に原子力委員を辞任した。西暦1,959年6月、原子力委員会が①GCR(黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉)の建設②動力試験炉である「JPDR」の原子力研究所への設置を決定した。西暦1,960年1月16日、原子力発電所である東海発電所の建設工事が着工された。主目的は兵器用プルトニウムの生産であり、発電は副次的なものであった。炉型はGCRであり、GE(ゼネラル・エレクトリック)から輸入した。燃料に天然ウラン、減速材に黒鉛、熱交換冷却材に二酸化炭素ガスを用いる原子炉であるが、原子炉が大型になり易く、その割に発電量が小さく効率が悪かった。発電用としては軽水炉の方が遥かに有望である事は自明であったが、兵器用プルトニウムの生産が主目的であった為こちらが採用された。西暦1,963年10月26日、日本原子力研究所にて、アメリカから導入したJPDRを用いて日本初の原子力発電が行なわれた。西暦1,966年7月25日、東海発電所が営業を開始した。本書は、此の42年に亘る、正力松太郎の警察官退職時上司後藤新平の支援を受けた読売新聞社買収を起点とする、アメリカ大リーグ選抜来日と日米野球興行、野球統制令公布、大日本東京野球倶楽部・大阪野球倶楽部・東京セネタース等の設立と日本職業野球連盟創立、株式会社後楽園スタヂアム設立、GHQの戦犯容疑59名逮捕命令と正力松太郎の公職追放処分、CIAエージェント約束による巣鴨拘置所からの釈放、東京巨人軍の読売ジャイアンツへの改称と野球統制令廃止、日本野球連盟2リーグ制の実施(セントラル野球連盟・太平洋野球連盟設立)、中曽根康弘等のMRA世界大会出席、カール・ムントのビジョン・オブ・アメリカ計画とマッカーサー拒否、ペンタゴンと児玉誉士夫経由のCIA資金提供による日本テレビ放送網設立、第五福竜丸の被曝事件と中曽根康弘の戦後初原子力予算上程、衆参両院電気通信委員会による民間マイクロ回線業務非認可決議とマイクロ波無線中継伝送網構築計画の頓挫、正力松太郎の第27回衆院選富山2区初当選、読売新聞社とUSIA主催の「原子力平和利用博覧会」、自民党・社会党全421議員連名の原子力基本法成立、原子力委員会・日本原子力研究所・科学技術庁・原子燃料公社の設立と日本のIAEA加盟、東海発電所の兵器用プルトニウム生産を主目的としたGCRによる建設着工、JPDRによる日本初の原子力発電、東海発電所営業開始迄、正力松太郎の42年に亘る活動の全過程を、年月日単位で記録した年表である。


登場人物

  • 正力松太郎 本書の中心人物。西暦1,924年2月、警察官退職時上司の後藤新平の100,000円借入で読売新聞社を買収し第7代社長就任。西暦1,931年・1,934年に日米野球を主催し、西暦1,936年に日本職業野球連盟を中心となって創立。西暦1,945年12月2日にGHQ戦犯容疑59名逮捕命令の対象、西暦1,946年1月4日公職追放、西暦1,947年9月にCIAエージェント約束で巣鴨拘置所釈放。西暦1,949年に日本野球連盟名誉総裁兼コミッショナー就任後辞任、株式会社日本野球連盟取締役会長就任、2リーグ制実施に至った。西暦1,951年9月4日にマイクロ波無線中継伝送網構築計画発表、西暦1,952年10月28日にペンタゴン・児玉誉士夫経由CIA資金提供で日本テレビ放送網設立。西暦1,955年2月27日に第27回衆院選富山2区初当選、鳩山一郎の防衛庁長官入閣要請を「原子力をやりたい」と断り、西暦1,956年1月1日に原子力委員会委員長、同年5月19日に初代科学技術庁長官就任。原子力委員会発足会見で「発電用原子炉を米国より輸入したい」と発言した。
  • 後藤新平 正力松太郎の警察官退職時の上司。西暦1,924年2月、自宅を抵当に入れて100,000円を用立て、正力松太郎の読売新聞社買収を支援した。
  • 市岡忠男 読売新聞社運動部長。西暦1,934年6月9日の「職業野球団発起人会」で、鈴木惣太郎・浅沼誉夫・三宅大輔と共に正力松太郎に職業野球チーム設立を働き掛けた4名の1人。西暦1,934年12月26日の大日本東京野球倶楽部創立総会では経営陣の1人。
