ニパウイルスの予行演習を実施した
内閣府と大西洋評議会
一元化
西暦1,998年、マレーシアの豚農場から始まった──
ニパウイルスの実際の流行と、二つの予行演習を一元化。
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本書について
西暦1,998年9月29日、マレーシアで一つの流行が始まった。当初それは日本脳炎と診断され、蚊を媒介とする感染症への対策が採られたが、効果は無かった。イポー(マレーシアのペラ州)の豚農場を発端としたその病は、ヌグリ・スンビラン州で231例86名、ペラ州で28例15名、セランゴール州で24例8名という被害を出し、翌西暦1,999年5月31日までに265例の急性脳炎症例と105名の死者を数える。人から人へは感染せず、豚から人へ感染する事が判り、マレーシア国内の約半数に相当する1,000,000頭以上の豚を射殺する事で、流行はようやく終息した。本書は、この病——ニパウイルスの実際の流行と、後にそれを題材として国家が実施した二つの「予行演習」を、年月日単位で一元化した記録である。
ウイルスは豚と共に国境を越えた。西暦1,999年3月13日、マレーシアから輸出された豚を原因として、シンガポールで最初の患者が入院する。数日の内に複数の屠畜場労働者が発症し、3月17日には公衆衛生当局へ正式に病気が通知された。3月19日、初の死者が1名。日本脳炎ではなくニパウイルス関連の可能性が確認されると、シンガポール政府は同日、マレーシア産豚の輸入を全面禁止とする。感染は計11名で確認されたが、新規の感染はこの日を境に止まった。そして西暦2,001年以降、バングラデシュやインドで、小さな流行が繰り返されてゆく。
西暦2,018年4月30日、ペリンタマンナ(インドのケララ州コーリコード県)で発生した最初の患者が、次のアウトブレイクの始まりとなった。5月2日にベイビー・メモリアル病院へ入院したその患者は、5月5日にカリカット・メディカル大学病院へ移送され、そこで二次感染を広げた末に同日中に死去する。5月12日から感染はピークを迎え、カリカット・メディカル大学病院とペランブラ・タラック病院の医療従事者や訪問者を中心にクラスターが形成された。同月17日には、発熱で受診した一人の男性が、家族・同室患者・看護師等9名に感染させ、転院先でさらに10名に、そしてその19名の内の数名がまた別の入院患者3名に感染させている。病院そのものが、感染の場になっていた。
同じ5月17日、マニパルウイルス研究センター(インドのカルナータカ州)と国立ウイルス学研究所(インドのマハーラーシュトラ州)でニパウイルス陽性が確認され、インド政府はケララ州に緊急事態宣言を発令する。5月20日、国立ウイルス学研究所のNGS(次世代シーケンシング)分析により、今回のウイルスがマレーシア型(NiV-M)に85%、バングラデシュ型(NiV-B)に96%一致する事が発表された。ニパウイルスは年次を重ねるに連れて遺伝子変異を繰り返し、バングラデシュ型に至ってはウイルス性肺炎を引き起こして人から人への感染力を増している——より人間に取って危険な方向へ、進化していたのである。5月31日の最後の死者を以て、感染者23名中死亡者21名、致死率約91%という深刻な結果が残された。日本脳炎との誤診による初期診断の遅れ、不十分な感染制御、平均9日という長い潜伏期間、そしてリバビリン等の支持療法しか無い治療。同年7月10日頃、インド政府とケララ州当局が終息を宣言する。
そして本書の主題は、ここから現実の外側へ移る。西暦2,023年3月4日、内閣府科学技術・イノベーション推進事務局が、SIP(戦略的イノベーション創造プログラム)第3期「感染症対策の強化」の議論において、ニパウイルスを想定したパンデミックシナリオの資料を公開した。ワクチン開発や危機管理の議論を促進する事が、その意図であった。舞台は人口密度が世界の都市で最も高いダッカ。1ドル/日以下で生活し、病気になっても医療機関に掛かれずに自然回復を待つしかないスラム街の住人達は、ウイルスに取って好都合な条件として描かれる。バングラデシュ観光ツアーに参加した東京の大学生が帰国し、二週間後に39度の高熱を出す——シナリオはそこから始まる。
大学生は総合診療部の外来で2時間待たされ、その間に嘔吐し、意識混濁を経て脳炎と診断され、死去する。遺族の意向で病理解剖は為されず、原因ウイルスは特定されない。同じ日、モデルナ社はFG領域の遺伝子を新型に入れ替えたワクチンのデザインを完了し、直ちに大量生産体制へ移る。やがて主治医・看護師・家族・電車で同じ車両に居た人間が発症し、内閣感染症危機管理監の記者会見を経て、新型ニパは2類感染症へ引き上げられた。シナリオが与えるウイルスの諸元は具体的である。西暦1,998年のマレーシア株と80%同じで20%異なる新種を「ニパウイルスB2」と呼び、基本再生産数は5、飛沫とエアロゾールを中心とする感染経路、潜伏期間は4〜21日、発症の3日前から感染力を持ち、PCR陽性者の致死率は18%。そして翌日には対策本部が置かれ、日本銀行・赤十字・NHK・電気・ガス・水道・通信・輸送といった機関へ事業の継続が要請される。
