マシュー・ペリーの
初来航一元化
西暦1,853年7月8日、四隻が浦賀水道を北上した──
黒船来航に至るマシュー・ペリー初来航の九ヶ月を一元化。
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本書について
西暦1,852年11月24日、四隻の艦隊がアメリカ・バージニア州のノーフォークを発った。旗艦の蒸気外輪フリゲート艦ミシシッピを先頭に、帆船プリマス・サラトガ、そして補給艦サプライを従えた此の艦隊を率いたのが、マシュー・ペリーである。目的は、日本を開国させ、太平洋を横断する蒸気船の為の石炭補給基地と、難破した捕鯨船員の保護を確保する事に在った。本書は、此の出航から、翌西暦1,853年8月に佐久間象山が松代藩への帰国を命じられる迄の約九ヶ月を、年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,853年5月4日、上海に到着したペリーは、西暦1,837年のモリソン号事件で日本を訪れた経験を持つサミュエル・ウィリアムズを主席通訳に、アントン・ポートマンを艦隊書記・参謀に雇い入れ、駐清アメリカ公使ハンフリー・マーシャルや臨時代理公使ピーター・パーカーから清の情勢を聴き取った上で、まず琉球王国へと向かった。狙いは、西欧諸国に遅れを取らぬ様、琉球を開国させて蒸気船の石炭補給基地を築く事に在った。那覇に錨を下ろしたペリーは、直様、首里城への入城を要求する。王家の住む城に兵を入れ、以後の交渉を有利に運ぶ狙いであった。琉球王国政府は偽の行政機関を設け、偽の役人に北殿で応対させる事で正殿と尚泰王を守り抜いたが、ペリーは遂に200名の兵を率いて城に上がり込み、友好条約の草案を突き付けた。
此の間、ペリー一行は徒歩での琉球調査も行っている。護国寺を発ち、首里城・弁ヶ嶽を経て中城湾を見下ろす丘で夜を明かし、金武湾に沿って北上して恩納村へ、更に読谷山間切・北谷間切を経て那覇に帰着する行程であった。同行した画家ウィリアム・ハイネは琉球の風物を描き、医師で植物学者のジェームズ・モローは、道幅が広く凹凸が無く、両端に排水溝の走る道路と、山々の頂まで続く二列の松並木を書き留めた。ペリーは更に小笠原諸島の父島にまで足を延ばし、石炭貯蔵用地を購入して現地島民のナサニエル・セイヴァリーを移民の頭目に任じ、アメリカ海軍拠点の構築を試みている。
そして西暦1,853年7月8日、四隻の艦隊は遂に浦賀水道を北上する。観音崎と富津岬を結ぶ江戸の防衛線を蒸気船が易々と越え、計73門の大砲が空砲を轟かせた。此れが、後に「黒船来航」と呼ばれる衝撃の始まりであった。浦賀奉行所の与力・中島三郎助と、小通詞・堀達之助が旗艦サスケハナに漕ぎ寄せる。堀は第一声、オランダ語で「I can speak Dutch」と告げ、実際には存在しない副奉行という役職を騙って中島を紹介し、二人の乗船を実現させた。だがペリーは船室に籠った儘、相応の身分の役人としか会わぬと面会を拒み続ける。中島は乗船中に船体構造・ペクサン砲・ダールグレン砲・蒸気機関を入念に調査し、アメリカ側から「密偵の様だ」と記録された。
交渉の停滞を打開したのは、与力・香山栄左衛門が浦賀奉行を詐称するという奇策であった。其の間もアメリカの測量艇は江戸湾深くへ侵入を続け、幕府に無言の圧力を掛ける。首席老中・阿部正弘は「国書を受け取るだけなら条約を結んだ訳でも通商を認めた訳でも無く、主権侵害には当たらない」との論理で、病床の徳川家慶に代わり、久里浜での親書受理を決断した。西暦1,853年7月14日、13発の礼砲の下、250名の水兵・海兵隊を率いて15隻のボートで上陸したペリーは、軍楽隊が「ヘイル・コロンビア」を奏でる中、戸田氏栄・井戸弘道にミラード・フィルモアの親書を手渡す。其処には、通商・石炭と食糧の供給・難破民の保護という、三つの要求が記されていた。伝達式は二十分程で終わり、外交交渉は一切行われなかった。
