ジョン万次郎一元化
西暦1,841年、無人の鳥島に一隻の捕鯨船が現れた──
ジョン万次郎の生涯と、その船を巡る血脈を一元化。
JPY 200(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。
本書について
西暦1,841年1月27日の早朝、宇佐浦(現在の高知県土佐市宇佐町宇佐)から一隻の漁船が出た。船頭の筆之丞、その弟で漁撈係の重助、櫓係の五右衛門と寅右衛門、そして炊係を務める14歳の万次郎——足摺岬での鯵・鯖漁に向かった5名は、3日後、強風によって船を失う。2月4日、彼らが流れ着いたのは、伊豆諸島の無人の火山島・鳥島であった。岩から染み出す水を飲み、海藻を食べ、繁殖地であるアホウドリを捕らえて凌ぐ、143日に及ぶ漂着生活が始まる。本書は、この難破を起点として、後にジョン万次郎と呼ばれる一人の漁師の少年が辿った生涯を、年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,841年6月27日、海亀を捕獲する為に鳥島へ立ち寄った一隻の捕鯨船が、5名を発見する。アメリカ船「ジョン・ハウランド号」——船長ウィリアム・ホイットフィールドと、その親友ウォーレン・デラノ・ジュニアが共同で船主を務め、船を所有していたのは、西暦1,620年にメイフラワー号でプロビンスタウンに上陸した乗組員ジョン・ハウランドの子孫、ハウランド家であった。太平洋の孤島で日本の少年を拾い上げたのが、新大陸建国の血脈に連なる捕鯨船だったのである。5名の中で唯一、万次郎だけが貪欲に英語を覚えようとした。ポールという船員が船内を案内して器具の名を教え、万次郎は貰ったノートにその名を書き留めていった。同年11月20日にホノルルへ寄港した際、ホイットフィールドは万次郎の聡明さを見抜き、北米大陸で教育を受けさせたいと申し出る。世界地図を見せられ、日本という国の小ささを知った万次郎は、好奇心から同行を願い出た。
西暦1,843年5月7日、ジョン・ハウランド号はニューベッドフォードに帰港する。万次郎はフェアヘイヴンでアレン姉妹から英語の読み書きを教わり、初級学校オールド・ストーン・スクールに入学した。周囲は全員ネイティブという環境で読み書きに苦しみながらも優秀な成績で卒業し、更に高等学院バーレット・アカデミーへ進んで航海術・測量・造船学を修め、西暦1,846年、ここも優秀な成績で卒業する。アメリカに帰国したウォーレン・デラノ・ジュニアも、株式投資で安泰な生活を送りながら、フェアヘイヴンの万次郎を度々訪ねていた。だが同年5月、捕鯨船フランクリン号への誘いを受けた万次郎は、その船が日本近海へ向かうと知って帰国を決意する。母の作った一枚の着物を荷物に詰め、給仕係として彼は再び海へ出た。
帰国への道は、容易には開かれなかった。西暦1,847年3月、琉球王国への上陸を試みるも鹿児島藩の役人に断られ、事情を説明しようにも、既に片言の日本語しか話せなくなっていた。同年11月、船長アイラ・デービスが精神を病んで監禁されると、新船長を決める投票で万次郎は一等航海士アイザック・エーキンと同票の首位に並んでいる。西暦1,849年8月の帰港で350ドルの配当金を得た万次郎は、日本近海へ向かう船が見つからぬまま、帰国費用を稼ぐ為にカリフォルニアの金鉱へ向かった。ゴールドラッシュの只中、70日余りで600ドルを稼ぎ出す。西暦1,850年8月31日にホノルルで筆之丞・五右衛門・寅右衛門と再会した彼は、デーモン牧師の仲介で上海行きの商船サラ・ボイド号に乗ることを取り付け、上陸用の小舟を買って「アドベンチャー号」と名付けた。出発前、彼は育ててくれたホイットフィールドへ、感謝を綴った書簡を書き残している。
西暦1,851年2月3日、3名はアドベンチャー号で摩文仁間切の小渡浜(現在の沖縄県糸満市大度)に上陸する。村人にふかし芋を振る舞われ、彼らは持参した牛肉とコーヒーを火に掛けて食べて見せた。番所では航海術書・数学書・ジョージ・ワシントン伝記・地図・八分儀・コンパスなどを没収されたが、ご飯と箸を上手に使いこなしたことで日本人と認められる。鹿児島藩へ護送されると、第11代藩主島津斉彬は3名を丁重に扱い、船大工を派遣して造船術・捕鯨術・航海術を学ばせ、自ら鹿児島城に招いて海外情勢を問うた。斉彬が纏めた書簡は長崎奉行から韮山代官江川英龍へと伝わり、万次郎の存在は遂に江戸幕府の知るところとなる。長崎奉行所の踏み絵と取り調べを経て無罪の裁定が下り、西暦1,852年11月2日、彼は宇佐で母汐と再会した。姉と妹は、万次郎を失って建てた苔むした墓石を抱いて咽び泣いたという。
