盧溝橋事件の黒幕
劉少奇 一元化
西暦1,937年7月7日22時40分、盧溝橋に銃声が響いた──
日中全面戦争の発端となった一夜を、分単位で一元化。
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本書について
西暦1,937年6月27日、北京武官室の少佐今井武夫は、浄土真宗本願寺派門主の大谷光瑞と面会している。大谷は「華北での摩擦が激化し、軍事衝突に発展する恐れがある」と予測したという。その予測から僅か10日後の7月7日夜、盧溝橋に銃声が響く。日中全面戦争の発端となったこの事件は、開戦から八十年余を経た今もなお、最初の一発を誰が撃ったのかを巡って議論が続いている。本書は、この一夜を分単位にまで刻みながら、事件の前後十二年を年月日単位で一元化した記録である。
その夜の経過は、今井武夫を始めとする当事者の記録によって、かなりの精度で追うことができる。21時30分頃、大尉清水節郎率いる支那駐屯軍の一中隊が、龍王廟付近で空砲による夜間演習を開始した。鉄帽も着けぬ軽装備で、万一に備えた実砲30発は木綿糸で厳重に包装され、使用できぬ状態にあったという。永定河の堤防上では、上校吉星文率いる国民革命軍第29軍の一個連隊が警戒に当たっていた。そして22時40分頃、両者に向けて銃弾が撃ち込まれる。清水は集合ラッパを吹き、点呼を取ったところ、二等兵志村菊次郎の姿が無い。捜索のため対岸の宛平城への進入を求めた日本側に対し、中国側は北京議定書違反であるとしてこれを拒んだ。志村は20分後、何事もなく帰隊している。だが、その一報は前線を駆け巡る電報には間に合わなかった。
事件が「拡大」へと傾いてゆく過程を、本書は執拗に追う。8日3時25分、今井は「北武第211号電」を外務省・陸軍省・支那駐屯軍・北平大使館へ打電するが、そこに志村の帰隊は盛り込まれていない。4時の第二報でも、6時の第三報でも同様であった。3時25分には宛平県方面から3発の銃声が響き、軍使として乗り込んだ桜井徳太郎の抗議に対し、中国側は「此方は撃ってはいない。日本軍が撃つものだから、此方も撃つのだ」と返している。撃っていないと言う両者の間で、銃声だけが鳴り続けた。5時、今井は北平大使館の武官庭に朝日新聞・ニューヨーク・タイムズ紙・ロイター通信ら内外八社の記者を集め、「不拡大、現地解決」を強調して30分の会見を行っている。
現地には、事態を収めようとする者たちが確かに居た。今井は8日0時に第29軍副軍長秦徳純と電話で不拡大を確認し、6時には秦の自宅を訪ねて協定の骨子を議論する。11日には橋本群の許可を得た上で、独断で両軍同時撤退を提案し、斉燮元・張允栄・林耕宇との会談で停戦協定の骨子を纏め上げた。ところが同じ11日の14時、近衛文麿内閣は内地3個師団・朝鮮1個師団・満洲国2個旅団の北支派兵を閣議決定する。穏健派であった支那駐屯軍司令官田代皖一郎が危篤にあったことも影響したという。参謀専田盛寿からは「内地で派兵決定したので、現地停戦交渉を中止せよ」との電話が入るが、今井は「既に約束した事」としてこれを拒み、松井太久郎の許可を取り付けて、同日20時、張允栄の自宅で協定に調印した。妻に遺書を送った翌日の出来事であった。
協定が結ばれた後も、銃声は止まなかった。八宝山と日本軍陣地との中間地帯では、夜になると必ず射撃が起こる。7月21日、監視委員として現地に入った中島弟四郎と周恩靖は、その夜の交戦でも最初の発砲が日本軍でも国民革命軍でもないことを突き止めた。翌22日夜には、潜伏していた日本の憲兵と中華民国の密偵が、北平大学・清華大学の学生グループを、銃砲や爆竹を鳴らした容疑で逮捕している。誰が撃っているのか——この問いこそが、本書の主題である。本書は、当時中国共産党の北方総局で采配を振るっていた劉少奇が仕組んだものであるとする立場から、コミンテルンの秘密司令、第29軍副参謀長を務めた秘密党員張克侠の存在、大和田通信所による暗号電信の傍受、そして西暦1,947年から1,948年にかけての河辺正三・牟田口廉也の理由なき釈放と、その背景にあったとされる劉少奇の発言までを、一連の連なりとして提示してゆく。
