ジョン万次郎一元化
宇佐浦の漁港、鳥島の洞窟、ジョン・ハウランド号の船室、フェアヘイヴンのオールド・ストーン・スクール、バーレット・アカデミーの教室、カリフォルニアの金鉱、ホノルルの港、摩文仁間切小渡浜の砂浜、翁長の高安家、鹿児島城、長崎奉行所、高知藩の教授館、江戸の高知藩上屋敷、咸臨丸の船室、ポーハタン号、小笠原諸島の二見港、鹿児島藩開成所、高知藩開成館、開成学校──
宇佐浦からの出港と鳥島漂着、ウィリアム・ホイットフィールドによる救助、フェアヘイヴンでの教育、カリフォルニア金鉱でのゴールドラッシュ、琉球王国摩文仁間切への上陸、第11代鹿児島藩主島津斉彬の厚遇、第15代高知藩主山内容堂の召し出し、阿部正弘によるアメリカ事情聴取、直参旗本就任、日米和親条約締結、咸臨丸主席通弁官としてのサンフランシスコ航海、小笠原諸島使節団、開成所・開成館・開成学校の教授、普仏戦争視察団、フェアヘイヴンでのウィリアム・ホイットフィールドとの再会迄、ジョン万次郎の29年間に亘る系譜を年月日単位で追跡した一冊。
JPY 200(税込)
購入する →購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。
本書について
西暦1,841年1月27日早朝、筆之丞(船頭)・其の弟重助(漁撈係)・五右衛門(櫓係)・寅右衛門(櫓係)・ジョン万次郎(炊係)の5名が、足摺岬(現在の高知県土佐清水市)での鯵・鯖を対象とした漁の為、宇佐浦(現在の高知県土佐市宇佐町宇佐)を出港した。同月30日、5名の乗った漁船が強風により難破。2月4日、鳥島(現在の東京都伊豆諸島)に漂着した。其の日の内に洞窟を発見し寒さを凌ぎ、以降其の洞窟を住居とした。鳥島は火山島の為、岩から染み出てくる水で水分を摂り、海藻やアホウドリを天日干しで食して飢えを凌いだ。6月27日、海亀を食糧として捕獲する為に鳥島に立ち寄った、船長ウィリアム・ホイットフィールド率いるアメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」の乗組員に発見され、5名は鳥島から救助された。ジョン・ハウランド号は、ホイットフィールドと親友ウォーレン・デラノ・ジュニアが共同で船主を務め、西暦1,620年11月21日にプリマスからプロビンスタウンに上陸したメイフラワー号の乗組員ジョン・ハウランドの子孫に当たるハウランド家がオーナーを務めた船であった。本書は、此の鳥島漂着から、ジョン万次郎のアメリカ留学、琉球王国経由での帰国、江戸幕府への招聘、咸臨丸主席通弁官としてのサンフランシスコ航海、フェアヘイヴンでのホイットフィールドとの再会迄、29年間に亘る系譜を、一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。
西暦1,841年11月20日、ジョン・ハウランド号がハワイ王国のホノルルに寄港した。ウィリアム・ホイットフィールドは役所で事情を説明し、5名に洋服1着と50セント銀貨を与え、他の船員達も外套を与えた。ホイットフィールドは万次郎の聡明さを見抜き、筆之丞に万次郎を北米大陸に連れて行き教育を受けさせたい旨を伝えた。万次郎は、ホイットフィールドから見せられた世界地図で日本が如何に小さいかを自覚し、好奇心から同行を願い出た。西暦1,843年5月7日、ジョン・ハウランド号がタヒチ・フィジー・グアムを経由しニューベッドフォードに帰港。万次郎はフェアヘイヴンのチェリーストリートのホイットフィールドの自宅で一晩を過ごした。翌5月8日、ホイットフィールドが結婚の為シピオの叔父ジョージの下へ向かい、其の間万次郎をオックスフォードストリートの友人エベン・アキンの自宅に下宿させた。アキンの提案により、万次郎は隣の「オールド・ストーン・スクール」の教師ジェーン・アレン・チャリィティー・アレン姉妹の家に通い、英語の読み書きを教わった。5月31日、ホイットフィールドはアルベルティーナ・キースと結婚し、以降万次郎はホイットフィールドの自宅とスコンティカット・ネックの農場で生活した。万次郎はオールド・ストーン・スクールに入学し、優秀な成績で卒業した後、高等学院「バーレット・アカデミー」で航海術・測量・造船学を学んだ。