帰郷から3日後、万次郎は士分に取り立てられ、高知城下の藩校教授館の教授となる。後藤象二郎や岩崎弥太郎が、その指導を受けた。ペリー来航の年である西暦1,853年、老中阿部正弘は彼を江戸へ招き、アメリカの共和政治や大統領選挙、そして「海軍の創設は急務である」「ペリー再来航の際の通訳にはオランダ語ではなくアメリカ語が必要」といった見解を直接聴取する。同年12月5日、万次郎は直参旗本に取り立てられた。しかし翌年の日米和親条約では、彼をアメリカのスパイと疑う徳川斉昭の反対により、交渉の場から外され翻訳作業に留められている。それでも彼は歩みを止めなかった。西暦1,859年に日常英会話213を収めた「英米対話捷径」を著し、西暦1,860年には咸臨丸の主席通弁官として、勝海舟や福澤諭吉と共に太平洋を渡る。小笠原諸島の調査、開成所・開成館・開成学校での教育——そして西暦1,870年11月、普仏戦争視察団としてアメリカへ渡った万次郎は、フェアヘイヴンにウィリアム・ホイットフィールドを訪ね、二人は互いに涙した。本書は、この漂流から再会までの全てを一冊に束ねている。
登場人物
- ジョン万次郎 本書の中心人物。西暦1,841年1月、14歳で炊係として乗り込んだ漁船が難破し、鳥島に漂着。捕鯨船ジョン・ハウランド号に救出され、5名の中で唯一貪欲に英語を学んだ。フェアヘイヴンでオールド・ストーン・スクールとバーレット・アカデミーを優秀な成績で卒業し、航海術・測量・造船学を修めた。カリフォルニアの金鉱で帰国費用を稼ぎ、西暦1,851年に琉球へ上陸。高知藩教授館の教授、江戸幕府の直参旗本を経て、咸臨丸の主席通弁官として渡米した。
- ウィリアム・ホイットフィールド 捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長。西暦1,841年6月、鳥島で5名を救助し、ホノルルでは各々に洋服1着と50セント銀貨を与えた。万次郎の聡明さを見抜き、自身の故郷フェアヘイヴンで教育を受けさせたいと申し出た人物。西暦1,846年にはホノルルで筆之丞・五右衛門の帰国船を手配している。西暦1,870年11月、フェアヘイヴンを訪れた万次郎と再会し、互いに涙した。
- ウォーレン・デラノ・ジュニア ウィリアム・ホイットフィールドの親友で、ジョン・ハウランド号の共同船主。西暦1,846年にアメリカへ帰国した後は家族を持ち、株式投資により安泰な生活を送った。フェアヘイヴンで暮らしていた万次郎を度々訪ねている。
- 筆之丞・重助・五右衛門・寅右衛門 万次郎と共に難破・漂着した4名。船頭の筆之丞、その弟で漁撈係の重助、櫓係の五右衛門と寅右衛門。重助は西暦1,846年にオアフ島で病死し、カネオヘに埋葬された。寅右衛門は現地の女性と結婚して大工となり、ハワイに留まった。筆之丞と五右衛門は八丈島・蝦夷への上陸に失敗した後、西暦1,851年に万次郎と共に琉球へ上陸を果たした。
- 島津斉彬 第11代鹿児島藩主。西暦1,851年8月、護送されてきた3名を丁重に扱うよう命じ、山海の珍味で饗応した。田原直助と船大工を毎日派遣して造船術・捕鯨術・航海術を学ばせ、3名を鹿児島城に招いて万次郎に直々に海外情勢を尋ねている。斉彬が纏めた書簡が長崎奉行内藤忠明から韮山代官江川英龍へと伝わり、万次郎の存在が江戸幕府に認識される契機となった。
- 河田小龍 蘭学の知識を持つ高知藩の画家。西暦1,852年、日本語を殆ど忘れていた3名の取り調べに立ち会った。藩の許可を得て万次郎を自宅に寄宿させ、日本語の読み書きを教えながら、英語や西洋事情を聞き取った。その内容を全4巻の書物「漂巽紀畧」に纏め、山内容堂に献上している。
- 阿部正弘 老中。西暦1,853年7月、江川英龍・大槻磐渓・林復斎の進言を受け、万次郎を江戸へ招くよう命じた。同年10月14日、川路聖謨・林復斎・筒井政憲らを列席させ、万次郎からアメリカ事情を聴取している。