もう一つの演習は、太平洋の向こう側で書かれた。西暦2,024年4月、アメリカのシンクタンクである大西洋評議会傘下のバイオディフェンス委員会が、「国家生物防衛基本計画:生物学的脅威に対する防衛の為の緊急措置」と題した報告書を発表する。そこに掲載されたのは、ニパウイルスを使った架空のバイオテロのシナリオであった。西暦2,025年7月4日、独立記念日を祝う首都と諸都市が生物兵器で攻撃され、1日で少なくとも280,000名が死亡し、400,000名が感染する。攻撃の前には、防御を試す為の小規模攻撃が既に行われていたが、殆ど気付かれなかった。自然界では人から人へ容易に感染しないこのウイルスは、遺伝子改変によって感染力を高めながら40%を超える死亡率を維持していた——公聴会の議長は、そう語る。実際の流行と、二つの国家機関が描いた想定。本書はその全過程を一冊に束ねている。
本書が記録する出来事
- マレーシアのアウトブレイク 西暦1,998年9月29日から西暦1,999年5月31日まで続いた、本書の起点となる流行。イポー(マレーシアのペラ州)の豚農場を発端に、ヌグリ・スンビラン州(231例・86名死亡)・ペラ州(28例・15名死亡)・セランゴール州(24例・8名死亡)へ広がり、265例の急性脳炎症例と105名の死者を出した。当初は日本脳炎と診断され蚊媒介の対策が採られたが効果は無く、豚から人へ感染する事が判明した後、国内の約半数に相当する1,000,000頭以上の豚を射殺する事で終息した。
- シンガポールへの波及 西暦1,999年3月13日、マレーシアから輸出された豚を原因として最初の患者が入院し、以降数日で複数の屠畜場労働者が発症した。3月17日に公衆衛生当局へ正式に通知され、3月19日には初の死者1名が発生。日本脳炎ではなくニパウイルス関連の可能性が確認された事を受け、政府は同日マレーシア産豚の輸入を全面禁止とした。感染は計11名で確認され、新規感染は此の日以降発生しなかった。
- バングラデシュ・インドでの小流行 西暦2,001年以降、バングラデシュやインドで繰り返された小規模な流行。年次を重ねる中でウイルスの遺伝子変異が積み重なってゆく期間に当たる。
- ケララ州のアウトブレイク 西暦2,018年4月30日、ペリンタマンナ(インドのケララ州コーリコード県)で発生した最初の患者に始まる流行。患者は5月2日にベイビー・メモリアル病院へ入院し、5月5日にカリカット・メディカル大学病院へ移送されて二次感染を広げた末、同日中に死去した。5月12日から18日が感染のピークで、医療従事者や訪問者を中心にクラスターが形成され、コーリコード県での暴露が原因でマラップラム県にも2例が発生した。
- 一人の男性が生んだ連鎖 西暦2,018年5月17日朝、発熱を理由にベイビー・メモリアル病院を受診したコーリコード県の男性の事例。入院後にミオクローヌス・頻拍・高血圧・心筋炎・循環不全を発現し、家族・同じ病室や隣ベッドの入院患者・看護師等9名に感染させた。カリカット・メディカル大学病院への転院先で更に10名に感染させ、其の19名の内の数名が別の入院患者3名に感染させている。
- NGS分析が示した変異 西暦2,018年5月20日、国立ウイルス学研究所のNGS(次世代シーケンシング)分析により発表された結果。今回のアウトブレイクのウイルスは、マレーシア型(NiV-M)に85%、バングラデシュ型(NiV-B)に96%一致していた。ニパウイルスは年次を重ねるに連れて遺伝子変異を繰り返し、バングラデシュ型はウイルス性肺炎を引き起こして人から人への感染力を増しており、より人間に取って危険なウイルスへと進化している。
- 致死率約91%と終息宣言 西暦2,018年5月31日の最後の死者を以て、ケララ州のアウトブレイクは感染者23名中死亡者21名、致死率約91%という結果を残した。医療施設内での人から人への感染が主で、日本脳炎との誤診により初期診断が遅れ、重症化してから対応したケースが多かった。感染制御も不十分で、潜伏期間が平均9日と長く、治療法もリバビリン等の支持療法しか無かった。同年7月10日頃、インド政府とケララ州当局が州全域での終息を宣言した。
- 内閣府のパンデミックシナリオ公開 西暦2,023年3月4日、内閣府科学技術・イノベーション推進事務局が、SIP(戦略的イノベーション創造プログラム)第3期「感染症対策の強化」の議論において公開した資料。ワクチン開発や危機管理の議論を促進する事を意図し、ダッカを起点として日本へ波及するニパウイルスのパンデミックが、日付単位のタイムラインとウイルスの諸元と共に描かれた。
