正力松太郎一元化
新聞、野球、テレビ、そして原子力──
一人の男が四十二年掛けて敷いた線路を年月日単位で一元化。
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本書について
西暦1,924年2月、一人の男が読売新聞社を買収した。資金の100,000円は、警察官退職時の上司であった後藤新平が、自宅を抵当に入れて用立てたものである。此の男——第7代読売新聞社社長正力松太郎は、以後四十二年を掛けて、新聞・職業野球・テレビ放送・原子力という四つの領域に線路を敷いてゆく。本書は、其の全行程を年月日単位で一元化した記録である。始点は買収の日、終点は西暦1,966年7月25日、東海発電所の営業開始である。
最初の線路は野球であった。西暦1,931年10月30日、正力が発行部数を伸ばす為に招いたアメリカ大リーグ選抜が来日し、17戦の日米野球で全勝する。勝負は一方的であったが、開催前220,000部だった読売新聞の発行部数は270,000部へ跳ね上がった。処が翌々年3月28日、「野球統制令」が公布される。小学校から大学に及ぶ広範な規制であり、営利企業による大会主催も、文部省の承認無き来日外国チームとの試合も禁じられた。再び大リーグ選抜を招いても、最早大学チームと戦わせる事は出来ない。ならば対戦相手を自前で持てばよい——読売新聞社運動部長市岡忠男、運動部嘱託鈴木惣太郎、学習院野球部監督浅沼誉夫、元慶應義塾大学野球部監督三宅大輔の4名が、そう正力に働き掛けた。
西暦1,934年12月26日、日本工業倶楽部にて「大日本東京野球倶楽部」の創立総会が開かれる。取締役会長は大隈重信の娘婿・大隈信常、株主には筆頭の京成電気軌道を始め芝浦製作所・目黒蒲田電鉄・阪神電鉄・吉本興業・読売新聞社が並んだ。翌年のアメリカ遠征では、サンフランシスコ・シールズ監督レフティ・オドールが「チーム名が長くて分かりにくい」として「ジャイアンツ」を提案し、球団は帰国後「東京巨人軍」と改称する。12月10日には阪神電鉄を親会社とする大阪野球倶楽部が生まれ、西暦1,936年2月5日、7球団による「日本職業野球連盟」の創立総会が開かれた。総裁は大隈信常、正力と小林一三は相談役に名を連ねている。同年12月25日には株式会社後楽園スタヂアムが設立され、正力も1,000株の株主となった。
敗戦が全てを断ち切る。西暦1,945年12月2日、GHQは戦犯容疑で59名の逮捕を命じた。梨本宮守正王に次いで名簿の2番目に在ったのが正力であり、笹川良一・児玉誉士夫・有馬頼寧等も並んでいる。翌年1月4日、正力は公職追放処分となった。転機は西暦1,947年9月に訪れる。正力は不起訴となり巣鴨拘置所から釈放されるのだが——CIAは正力に、エージェントとして働く事を約束させ、其れと引き換えに釈放したのであった。以後の歩みは、此の取引を抜きには読めない。西暦1,949年2月23日、鈴木龍二・鈴木惣太郎・野口務等は第2代GHQ経済科学局長ウィリアム・マーカットの権威を利用して正力を日本野球連盟の名誉総裁兼コミッショナーに迎え、同年11月26日、2リーグ制の実施が決定される。
次の線路はテレビであった。西暦1,950年7月1日、アメリカ上院議員カール・ムントは、反共主義の促進を名目に世界中でテレビ放送網を建設する計画「ビジョン・オブ・アメリカ」の一環として、日本に放送システムを作る様ダグラス・マッカーサーへ提案したが、断られている。翌年4月11日にマッカーサーが解任されると、彼が独自に築いていたスパイ網はCIAへ引き継がれた。8月6日に正力の公職追放処分が解除され、9月4日、正力はムント同席の下、全国にマイクロ波の無線中継伝送網を構築する計画を発表する。そして西暦1,952年10月28日、ペンタゴンと児玉誉士夫経由でのCIAの資金提供により「日本テレビ放送網」が設立された。アメリカ議会への説得工作の論理は率直である——アメリカ軍が日本本土で行う軍事作戦に日本人が関心を持たず、警戒せず、無知で居続けて貰う為には、テレビで娯楽・スポーツ番組を大量に放送し、其方へ気を反らす必要がある、と。西暦1,953年8月28日に本放送が始まったが、マイクロ中継網の方は、新聞社69社と電電公社の反対、衆院議員原茂の追及、証人喚問を経て、西暦1,954年12月3日の両院決議で頓挫した。