- 江川英龍 第36代韮山代官。万次郎の存在を長崎奉行から知らされた人物。ペリー再来航に備えて万次郎を自らの配下とすることを幕府に願い出て認められ、翻訳・通訳・造船指揮・人材育成に従事させた。長崎で没収された万次郎の所持物を返還させ、通訳官兼外交顧問とするつもりで指導した。
- 徳川斉昭 万次郎の登用に反対した人物。「アメリカに恩義のある万次郎は、アメリカ側に立って案件を処理するに違いない」として、彼をアメリカからのスパイだと疑った。この反対により、西暦1,854年の日米和親条約で万次郎は翻訳作業にしか携わることができず、マシュー・ペリーとの交渉はオランダ語通詞との間で行われた。
万次郎の航跡
- 難破と鳥島漂着 西暦1,841年1月27日、本書が記録する生涯の起点。足摺岬での漁に向かった5名の船が3日後に強風で難破し、2月4日に無人の火山島・鳥島へ漂着した。岩から染み出す水と海藻、繁殖地のアホウドリで飢えを凌ぎ、発見した洞窟を住居として143日を過ごした。
- ジョン・ハウランド号による救出 西暦1,841年6月27日、海亀を捕獲する為に鳥島へ立ち寄ったアメリカ捕鯨船が5名を発見した。船長ウィリアム・ホイットフィールドと親友ウォーレン・デラノ・ジュニアが共同で船主を務め、船を所有していたのは、メイフラワー号の乗組員ジョン・ハウランドの子孫であるハウランド家であった。
- フェアヘイヴンでの就学 西暦1,843年5月にニューベッドフォードへ帰港した後、万次郎はアレン姉妹から英語の読み書きを教わり、オールド・ストーン・スクールを優秀な成績で卒業。更に高等学院バーレット・アカデミーで航海術・測量・造船学を学び、西暦1,846年に卒業した。
- フランクリン号での再航海 西暦1,846年5月、母に会う為に帰国を決意した万次郎は、給仕係としてフランクリン号に乗り込んだ。西暦1,847年3月に琉球上陸を試みるも断られ、同年11月には船長の発病を受けた新船長選出の投票で首位に並んだ。西暦1,849年8月の帰港で350ドルの配当金を得ている。
- カリフォルニアの金鉱 西暦1,849年10月、日本近海へ向かう捕鯨船が見つからなかった万次郎は、帰国費用を稼ぐ為に水夫として乗り込み、カリフォルニアの金鉱へ向かった。西暦1,850年5月、ゴールドラッシュの只中で70日余りに600ドルを稼ぎ出し、ホノルルへ発った。
- アドベンチャー号と琉球上陸 西暦1,850年、デーモン牧師の仲介で上海行きの商船サラ・ボイド号に日本近海までの乗船を取り付け、上陸用の小舟を購入して「アドベンチャー号」と命名した。西暦1,851年2月3日、3名は摩文仁間切の小渡浜に上陸。ご飯と箸を使いこなしたことで日本人と認められ、豊見城間切翁長の高安家に幽閉されたが、尚泰王は3名を手厚く保護した。
- 鹿児島・長崎での取り調べ 西暦1,851年8月に鹿児島藩へ護送されると、島津斉彬の命により厚遇され、造船術・捕鯨術・航海術を学ばされた。斉彬の書簡が長崎奉行から韮山代官へ伝わり、万次郎の存在は江戸幕府の知るところとなる。同年9月に長崎へ移された後、踏み絵と取り調べを経て、無罪の裁定が下された。
- 教授館と江戸招聘 西暦1,852年11月2日に宇佐で母汐と再会し、その3日後に士分へ取り立てられて高知城下の藩校教授館の教授となり、後藤象二郎・岩崎弥太郎らを指導した。西暦1,853年、老中阿部正弘の招きで江戸へ上り、アメリカの共和政治や海軍創設の急務を説き、同年12月5日に直参旗本へ取り立てられた。
- 咸臨丸と小笠原諸島 西暦1,860年、咸臨丸の主席通弁官として、木村芥舟・勝海舟・福澤諭吉らと共に太平洋を渡り、サンフランシスコへ到達。福澤にウェブスター辞典の購入を勧めたのもこの航海であった。西暦1,862年には水野忠徳率いる小笠原諸島の使節団に通訳として同行し、父島・母島の調査と図面造りを行った。
- フェアヘイヴンでの再会 鹿児島藩開成所、高知藩開成館、開成学校で航海・造船・測量・英語を教えた万次郎は、西暦1,870年9月、林有造・大山巌・品川弥二郎と共に普仏戦争視察団として横浜を発った。同年11月、フェアヘイヴンにウィリアム・ホイットフィールドを訪ね、二人は互いに涙した。本書が記録する生涯の到達点。
鳥島の洞窟から、金鉱、琉球、江戸城、そして再びフェアヘイヴンへ──
ジョン万次郎が辿った二十九年の航跡を一元化。
JPY 200(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。