  • 鈴木惣太郎 読売新聞社運動部嘱託。西暦1,934年6月9日の「職業野球団発起人会」での4名の1人。西暦1,935年2月14日のアメリカ遠征中、大日本東京野球倶楽部マネージャーとして、レフティ・オドールから「ジャイアンツ」のチーム名提案を受け、採用した。西暦1,949年2月23日のGHQ経済科学局長ウィリアム・マーカット権威利用による正力松太郎の日本野球連盟名誉総裁兼コミッショナー就任の中心人物の1人。
  • 大隈信常 大隈重信の娘婿で第12代平戸藩主松浦詮の五男。西暦1,934年12月26日の大日本東京野球倶楽部創立総会で取締役会長に就任。西暦1,936年2月5日の日本職業野球連盟創立総会で総裁となった。
  • レフティ・オドール 大リーグ傘下のAAAパシフィックコーストリーグ所属のサンフランシスコ・シールズの監督。西暦1,931年・1,934年の日米野球でアメリカ大リーグ選抜の一員として来日。西暦1,935年2月14日のアメリカ遠征時、鈴木惣太郎に「ニューヨーク・ジャイアンツ」に因んで「ジャイアンツ」というチーム名を提案した。
  • 富樫興一 阪神電鉄事業課係長。西暦1,935年12月10日、阪神電鉄を親会社として「大阪野球倶楽部」を設立し、専務取締役(球団代表)に就任した。
  • 松方正雄 第4代・第6代首相松方正義の四男で浪速銀行頭取。西暦1,935年12月10日の大阪野球倶楽部設立で会長就任。西暦1,936年2月5日の日本職業野球連盟創立総会では副総裁となった。
  • 有馬頼寧 貴族院議員。西暦1,936年1月20日、旧西武鉄道による「東京セネタース」設立に際し、正力松太郎の呼び掛けに応じてオーナーに就任した。西暦1,945年12月2日のGHQ戦犯容疑59名逮捕命令の対象者の1人。
  • 小林一三 西暦1,936年2月5日の日本職業野球連盟創立総会で相談役。西暦1,936年12月25日の株式会社後楽園スタヂアム設立では1,000株保有株主。
  • 高橋龍太郎 第3代大阪麦酒社長。西暦1,937年10月、後楽園イーグルスが経営関係を解消した後、正力松太郎の誘いによりオーナーとなり、球団名を「イーグルス」に改称した。
  • ウィリアム・マーカット 第2代GHQ経済科学局長。西暦1,949年2月23日、鈴木龍二・鈴木惣太郎・野口務等が其の権威を利用して、正力松太郎を新設した日本野球連盟の名誉総裁兼コミッショナーとして迎えた。
  • 永田雅一 西暦1,949年5月、正力松太郎と共に第8代毎日新聞社社長本田親男に日本野球連盟への加盟を持ち掛けたが乗り気では無く、其の後アメリカへ渡った。正力は2リーグにした際、片方のリーグを永田と毎日新聞社に託そうとしていた。
  • 中曽根康弘 改進党(後の自民党)所属の国会議員。西暦1,950年6月12日、CIAと関係の深いMRA(道徳再武装)でヘンリー・キッシンジャー等のCFRのメンバーと知己を得ていた人物として、国会議員7名等72名と共にコー(スイス)のMRA世界大会に出席した。西暦1,953年7月3日にヘンリー・キッシンジャーが幹事役を務めるロックフェラー財団・フォード財団スポンサーの「ハーバード国際セミナー」の為渡米。西暦1,954年3月3日、予算委員会の筆頭理事として戦後初の原子力予算「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」を両院議員総会に上程。西暦1,955年12月16日成立の自民党・社会党全421議員連名「原子力基本法」も中心となって作成した。
  • ダグラス・マッカーサー 連合軍総司令官。西暦1,950年7月1日、アメリカ上院議員カール・ムントから「ビジョン・オブ・アメリカ」計画の一環で日本に放送システムを作る様提案されたが「日本はサンフランシスコ講和会議以後主権を取り戻す為、放送システムは日本に所有される事になるので無駄である」と返答して拒否した。西暦1,951年4月11日、ハリー・S・トルーマンにより連合軍総司令官を解任され、独自のスパイ網はCIAに引き継がれた。
  • カール・ムント アメリカ上院議員。西暦1,950年7月1日にマッカーサーに「ビジョン・オブ・アメリカ」計画の日本放送システム提案を行ない拒否された。西暦1,951年8月13日にビジョン・オブ・アメリカの一環で日本全土に総合通信網を民間資本で建設する事を発表、同年9月4日の正力松太郎のマイクロ波無線中継伝送網構築計画発表に同席した。