最後の線路は原子力である。西暦1,954年3月1日、第五福竜丸がアメリカ軍の水爆実験による放射性降下物を浴び、乗組員23名が被曝した。此れを特報したのは読売新聞社であり、同月3日には中曽根康弘が原子力平和的利用研究費補助金235,000,000円——ウラン235に因む額——を上程している。世論が原水爆反対へ傾く中、西暦1,955年11月1日、読売新聞社とUSIAの主催で「原子力平和利用博覧会」が日比谷公園にて開かれた。費用は全てUSIAが負担し、以後西暦1,957年8月迄、広島を含む9箇所で同様の博覧会が続く。西暦1,956年1月1日、正力は原子力委員会の初代委員長に就き、5月19日には初代科学技術庁長官となった。湯川秀樹が「発電用原子炉を米国より輸入したい」という正力の発言に反発して辞任を申し出、森一久が「そういった政治家の暴走があるから委員が必要なのです」と押し留めた一幕も、本書は記録している。そして西暦1,960年1月16日に着工された東海発電所は、主目的が兵器用プルトニウムの生産であり、発電は副次的なものであった。発電用としては軽水炉が遥かに有望である事は自明でありながら、GEから輸入したGCRが採用された理由が、其処に在る。
登場人物
- 正力松太郎 本書の中心人物。西暦1,924年2月、後藤新平の用立てた100,000円で読売新聞社を買収し第7代社長となった。日米野球の招聘から大日本東京野球倶楽部の創設、日本職業野球連盟の相談役、戦後の2リーグ制主導を経て、日本テレビ放送網を設立。原子力委員会初代委員長・初代科学技術庁長官として原子力導入を推し進めた。西暦1,945年12月にGHQから戦犯容疑で逮捕を命じられ、西暦1,947年9月、CIAのエージェントとして働く事と引き換えに釈放されている。
- 後藤新平 正力松太郎の警察官退職時の上司。西暦1,924年2月、自宅を抵当に入れて100,000円を用立て、正力の読売新聞社買収を可能にした。此の一件が、正力の全ての出発点となっている。
- 市岡忠男 読売新聞社運動部長。鈴木惣太郎・浅沼誉夫・三宅大輔と共に、野球統制令によりアメリカ大リーグ選抜を大学チームと対戦させられなくなった正力松太郎へ、職業野球チームの設立を働き掛けた4名の1人。大日本東京野球倶楽部の経営陣にも名を連ねた。
- 鈴木惣太郎 読売新聞社運動部嘱託で、大日本東京野球倶楽部のマネージャー。アメリカ遠征中、レフティ・オドールが提案した「ジャイアンツ」の愛称を採用した。戦後は鈴木龍二・野口務と共に、GHQ経済科学局長マーカットの権威を利用して正力松太郎をコミッショナーに迎えている。
- レフティ・オドール サンフランシスコ・シールズ監督。西暦1,931年・西暦1,934年の日米野球にアメリカ大リーグ選抜の一員として来日した。西暦1,935年、遠征中の鈴木惣太郎に、自身が在籍した「ニューヨーク・ジャイアンツ」に因む愛称を提案し、「東京ジャイアンツ」の名付け親となった。
- 大隈信常 大隈重信の娘婿で、第12代平戸藩主松浦詮の五男。西暦1,934年に大日本東京野球倶楽部の取締役会長へ就き、西暦1,936年に発足した日本職業野球連盟では総裁を務めた。
- 小林一三 阪急の経営者。阪急軍を擁して日本職業野球連盟の相談役に正力松太郎と並んで名を連ね、株式会社後楽園スタヂアムでは1,000株の株主でもあった。