此の一部始終を、双眼鏡を手に鴨居の山から観察し続けた男が居た。松代藩の兵学者・佐久間象山である。佐久間は江戸詰家老・望月主水に宛て、蒸気船の速さはとても言葉に出来ない程で、彦根藩の台場からも追い付けなかったと書き送り、艦の全長・外輪の直径・砲門の数まで克明に記した上で、要求を認めれば其れが前例となり他国も武力を盾に同じ要求を持ち出す、と警告した。ペリー退去後も佐久間は、大砲は地形を踏まえて使う事が肝心であるとして御殿山への布陣を説き、阿部正弘・牧野忠雅の屋敷を訪ねて直訴し、軍議役に任じられて砲術隊を組織する。だが松代藩の財政は真田幸貫の改革と善光寺地震の復興費で窮乏しており、出兵は忌避された。西暦1,853年7月29日、佐久間は罷免され、8月9日には松代への帰国を命じられる。太平洋の彼方から現れた四隻の黒船が、二百年余りの泰平を根底から揺さぶった其の全軌跡を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- マシュー・ペリー 本書の中心人物。アメリカ海軍東インド艦隊司令長官。日本開国の使命を帯び、四隻の黒船を率いて浦賀に来航した。琉球王国では首里城に入城し、江戸湾では威嚇の空砲を放ち、久里浜でミラード・フィルモアの親書を手渡して、翌春の再来航を予告した。
- ミラード・フィルモア 第13代アメリカ大統領。日本の将軍に宛てた親書で、通商・石炭と食糧の供給・難破民の保護を要求した。其の親書が、ペリーの手で江戸幕府に届けられた。
- サミュエル・ウィリアムズ ペリーが主席通訳(中国語)として雇用。西暦1,837年のモリソン号事件で日本を訪れた経験を持ち、日本の文化や外交に関する知識をペリーに授けた。浦賀では片言の日本語でも日本側に話し掛けた。
- アントン・ポートマン ペリーが艦隊書記・参謀として雇用したアメリカの外交官。道中でミラード・フィルモアの親書のオランダ語訳を作成し、浦賀での交渉は、このポートマンを介したオランダ語で行われた。
- ハンフリー・マーシャル 駐清アメリカ公使。西暦1,853年5月、上海でペリーと接触し、太平天国の乱や清の情勢を伝えた。ピーター・パーカーと共に、ペリーから借りたサスケハナで揚子江を遡り、太平天国との接触を試みたが失敗した。
- ピーター・パーカー 駐清アメリカ臨時代理公使。上海でペリーに太平天国の乱に関する情報共有と外交助言を行った。通訳者として、ケイレブ・クッシング・ウォーレン・デラノ・ジュニアと共に黄埔を訪れた事も有る。
- 尚泰王 琉球王国の国王。ペリーの首里城入城に際し、琉球王国政府は偽の行政機関を設け、偽の役人を北殿で応対させる事で、正殿と尚泰王への直接接触を避け抜いた。
- ナサニエル・セイヴァリー 小笠原諸島・父島の島民。西暦1,853年6月、ペリーはアメリカ海軍管理下の父島植民地政府の樹立に当たり、セイヴァリーを移民の頭目に任命した。
- フランクリン・ブキャナン 旗艦サスケハナの艦長。香山栄左衛門の長崎回航要求を拒み、相応の高官を派遣せねば武力に訴えてでも上陸し、ペリー自ら徳川家慶に親書を呈すると迫った。
- ヘンリー・A・アダムズ アメリカ海軍東インド艦隊参謀長。西暦1,853年7月9日、船室に籠るペリーに代わり、ブキャナン・ジョン・コンティと共に中島三郎助・香山栄左衛門との会談に臨んだ。
- 中島三郎助 浦賀奉行所与力・応接掛。堀達之助と共に真っ先に旗艦へ漕ぎ寄せ、副奉行と称して乗船した。船体構造や搭載砲、蒸気機関を入念に調査し、アメリカ側から「密偵の様だ」「大胆で出しゃばり、しつこく詮索好き」と警戒された。
- 堀達之助 小通詞。旗艦に乗り込むと開口一番「I can speak Dutch」とオランダ語が話せる事を主張し、実在しない副奉行という役職で中島三郎助を紹介する事で、二人の乗船を実現させた。
- 香山栄左衛門 浦賀奉行所与力。浦賀奉行を詐称してアメリカ側と会談し、久里浜での親書受領へと交渉を運んだ。船内で見せられた地球儀に、ニューヨークやワシントンD.C.の位置を平然と指し示し、アメリカ側を驚かせた。
- 阿部正弘 江戸幕府の首席老中。「国法には反するが、国書を受け取るだけなら条約を結んだ訳でも通商を認めた訳でも無い」との論理で、長崎奉行を通さず久里浜での親書受理を決断した。佐久間象山の御殿山守備の訴えに対しては、道理に適っているとして正式な口上書の提出を求めた。
- 戸田氏栄 浦賀奉行。久里浜の国書伝達式で、井戸弘道と共にミラード・フィルモアの親書を受け取った。
- 井戸弘道 江戸詰の浦賀奉行。阿部正弘の命で浦賀へ赴き、戸田氏栄と協議して親書受領に当たった。
- 徳川家慶 江戸幕府第12代将軍。ペリー来航の折には病床に伏せており、幕府は決定が出来ない旨を伝えて、アメリカへの回答を先送りせざるを得なかった。