  • ヘンリー・ホールシューセン 西暦1,952年3月6日にアメリカ国務省に申し出を行ない、却下後の4月14日にアメリカ国務省国際放送課・FCC・連邦基準局・大統領通信関連諮問局の代表者を集めてビジョン・オブ・アメリカ計画の説明会を開催。西暦1,953年1月15日・22日に正力松太郎から吉田茂・白洲次郎関連書簡を受け取った。
  • 児玉誉士夫 西暦1,945年12月2日のGHQ戦犯容疑59名逮捕命令の対象者の1人。西暦1,952年10月28日のペンタゴン・CIAの資金提供による「日本テレビ放送網」設立に於いて、CIAからの資金提供の経由役となった。
  • 吉田茂・白洲次郎 内閣総理大臣の吉田茂は、西暦1,953年1月15日に正力松太郎にマイクロ中継網の説明を受け、「アメリカが借款を出せばマイクロ回線網建設を電電公社に説得する」と確約し、白洲次郎を特任大使としてアメリカに派遣すると述べた。
  • 柴田秀利 元NHKニュース解説者。西暦1,953年3月、日本テレビが緊急に必要とする資金を日本輸出入銀行から引き出す事を目的に渡米し、元OSS長官で弁護士のビル・ダナヴァンに10,000,000ドルの借款を要請。同年4月15日、アメリカ対日協議会のウィリアム・リチャーズ・キャッスルから書簡でウォルター・ロバートソンを紹介された。西暦1,955年12月、正力松太郎が柴田を通じてアジアの原子力センターをマニラではなく日本に作る様アメリカに求めた。
  • 原茂 衆院議員。西暦1,953年11月6日、衆議院電気通信委員会でマイクロ中継網に反対する発言を行ない、3理由(アメリカ軍の軍事通信網化・電電公社のような公共事業体が筋・正力松太郎の日本メディアを牛耳る個人的野望)を挙げた。
  • 安部光恭 読売新聞社焼津通信部記者。西暦1,954年3月15日夕方、知人から第五福竜丸乗組員の被曝情報を聞き、東京の社会部と連携して取材を進め、翌16日の朝刊社会面トップ報道に繋げた。
  • 鳩山一郎 内閣総理大臣。西暦1,955年11月、正力松太郎に防衛庁長官としての入閣を求めたが、正力は「原子力をやりたい」と言い断った。
  • 湯川秀樹 西暦1,956年1月1日、森一久の後押しにより原子力委員(非常勤)に就任。同月4日昼、正力松太郎が原子力委員会発足会見で「発電用原子炉を米国より輸入したい」と発言した事と、湯川の「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするという事は、我が国の原子力開発の将来に対して長期に渡り重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、基礎研究を慎重な上にも慎重でなければならない」とする考えが相反する為、森一久に辞任の意向を伝えた。森に慰留され留任したが、西暦1,957年3月に神経性の胃腸障害を理由に原子力委員を辞任した。
  • 森一久 西暦1,956年1月1日の原子力委員会発足で、湯川秀樹の原子力委員就任を後押し。同月4日の湯川の辞任意向に対し「そういった政治家の暴走があるから委員が必要なのです」と慰留した。
  • 石川一郎 初代経団連会長。西暦1,956年1月1日、原子力委員会発足時に原子力委員(常勤)に就任した。
  • 藤岡由夫 日本物理教育学会会長。西暦1,956年1月1日、原子力委員会発足時に原子力委員(常勤)に就任した。
  • 有沢広巳 東京大学経済学部教授。西暦1,956年1月1日、原子力委員会発足時に原子力委員に就任した。

主要な概念・組織

  • 読売新聞社 西暦1,924年2月、正力松太郎が、警察官退職時の上司である後藤新平が自宅を抵当に入れて用立てた100,000円を借り入れ買収した新聞社。正力は第7代読売新聞社社長に就任。西暦1,931年の日米野球17戦主催により発行部数を220,000部から270,000部に増加させ、西暦1,955年11月にUSIAと共に「原子力平和利用博覧会」を日比谷公園で主催した。