- 有馬頼寧 貴族院議員。西暦1,936年1月、正力松太郎の呼び掛けに応じて東京セネタースのオーナーに就任した。西暦1,945年12月、GHQが逮捕を命じた59名の中に、正力と共に名を連ねている。
- 高橋龍太郎 第3代大阪麦酒社長。西暦1,937年10月、正力松太郎の誘いで、株式会社後楽園スタヂアムとの経営関係を解消した後楽園イーグルスのオーナーとなり、球団名を「イーグルス」に改めた。
- 鈴木龍二 日本野球連盟の連盟主導派の中心人物。西暦1,949年2月23日、鈴木惣太郎・野口務と共に、第2代GHQ経済科学局長ウィリアム・マーカットの権威を利用して、正力松太郎を新設した日本野球連盟の名誉総裁兼コミッショナーに迎えた。
- 四方田義茂 読売ジャイアンツ球団代表。西暦1,949年9月29日、東京會舘で開かれた既存球団の代表者会議の途中、球団代表の会議であるという理由で正力松太郎を追い出すという一幕を演じた。
- 永田雅一 大映の経営者。西暦1,949年5月、正力松太郎と共に第8代毎日新聞社社長本田親男へ日本野球連盟への加盟を持ち掛けた。正力は2リーグにした際、片方のリーグを永田と毎日新聞社に託そうとしていた。
- 大川博 東急フライヤーズのオーナー。西暦1,949年11月26日、毎日新聞社本社別館のレストラン「セント・ポール」で南海・阪急・大映・東急の4球団により設立された太平洋野球連盟で、猿丸元と共に役員に就いた。
- 児玉誉士夫 西暦1,945年12月にGHQが逮捕を命じた59名の1人で、正力松太郎と同じ名簿に載った人物。西暦1,952年10月28日の日本テレビ放送網設立に際しては、ペンタゴンと並び、児玉を経由してCIAの資金が提供された。
- カール・ムント アメリカ上院議員。反共主義の促進を名目に世界中でテレビ放送ネットワークを建設する計画「ビジョン・オブ・アメリカ」を推し、西暦1,950年7月1日にダグラス・マッカーサーへ日本での放送システム建設を提案した。西暦1,951年9月4日、正力松太郎の全国通信網構想の発表にも同席している。
- ダグラス・マッカーサー 連合軍総司令官。カール・ムントの提案を、講和後に日本が主権を取り戻せば放送システムは日本に所有される事になるので無駄である、として断った。西暦1,951年4月11日にハリー・S・トルーマンにより解任され、独自に築いていたスパイ網はCIAへ引き継がれた。
- ヘンリー・ホールシューセン 西暦1,952年3月6日、アメリカからテレビ機器を輸入する日本企業へ運転資金を提供すべきだとアメリカ国務省へ申し出た人物。国務省には断られたが、同年4月14日には国務省国際放送課・FCC・連邦基準局・大統領通信関連諮問局の代表者を集め、ビジョン・オブ・アメリカ計画の説明会を開いた。
- 柴田秀利 元NHKニュース解説者。西暦1,953年3月、マイクロ回線網建設の為の10,000,000ドルの借款を求めて渡米し、元OSS長官ビル・ダナヴァンに要請した。アメリカ対日協議会のウィリアム・リチャーズ・キャッスルには、正力松太郎が日本でのテレビ放送を反共プロパガンダの牽引車にするつもりであると説き、感激させている。
- 原茂 衆院議員。西暦1,953年11月6日の衆議院電気通信委員会で、アメリカの借款によるマイクロ中継網はアメリカ軍の軍事通信網に供され日本全土が戦争に巻き込まれ得る事、公共事業体が担うべき事、正力松太郎の動機は日本のメディアを牛耳る個人的野望に在る事を挙げて反対した。
- 中曽根康弘 西暦1,950年6月、CIAと関係の深いMRAの世界大会に出席し、ヘンリー・キッシンジャー等のCFRのメンバーと知己を得た。西暦1,954年3月3日、第五福竜丸の被曝の2日後に戦後初の原子力予算を上程し、西暦1,955年の原子力基本法も中心となって作成している。西暦1,953年にはハーバード国際セミナーへ参加した。