- 佐久間象山 松代藩の兵学者。鴨居の山から黒船を双眼鏡で観察し、艦の全長・外輪の直径・砲門の数まで克明に記した書簡を望月主水へ送った。蒸気船の速さと日本の海防の脆弱さに危機感を抱き、御殿山への布陣と出兵を藩と幕閣に訴えたが、建言は容れられず、罷免の上、松代への帰国を命じられた。
- 真田幸教 第9代松代藩主。佐久間象山を軍議役に任じて砲術隊の組織を命じ、望月主水に大小銃や弾薬の準備を命じたが、後に佐久間の御殿山出兵策は藩内で忌避される事となった。
- 望月主水 松代藩江戸詰家老。佐久間象山からの浦賀の状況を伝える書簡の宛先であり、御殿山守備の進言を真っ当な意見として真田幸教へ取り次いだ。だが後に、長谷川深美の根回しによって佐久間との往来を止める旨を伝える事になる。
初来航の航跡
- ノーフォーク出航 西暦1,852年11月24日、本書の起点。旗艦の蒸気外輪フリゲート艦ミシシッピ・スループ型帆船プリマス・サラトガ・補給艦サプライの四隻がバージニア州ノーフォークを発ち、上海を目指した。日本開国へ向けた、長い航海の始まりであった。
- 上海 西暦1,853年5月4日、ペリーが到着。サミュエル・ウィリアムズ・アントン・ポートマン・ハンフリー・マーシャル・ピーター・パーカーと接触し、日本の文化や清の情勢に関する知識を得た上で、5月17日に琉球王国へ向けて出発した。
- 琉球王国(那覇) 西暦1,853年5月26日到着。ペリーは直様、首里城入城を要求した。王家の住む城に兵を入れ、今後の交渉を有利に進める狙いであったが、琉球王国政府は対応しようとしなかった。
- 琉球王国の陸路調査 西暦1,853年5月30日から6月4日、護国寺を発ち、首里城・弁ヶ嶽・中城城・金武湾・恩納村・読谷山間切・北谷間切を経て那覇に帰着する徒歩調査。画家ウィリアム・ハイネが風物を描き、植物学者ジェームズ・モローが整備された道路と松並木を書き留めた。
- 首里城入城 西暦1,853年6月6日、ペリーが200名の兵を率い、琉球王国政府の抵抗を押し切って入城。政府は偽の行政機関を設け、ペリーを北殿に通して偽の役人に応対させる事で、正殿と尚泰王を守り抜いた。
- 小笠原諸島(父島) 西暦1,853年6月14日、二見港に到着。島内探検と石炭貯蔵用地の購入を行い、島民ナサニエル・セイヴァリーを移民の頭目に任じてアメリカ海軍管理下の植民地政府を樹立し、母島にはアメリカ領有宣言の銘板の写しを設置した。
- 琉球王国との友好協定 西暦1,853年6月23日、父島から帰着したペリー側と琉球王国政府の間で簡易的な友好協定が結ばれ、アメリカ船の琉球王国への寄港が許可された。7月2日、艦隊は四隻で琉球王国を出発する。
- 浦賀 西暦1,853年7月8日、四隻が浦賀水道を北上。観音崎と富津岬を結ぶ江戸の防衛線を越え、計73門の大砲で空砲を放った。17時、四隻が一列に投錨し、浦賀の町に砲門を向ける。「黒船来航」の衝撃が江戸を揺るがした。
- 江戸湾(測量) 西暦1,853年7月9日から、武装した短艇が浦賀湊内を測量し、11日には江戸湾内へ約20km侵入。ミシシッピが護衛に付き、日本側の警備船40隻と遭遇しながらも測量は続けられた。幕府への無言の圧力となった。
- 久里浜(国書伝達) 西暦1,853年7月14日、ペリーが250名の水兵・海兵隊を率い、15隻のボートで上陸。軍楽隊が「ヘイル・コロンビア」を演奏する中、戸田氏栄・井戸弘道にミラード・フィルモアの親書を手渡した。伝達式は二十分程で終わった。
- 江戸湾深部への侵入 西暦1,853年7月15日夕方、四隻が江戸湾深くへ北上。サスケハナとミシシッピは江戸の街を見渡せる所まで艦を進め、日が暮れてから大砲を放って威嚇し、小柴沖へ引き返した。生麦村付近までの測量は、次回来航時の停泊地決定に備えたものであった。
- 退去と再来航の予告 西暦1,853年7月17日、艦隊は浦賀を出航。ペリーは翌春の再来航を予告し、琉球王国へと去った。此の再来航が、翌年の日米和親条約へと繋がってゆく。
- 佐久間象山の罷免と帰国命令 西暦1,853年7月29日、佐久間象山が海防御人数臨時出役・軍議役の罷免を言い渡され、8月9日には松代藩への帰国を命じられる。窮乏した藩財政の下で御殿山出兵が忌避された結果であった。本書の終点。
ノーフォークから浦賀、そして久里浜へ──
黒船来航に至るマシュー・ペリー初来航の全軌跡を一元化。
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