  • 野球統制令 西暦1,932年3月28日に公布された規則。小学校・中等学校・大学高等学校に分けて、学校長承認の無い大会への参加禁止、宿泊を伴う大会への参加禁止、営利企業の主催禁止、試合日を土曜午後と休日に限定、入場料の徴収禁止、応援団の組織禁止、文部省承認の無い外国遠征と来日外国チームとの試合の禁止、優勝旗・優勝牌以外の褒賞禁止、選手を広告・宣伝に使う事の禁止、プロ選手との試合の文部省承認義務等を規定。此の規制により大学チームとアメリカ大リーグ選抜との対戦が出来なくなった事が職業野球チーム設立の契機となった。西暦1,947年5月21日に廃止された。
  • 大日本東京野球倶楽部・東京巨人軍・読売ジャイアンツ 西暦1,934年12月26日に日本工業倶楽部にて創立総会が開かれた職業野球チーム。経営陣は大隈信常(取締役会長)・正力松太郎(取締役)・庄田良・後藤圀彦・市岡忠男・林正之助。京成電気軌道筆頭株主。西暦1,935年2月14日のアメリカ遠征中、レフティ・オドールから提案された「東京ジャイアンツ」として活動し、129日間108試合75勝33敗で帰国後「東京巨人軍」と改称。西暦1,946年8月9日に読売新聞社の運営となり、西暦1,947年4月3日に「東京読売巨人軍」に改称、チーム名を「読売ジャイアンツ」とした。
  • 日本職業野球連盟 西暦1,936年2月5日12時、正力松太郎を中心として日本工業倶楽部にて創立総会が開かれた連盟。東京巨人軍・大阪タイガース・名古屋軍・東京セネタース・阪急軍・國民新聞社・名古屋新聞社の7球団が加盟。役員には大隈信常(総裁)・安藤信昭(副総裁)・松方正雄(副総裁)・正力(相談役)・小林一三(相談役)等が名を連ねた。
  • 株式会社後楽園スタヂアム 西暦1,936年12月25日に設立。役員は田辺七六(取締役会長)・早川芳太郎(取締役社長)・田邊宗英(専務取締役)。株主は早川2,130株・水上金三郎1,500株・手塚丈夫1,380株・田邊1,300株・水上源太郎1,100株・小田進平1,090株・大橋松雄1,050株・小林一三1,000株・正力松太郎1,000株・五島慶太200株・大谷竹次郎200株等が名を連ねた。
  • GHQ戦犯容疑59名逮捕命令・公職追放 西暦1,945年12月2日、GHQが戦犯容疑で梨本宮守正王・正力松太郎・笹川良一・児玉誉士夫・平沼騏一郎・広田弘毅・畑俊六・星野直樹・大川周明・佐藤賢了・鮎川義介・天羽英二・有馬頼寧・徳富蘇峰等の59名の逮捕を命令。西暦1,946年1月4日、正力松太郎が公職追放処分となり、西暦1,947年9月に不起訴で巣鴨拘置所から釈放されたが、CIAはエージェントとして働く事を約束させ引き換えに釈放した。西暦1,951年8月6日に公職追放処分解除。
  • 日本野球連盟2リーグ制(セントラル野球連盟・太平洋野球連盟) 西暦1,949年11月26日10時、東京會舘での日本野球連盟顧問代表者会議で2リーグ制実施が決定。同日13時に毎日新聞社本社別館セント・ポールにて南海ホークス・阪急ブレーブス・大映スターズ・東急フライヤーズの4球団が「太平洋野球連盟」を設立、近畿日本鉄道・西日本鉄道・毎日新聞社の加入願が承認された。同日「セントラル野球連盟」の設立も発表され、同年12月15日に西日本新聞社・大洋漁業・広島野球倶楽部の3チーム加盟が承認、読売ジャイアンツ・大阪タイガース・中日ドラゴンズ・太陽ロビンスと合わせて7チーム体制となった。重役は安田庄司(会長)・中村三五郎(理事長)。
  • ビジョン・オブ・アメリカ・日本テレビ放送網 アメリカ上院議員カール・ムントが提唱した、反共主義の促進を名目に世界中でテレビ放送ネットワークを建設する計画。西暦1,950年7月1日のマッカーサー拒否後、解任を経て西暦1,951年9月4日に正力松太郎がマイクロ波無線中継伝送網構築計画を発表。西暦1,952年10月28日、ペンタゴンと児玉誉士夫経由のCIA資金提供により「日本テレビ放送網」が設立され、バーク・ヒッケンルーパー・ジョン・スパークマン・エヴァレット・ダークセン3名のアメリカ議会説得工作とニューヨーク・マーフィー・ダイカー・スミス&バーウェル法律事務所経由のペンタゴン協力要請が行われた。西暦1,953年8月28日11時20分に本放送開始。