- 湯川秀樹 森一久の後押しにより原子力委員に就いたが、就任直後の西暦1,956年1月4日、正力松太郎の「発電用原子炉を米国より輸入したい」という発言が、基礎研究を慎重に進めるべきだとする自身の考えと相反する為、辞任の意向を伝えた。西暦1,957年3月、神経性の胃腸障害を理由に辞任している。
- 森一久 湯川秀樹を原子力委員に推した人物。辞任の意向を伝えられた際、「そういった政治家の暴走があるから委員が必要なのです」と言って湯川を思い留まらせた。
主要な概念・組織
- 野球統制令 西暦1,932年3月28日公布。小学校・中等学校・大学と高等学校の野球を広範に規制し、営利企業による大会主催、文部省の承認の無い外国チームやプロ選手との試合、選手の広告利用等を禁じた。此れが正力松太郎に自前の職業野球チームを持たせる契機となる。西暦1,947年5月21日に廃止された。
- 大日本東京野球倶楽部 西暦1,934年12月26日、日本工業倶楽部にて創立総会。取締役会長は大隈信常、正力松太郎は取締役に就いた。翌年のアメリカ遠征では「東京ジャイアンツ」を名乗り、129日間108試合で75勝33敗を残して帰国。其の後「東京巨人軍」と改称し、西暦1,947年4月3日「東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)」となった。
- 日本職業野球連盟 西暦1,936年2月5日、正力松太郎を中心に日本工業倶楽部で創立総会が開かれ、東京巨人軍・大阪タイガース・名古屋軍・東京セネタース・阪急軍等7球団が加盟した。総裁は大隈信常、副総裁は安藤信昭と松方正雄、正力と小林一三が相談役を務めた。
- 株式会社後楽園スタヂアム 西暦1,936年12月25日設立。取締役会長は衆議院議員田辺七六、取締役社長は早川芳太郎であった。正力松太郎と小林一三が各1,000株、五島慶太と大谷竹次郎が各200株を持つ等、政財界の名が株主に並んでいる。
- 太平洋野球連盟・セントラル野球連盟 西暦1,949年11月26日、東京會舘で2リーグ制の実施が決定された同日に生まれた両リーグ。太平洋野球連盟は南海・阪急・大映・東急の4球団で設立され、近畿日本鉄道・西日本鉄道・毎日新聞社の加入願が満場一致で承認された。セントラル野球連盟は12月15日の代表者会議で西日本新聞社・大洋漁業・広島野球倶楽部の加盟を認め、7チーム体制となった。
- ビジョン・オブ・アメリカ アメリカ上院議員カール・ムントが推した計画。反共主義の促進を名目に、世界中でテレビ放送ネットワークを建設し映像メディアを活用するというもので、西暦1,950年7月1日にマッカーサーへ日本での放送システム建設が提案された。西暦1,951年8月13日には、日本全土に総合通信網を民間資本で建設する事が発表されている。
- 日本テレビ放送網 西暦1,952年10月28日、ペンタゴンと児玉誉士夫経由でのCIAの資金提供により設立。アメリカ議会への説得工作では、アメリカ軍の軍事作戦へ日本人の関心を向けさせない為に娯楽・スポーツ番組を大量に放送する必要が有るとされた。正力松太郎はニューヨークの法律事務所を経由し、日本支配とアメリカの政策宣伝に用いる趣旨をアメリカ国防総省へ伝えている。西暦1,953年8月28日11:20、本放送を開始した。
- マイクロ中継網 東京を中央局として全国にマイクロ波の無線中継伝送網を構築するという正力松太郎の構想。アメリカからの資金と技術援助の約束を取り付けていたが、新聞社69社と電電公社が反対し、衆院議員原茂の追及と証人喚問を経て、西暦1,954年12月3日の衆参両院電気通信委員会の決議により頓挫した。