- 大西洋評議会の報告書 西暦2,024年4月、アメリカのシンクタンクである大西洋評議会傘下のバイオディフェンス委員会が発表した「国家生物防衛基本計画:生物学的脅威に対する防衛の為の緊急措置」。アメリカが直面する生物学的脅威の脆弱性を強調する事を意図し、ニパウイルスを使った架空のバイオテロのシナリオが、合同公聴会での議長発言という形式で掲載された。
主要な機関・概念
- 内閣府科学技術・イノベーション推進事務局とSIP第3期 西暦2,023年3月4日にニパウイルスのパンデミックシナリオを公開した部局と、其の舞台となったSIP(戦略的イノベーション創造プログラム)第3期「感染症対策の強化」の議論。ワクチン開発や危機管理の議論を促進する事が、資料公開の目的として掲げられた。
- ニパウイルスB2と新型ニパウイルス感染症 内閣府のシナリオが設定した架空の新種。西暦1,998年にマレーシアでアウトブレイクしたニパウイルスのゲノムと80%同じで20%異なり、過去にバングラデシュで発生したクラスターのものとも85%同じで15%異なる。危険なウイルスである為、培養は最も厳しい基準であるBSL-4の施設内で扱われるべきものとされ、全ゲノムの解析情報とPCR検査方法は流行の初期に公開済とされた。
- シナリオが与えたウイルスの諸元 基本再生産数は5で、他者に感染させるのは2割、その多くは1人で10人以上に感染させるスーパースプレッダー。感染経路は飛沫とエアロゾールが中心で、潜伏期間は10〜14日を中心とする4〜21日、発症の3日前から感染力を持つ。PCR陽性者の5割が無症状・3割が軽症・2割が重症で、重症者の死亡率は約9割、PCR陽性者の内での致死率は18%。発症から死亡までは中央値で14日とされた。
- バングラデシュ観光ツアーに参加した東京の大学生 内閣府のシナリオにおけるインデックス・ケース。帰国から二週間後に39度の高熱を発症し、風邪の悪化と診断された後に症状が急変。紹介状の無い初診として総合診療部外来で2時間待たされ、其の間に嘔吐した。意識混濁から脳炎と診断されて死去したが、遺族の意向により病理解剖は為されず、原因ウイルスは特定されなかった。想定では、朝のラッシュ時の電車を含め最大24名に感染させた可能性が語られる。
- 内閣感染症危機管理監と政府現地対策本部 シナリオの中で日本側の対応を担う体制。内閣感染症危機管理監はWHOの記者会見を受けて会見を行ない、サーベイランスと検疫の強化、国内初の患者確認、2類感染症への引き上げを発表する。翌日には内閣感染症危機管理庁の指揮下に「ニパ感染症政府現地対策本部」が置かれ、首相の下で一元的に対策が行われる形が描かれた。
- モデルナ社のワクチンデザイン シナリオ内で、最初の患者が死去したのと同じ日に、FG領域の遺伝子を新型に入れ替えて新型ニパウイルスワクチンのデザインを完了し、直ちに大量生産体制へ移ったとされる企業。原因ウイルスが特定されないまま、ワクチンの設計だけが先に完了している点が、この想定の特徴となっている。
- 事業継続を要請された機関 シナリオにおいて、新型インフルエンザの際に協力を依頼すべく予め指定されていた機関群。日本銀行・赤十字・NHK・国公立病院・大学附属病院・医薬品/医療機器メーカー・電気・ガス・水道・通信・輸送の各機関長に対し、対策本部設置の当日午後に事業の継続が要請された。
- 西暦2,025年7月4日の架空のバイオテロ 大西洋評議会の報告書が描いた攻撃。独立記念日を祝う首都や他のアメリカの都市が生物兵器で攻撃され、1日で少なくとも280,000名のアメリカ人が死亡し、全国で少なくとも400,000名が感染、200,000頭の動物が死亡し800,000頭が病気に苦しんだとされる。攻撃の前には防御を試す小規模攻撃が行われていたが殆ど気付かれず、自然界では人から人へ容易に感染しないウイルスが、遺伝子改変により感染力を高めながら40%を超える死亡率を維持していたと語られる。
- 突かれたとされた8つの弱点 公聴会の議長が、敵対勢力に突かれた弱点として挙げた項目。COVID-19パンデミックで明らかになった脆弱性を排除しなかった事、生物学的脅威に関する情報活動の不足、病原体の早期検知と暴露源特定の失敗、家畜での発生と人間の病気の特定の遅れ、公衆衛生と医療の備えへの一貫した資金提供の欠如、医療対抗措置の備蓄不足、そして政府内・同盟国・国民に対するコミュニケーションの失敗が並ぶ。
現実の流行から、机上の予行演習へ──
内閣府と大西洋評議会が描いたシナリオの全容を一元化。
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