  • マイクロ波無線中継伝送網構築計画・頓挫 西暦1,951年9月4日に正力松太郎がカール・ムント同席下で発表した、1社で日本全国に直営局を置き東京を中央局として全国にマイクロ波を用いた無線中継伝送網を構築する計画。アメリカから資金と技術援助の約束も取り付けていた。西暦1,953年9月の新聞社69社・電電公社の反対、同年11月6日の衆院議員原茂の衆議院電気通信委員会反対発言3理由を経て、西暦1,954年12月3日に衆参両院の電気通信委員会が民間へのマイクロ回線業務を認可しないとする決議を行ない、計画は頓挫した。
  • 第五福竜丸被曝事件と原子力予算 西暦1,954年3月1日未明、焼津港所属の遠洋マグロ漁船の第五福竜丸が、ビキニ環礁・エニウェトク環礁で行われたアメリカ軍の15,000,000tの水爆実験により発生した多量の放射性降下物を浴び、乗組員23名が被曝した事件。同月3日、中曽根康弘が中心となり、戦後初の原子力予算「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」(原子力平和的利用研究費補助金235,000,000円・ウラニウム資源調査費15,000,000円)が両院議員総会に上程された。同月16日、読売新聞社が朝刊社会面トップで報道。同年4月に原子力予算案が修正可決された。
  • 原子力平和利用博覧会 西暦1,955年11月1日から22日迄、読売新聞社とUSIA(アメリカ広報文化交流局)主催で日比谷公園にて開催された博覧会。費用は全てUSIAが負担。前年のアメリカ軍水爆実験での第五福竜丸の被曝を受けて原水爆反対に傾いていた世論を塗り替える事を意図していた。其の後USIAは、愛知県美術館(中日新聞共催)・京都市美術館・大阪アサヒアリーナ(両者朝日新聞大阪本社共催)・広島平和記念資料館(中国新聞共催)・福岡スポーツセンター(西日本新聞共催)・中島スポーツセンター(北海道新聞共催)・仙台市レジャーセンター(河北新報共催)・水戸総合体育館(茨城新聞共催)・高岡古城公園の9箇所で、西暦1,957年8月迄同様の博覧会を開催した。
  • 原子力基本法 西暦1,955年12月16日に成立した、原子力の研究・開発・利用を推進して将来に渡るエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興を図り、人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与する事が目的であると謳った自民党・社会党全421議員連名の法律。同法案は中曽根康弘が中心となって作成された。
  • 原子力委員会 西暦1,956年1月1日に設置された委員会。原子力委員に正力松太郎(委員長)・初代経団連会長石川一郎(常勤)・日本物理教育学会会長藤岡由夫(常勤)・湯川秀樹(非常勤、森一久の後押しにより就任)・東京大学経済学部教授有沢広巳の5名が就いた。同月13日に「我々は原子力発電を速やかに実現し、我が国の産業経済の興隆に資したいと念願しており、アメリカ・ソ連では既にその実験に成功しているという前例もあり、我々としても今後5年間に原子力発電の実現に成功したい意気込みである」という声明を出した。西暦1,959年6月にGCRの建設とJPDRの原子力研究所への設置を決定した。
  • 日本原子力研究所(東海村) 西暦1,956年4月に原子力委員会が東海村(茨城県那珂郡)に設立する事を決定した研究所。同年5月4日に日本原子力研究所法が公布、同年6月15日に財団法人原子力研究所の権利義務・職員・業務を引き継ぎ、資本金498,000,000円(中曽根康弘上程の政府出資250,000,000円+民間出資248,000,000円、内電力業界150,000,000円)で特殊法人として設立された。西暦1,963年10月26日、アメリカから導入したJPDRを用いて日本初の原子力発電が行なわれた。
  • 科学技術庁・原子燃料公社・IAEA加盟 西暦1,956年5月19日に「科学技術庁」が設置され、初代科学技術庁長官に正力松太郎が就任。同年8月10日に原子力発電の燃料であるウランを調達する役割を担う「原子燃料公社」が設立。同年10月26日、日本がIAEA(原子力国際機関)に加盟した。