もっとも、この主題については読者に断っておくべきことがある。盧溝橋事件の第一発を誰が撃ったのかについて、史学上の定説は現在も存在しない。日本軍発砲説、現地中国軍の偶発射撃説、そして本書が採る中国共産党の謀略説など複数の説が併存し、教科書では「不明」と記されるのが通例である。中国共産党謀略説の有力な根拠とされる「戦士政治課本」の記述についても、現物が示されていないことから事実として確定したとは言えないとする批判があり、劉少奇が西側記者団に発表したとされる発言も、その典拠を巡って議論がある。本書が一元化するのは、確定した結論ではなく、この事件を巡って積み上げられてきた記録と証言の連なりである。時刻表のように刻まれた事実の並びの上に、読者自身が判断を下すための材料として、本書は編まれている。
登場人物
- 劉少奇 本書が題名に掲げる人物。事件当時、中国共産党の北方総局で采配を振るい、北平大学の図書館に勤務していたとされる。本書は、盧溝橋での発砲が劉の仕組んだものであるとする立場を採り、西暦1,947年から1,948年にかけて劉が西側諸国の記者団に対し「盧溝橋事件の仕掛け人は中国共産党で、私が北平大学の学生を使って発生させたものである。現地の責任者は此の私だ」と発表したとされる件を、河辺正三・牟田口廉也の釈放と結び付けて記述する。ただし、この発言の典拠と、中国共産党謀略説そのものについては、史学上なお議論がある。
- 今井武夫 北京武官室の少佐で、本書の記述の中心を成す人物。西暦1,937年7月8日0時に第29軍副軍長秦徳純と電話で不拡大を確認し、3時25分に「北武第211号電」を打電。5時には内外八社の記者を集めて会見を開いた。11日には橋本群の許可を得て独断で両軍同時撤退を提案し、参謀専田盛寿からの交渉中止指示を「既に約束した事」として拒み、同日20時に松井太久郎と共に現地停戦協定の調印を完了させた。前日には妻きみ子に遺書を送っている。
- 清水節郎と志村菊次郎 西暦1,937年7月7日夜、龍王廟付近で夜間演習に当たっていた支那駐屯軍の中隊長(大尉)と、その隊の二等兵。実弾を受けた清水が点呼を取ったところ志村の姿が無く、これが宛平城への進入要求の理由となった。志村は20分後の23時頃に帰隊しているが、その事実は8日3時25分・4時・6時の各電報には反映されず、事態が拡大する過程で伝わらなかった。
- 牟田口廉也と一木清直 支那駐屯軍歩兵第1連隊長と第3大隊長。清水節郎からの報告は一木を経て牟田口へ伝えられ、牟田口は一木に現場への急行を命じ、志村捜索のための宛平城進入を要求した。8日3時20分には一文字山を占領し、砲兵陣地の構築を図っている。牟田口は西暦1,948年3月、理由も告げられずに釈放された。
- 吉星文と張克侠 吉星文は永定河堤防上で警戒に当たっていた国民革命軍第29軍第37師第110旅第219連隊の上校。張克侠は第29軍副軍長兼第38師参謀長を務めた中国共産党の秘密党員で、日本軍の宛平城進入要求に対し「宛平城は中華民国の領土であり、日本軍の進入は北京議定書違反で許されない。此方で捜索する」と返答した人物。吉星文もこれを支持し、防衛体制を強化した。
- 秦徳純と宋哲元 秦徳純は国民革命軍第29軍副軍長で冀察政務委員会常務委員兼北平市長。今井武夫との電話交渉および自宅での会談を通じ、不拡大と停戦協定の骨子作りに当たった。宋哲元は第29軍の軍長で、衝突直後に南京の蒋介石へ電報を送り、蒋は軍事委員会で「不拡大、現地解決」を厳命している。宋は7月18日、張自忠と共に華北駐屯軍司令部を訪れ、香月清司と停戦交渉を行った。
- 河辺正三 日本軍支那駐屯軍歩兵旅団長。西暦1,937年7月7日の衝突発生時は不在であった。西暦1,947年9月18日、理由も告げられずに釈放されている。本書は、この釈放の背景に劉少奇の発言があったとする見方を記述する。
- 近衛文麿 第34代内閣総理大臣。西暦1,937年7月11日14時頃、内地3個師団・朝鮮1個師団・満洲国2個旅団の北支派兵を閣議決定した。今井武夫が現地で停戦協定の調印を進めていたのと、ほぼ同じ時刻の決定であった。穏健派であった支那駐屯軍司令官田代皖一郎が危篤状態にあったことが影響したとされる。
事件の系譜