- MRA(道徳再武装) CIAと関係の深い組織。西暦1,950年6月12日、中曽根康弘を含む国会議員7名等72名が、スイスのコーで開かれたMRA世界大会に出席した。中曽根は此処でヘンリー・キッシンジャー等のCFRのメンバーと知己を得ている。
- ハーバード国際セミナー ヘンリー・キッシンジャーが幹事役を務めたサマースクール。ロックフェラー財団とフォード財団がスポンサーであった。西暦1,953年7月3日、中曽根康弘が同年11月迄の日程で渡米して参加し、カリフォルニア大学放射線研究所も見学している。
- 第五福竜丸 焼津港所属の遠洋マグロ漁船。西暦1,954年3月1日未明、ビキニ環礁とエニウェトク環礁で行われたアメリカ軍の15,000,000tの水爆実験による放射性降下物を浴び、乗組員23名が被曝した。3月16日、読売新聞社が朝刊社会面トップで報じている。
- 原子力平和利用博覧会 西暦1,955年11月1日から22日迄、読売新聞社とUSIAの主催で日比谷公園にて開催。費用は全てUSIAが負担した。前年の第五福竜丸の被曝を受けて原水爆反対に傾いていた世論を塗り替える事を意図しており、其の後西暦1,957年8月迄、広島平和記念資料館を含む9箇所で同様の博覧会が開かれた。
- 原子力基本法 西暦1,955年12月16日成立。原子力の研究・開発・利用を推進して将来に渡るエネルギー資源を確保し、人類社会の福祉と国民生活の水準向上に寄与する事を目的と謳った。自民党・社会党の全421議員連名であり、中曽根康弘が中心となって作成された。
- 原子力委員会 西暦1,956年1月1日設置。正力松太郎が委員長に就き、石川一郎・藤岡由夫・湯川秀樹・有沢広巳が委員となった。同月13日には、今後5年間に原子力発電の実現に成功したいとする声明を出している。
- 科学技術庁 西暦1,956年5月19日設置。初代科学技術庁長官には正力松太郎が就いた。原子力委員会委員長との兼務であり、原子力行政の中枢を正力が握る形となった。
- 日本原子力研究所 西暦1,956年6月15日、財団法人原子力研究所の権利義務・職員・業務を引き継ぎ、資本金498,000,000円の特殊法人として設立。内訳は中曽根康弘が上程した政府出資250,000,000円と、民間出資248,000,000円(内150,000,000円は電力業界)であった。設置地は同年4月に東海村と決まっている。
- 原子燃料公社 西暦1,956年8月10日設立。原子力発電の燃料であるウランを調達する役割を担った。同年10月26日には、日本がIAEAに加盟している。
- 東海発電所 西暦1,960年1月16日着工、西暦1,966年7月25日営業開始。主目的は兵器用プルトニウムの生産であり、発電は副次的なものであった。本書の掉尾を飾る施設である。
- GCR(黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉) 燃料に天然ウラン、減速材に黒鉛、熱交換冷却材に二酸化炭素ガスを用いる原子炉。西暦1,959年6月に原子力委員会が建設を決定し、GEから輸入された。原子炉が大型になり易く発電量が小さいという欠点が有り、発電用としては軽水炉の方が遥かに有望である事は自明であったが、兵器用プルトニウムの生産が主目的であった為に採用されている。
- JPDR 西暦1,959年6月に原子力研究所への設置が決定された動力試験炉。アメリカから導入され、西暦1,963年10月26日、此れを用いて日本初の原子力発電が行われた。
読売買収からCIAとの取引、日本テレビ、そして東海発電所へ──
正力松太郎の四十二年の全軌跡を一元化。
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