  • 東海発電所(GCR・兵器用プルトニウム生産) 西暦1,960年1月16日に建設工事が着工された原子力発電所。主目的は兵器用プルトニウムの生産であり、発電は副次的なものであった。炉型はGCR(黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉)で、GE(ゼネラル・エレクトリック)から輸入。燃料は天然ウラン、減速材は黒鉛、熱交換冷却材は二酸化炭素ガス。原子炉が大型になり易く発電量が小さく効率が悪く、発電用としては軽水炉の方が遥かに有望である事は自明であったが、兵器用プルトニウムの生産が主目的であった為こちらが採用された。西暦1,966年7月25日に営業を開始した。

正力松太郎の警察官退職時上司後藤新平自宅抵当100,000円借入読売新聞社買収と第7代読売新聞社社長就任、アメリカ大リーグ選抜来日読売新聞社主催日米野球17戦・「野球統制令」公布、日本工業倶楽部「職業野球団発起人会」と市岡忠男・鈴木惣太郎・浅沼誉夫・三宅大輔働きかけ、「大日本東京野球倶楽部」創立と大隈信常取締役会長・京成電気軌道筆頭株主・レフティ・オドール「ジャイアンツ」チーム名提案・「東京巨人軍」改称、阪神電鉄事業課係長富樫興一中心「大阪野球倶楽部」設立、旧西武鉄道「東京セネタース」設立と有馬頼寧オーナー、正力松太郎中心「日本職業野球連盟」創立総会7球団加盟、「株式会社後楽園スタヂアム」設立、GHQ戦犯容疑59名逮捕命令と正力松太郎公職追放処分・「読売ジャイアンツ」改称・野球統制令廃止・CIAエージェント約束引き換え釈放、正力松太郎日本野球連盟名誉総裁兼コミッショナー就任と辞任・株式会社日本野球連盟取締役会長就任、東京會舘日本野球連盟顧問代表者会議2リーグ制実施決定と「太平洋野球連盟」・「セントラル野球連盟」設立、中曽根康弘等MRA世界大会出席、カール・ムントのマッカーサー「ビジョン・オブ・アメリカ」日本放送システム提案とマッカーサー拒否、マッカーサー解任、正力松太郎マイクロ波無線中継伝送網構築計画発表、ヘンリー・ホールシューセンのアメリカ国務省説明会開催、ペンタゴン・児玉誉士夫経由CIA資金提供「日本テレビ放送網」設立、正力松太郎の吉田茂・白洲次郎関連書簡、柴田秀利渡米とビル・ダナヴァン10,000,000ドル借款要請、日本テレビ放送網本放送開始と新聞社69社・電電公社・原茂衆院議員等反対、第五福竜丸ビキニ環礁・エニウェトク環礁15,000,000t水爆実験被曝23名、中曽根康弘戦後初原子力予算上程と読売新聞社安部光恭朝刊社会面トップ報道、衆参両院電気通信委員会民間マイクロ回線業務非認可決議とマイクロ波無線中継伝送網構築計画頓挫、正力松太郎第27回衆院選富山2区初当選と鳩山一郎防衛庁長官入閣要請断り、読売新聞社・USIA「原子力平和利用博覧会」日比谷公園と全国9箇所開催、自民党・社会党全421議員連名「原子力基本法」成立、「原子力委員会」設置と正力松太郎委員長・湯川秀樹委員及び湯川辞任意向と森一久慰留、日本原子力研究所東海村設立決定と498,000,000円特殊法人設立、「科学技術庁」設置と正力松太郎初代科学技術庁長官、「原子燃料公社」設立と日本IAEA加盟、原子力委員会GCR・JPDR決定、東海発電所兵器用プルトニウム生産主目的GCR採用建設着工、JPDR日本初原子力発電、東海発電所営業開始迄──
正力松太郎の読売新聞社買収を起点に、プロ野球連盟設立、GHQ戦犯容疑による公職追放とCIAエージェント約束による釈放、日本野球連盟2リーグ制への移行、ペンタゴン主導の日本テレビ放送網設立、第五福竜丸事件を機とした原子力推進、原子力基本法制定と原子力委員会・科学技術庁・日本原子力研究所設立、東海発電所営業開始に至った、正力松太郎の42年間の活動の系譜を年月日単位で追跡した一冊。

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石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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