- 大谷光瑞の予測 西暦1,937年6月27日、本書が記録する時系列の起点。今井武夫と面会した浄土真宗本願寺派門主の大谷光瑞が「華北での摩擦が激化し、軍事衝突に発展する恐れがある」と予測した。その10日後、盧溝橋に銃声が響くこととなる。
- 石友三の奇妙な依頼 西暦1,937年7月6日夜、北京西北の料亭で夕食を摂っていた今井武夫の元へ、冀北保安隊司令石友三が現れ「今盧溝橋で、国民革命軍と日本軍が衝突している。しかし私の部隊は加わっていないので、我が部隊は攻撃しないで欲しい」と述べた。今井は「そんな事が起きたのなら、北京武官室から真っ先に私の所に電話が有る筈だ」と一蹴している。衝突の前夜の出来事であった。
- 大和田通信所の傍受 西暦1,937年7月7日16時頃、大和田通信所の隊員が、北京駐在のアメリカ海軍武官補佐官チャールズ・キャンベル・ブラウンから海軍作戦部長ウィリアム・リーヒに宛てた至急の暗号電信を傍受したとされる。解読された内容は「本日夕方に、中華民国側から日本側を攻撃する」という主旨であったという。首脳部が既に退庁していたため、海軍省首席副官柳澤蔵之助が方々へ電話を掛けて漸く連絡が付いた。
- 龍王廟の夜間演習と最初の銃声 西暦1,937年7月7日21時30分頃、清水節郎率いる中隊が空砲で夜間演習を開始。携行した実砲30発は木綿糸で厳重に包装され、使用できぬ状態であった。22時40分頃、日本軍と国民革命軍の双方に向けて銃弾が撃ち込まれる。本書は、これを両者の中間地点から懐中電灯の点滅を合図に行われた発砲であったとする立場を採る。
- 志村菊次郎の失踪と帰隊 点呼で二等兵志村菊次郎が行方不明と判明し、これが宛平城への進入要求の理由となった。張克侠は北京議定書違反として拒否し、吉星文も防衛体制を強化する。志村は20分後の23時頃に帰隊したが、その事実は8日3時25分以降の三度の電報のいずれにも反映されなかった。
- 北武第211号電と記者会見 西暦1,937年7月8日3時25分、今井武夫が被弾と志村失踪を外務省・陸軍省・支那駐屯軍・北平大使館へ打電。4時に第二報、6時に第三報を送った。5時には北平大使館の武官庭に朝日新聞・ニューヨーク・タイムズ紙・AP通信・ロイター通信ら内外八社を集め、「不拡大、現地解決」を強調する30分の会見を行っている。
- 中国共産党の全国宛電報 西暦1,937年7月8日朝、中国共産党が新聞社・学生団体・労働組合・華僑組織・国民革命軍・地方軍閥・中国国民党政府・コミンテルン・国外メディアに向け「西暦1,937年7月7日22時、日本軍が攻撃した。全中国同胞・政府・軍隊は団結し、日寇侵略に抵抗せよ」という主旨の電報を送った。
- 現地停戦協定の調印と北支派兵決定 西暦1,937年7月11日、今井武夫が独断で両軍同時撤退を提案し、斉燮元らと協定の骨子を纏めた。だが同日14時頃、近衛文麿内閣は内地3個師団・朝鮮1個師団・満洲国2個旅団の北支派兵を閣議決定する。専田盛寿からの交渉中止指示を拒んだ今井は、同日20時、松井太久郎と共に張允栄の自宅で調印を完了させた。7月19日には天津で停戦協定が締結されている。
- 空白地帯での挑発と学生グループの逮捕 停戦協定の後も、八宝山と日本軍陣地の中間地帯では夜毎に銃声が響いた。西暦1,937年7月21日、監視委員として現地に入った中島弟四郎と周恩靖は、その夜の交戦でも最初の発砲が日本軍でも国民革命軍でもないことを突き止める。翌22日夜、潜伏していた日本の憲兵と中華民国の密偵が、銃砲・爆竹を鳴らした北平大学・清華大学の学生グループを逮捕した。
- 戦後の釈放と建国宣言 西暦1,947年9月18日に河辺正三が、翌1,948年3月に牟田口廉也が、いずれも理由を告げられぬまま釈放された。本書は、その背景に劉少奇の記者団への発表があったとする見方を記述する。そして西暦1,949年10月1日、北京で建国が宣言され、初代国務院総理となった周恩来が盧溝橋事件を巡る発言を残したとされる。本書が辿る時系列の終着点。
誰が最初の一発を撃ったのか──
盧溝橋事件を巡る記録と証言の連なりを一元化。
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