西暦1,846年、ジョン万次郎はバーレット・アカデミーを優秀な成績で卒業した。同年、ウォーレン・デラノ・ジュニアがアメリカに帰国し、株式投資により安泰な生活を送りつつ、度々フェアヘイヴンで暮らしていた万次郎を訪れていた。同年5月16日、捕鯨船「フランクリン号」がアイラ・デービスを船長としてニューベッドフォードを出港。万次郎は給仕係として乗船し、母の作った一枚の着物を荷物に詰め込んだ。西暦1,847年3月、万次郎は琉球王国に上陸を試みるも、鹿児島藩の役人に断られた。同年10月、フランクリン号がマニラを経由してホノルルに寄港。万次郎は寅右衛門・筆之丞・五右衛門と再会し「また機会がある、3人で日本に帰ろう」と励ました。同年11月、フランクリン号がホノルルを出港。其の頃からアイラ・デービスが精神病になり刀や鉄砲を振り回す様になり、乗組員によって監禁され、新しい船長を選ぶ為の投票で一等航海士アイザック・エーキンと万次郎が同票でトップとなり、年長のエーキンが船長となった。西暦1,849年8月、フランクリン号が数千樽の鯨油を満載しニューベッドフォードに帰港し、万次郎は350ドルの配当金を受け取った。
西暦1,849年10月、ジョン万次郎は日本近海を通る捕鯨船が見つからず、帰国費用を稼ぐ為に水夫としてカリフォルニアの金鉱へ向かった。西暦1,850年5月、万次郎は金鉱に入り、ゴールドラッシュを利用して70日余りで600ドルを稼ぎ、ホノルルへ向けて出発した。同年8月31日、万次郎はホノルルに到着し筆之丞・五右衛門・寅右衛門と再会。寅右衛門は妻子と大工の仕事の為現地に留まる事となったが、筆之丞と五右衛門は帰国計画に賛成した。デーモン牧師から上海行きの商船「サラ・ボイド号」の船長ホイットモアを紹介して貰い、日本近海まで乗船させて貰える事になった。上陸用の小舟をイギリス人から購入し「アドベンチャー号」と命名。デーモン牧師は3人の身分証明書を書いて貰い、万次郎はホイットフィールドへ感謝の書簡を作成した。同年12月17日、3名はサラ・ボイド号で琉球王国へ向けてホノルルを出港。西暦1,851年2月2日、万次郎はホイットモアに頼み喜屋武岬の沖合でアドベンチャー号を下ろして貰い、翌3日、3名は摩文仁間切の小渡浜(現在の沖縄県糸満市大度)に上陸した。村人にふかし芋でご馳走になり、摩文仁間切番所の役人に航海術書・数学書・ジョージ・ワシントン伝記・地図・八分儀・コンパス・ピストルを没収された。
取り調べでは、ご飯と箸を渡された3名が上手に使い熟した事から、日本人であると認められた。其の後那覇へ向けて護送されたが、道中3名がキリスト教宣教師バーナード・ジャン・ベッテルハイムと会う事を恐れた鹿児島藩・琉球王国の役人が、3名を豊見城間切に戻し翁長の高安家に幽閉した。曽て琉球の進貢船が遭難した際、高知藩に助けられた事から、第19代第二尚氏王統琉球国王尚泰王は3名を手厚く保護し、豚・鳥・魚・泡盛・衣服を贈った。西暦1,851年8月27日、3名は鹿児島藩に護送され、西田町下会所に留置された。第11代鹿児島藩主島津斉彬の命により鹿児島藩士は3名を丁重に扱い、山海の珍味佳肴で饗応した。又、島津は田原直助と船大工数名を派遣し、造船術・捕鯨術・航海術を学ばせた。更に島津は3名を鹿児島城に招き、万次郎に直々に海外の情勢や文化等について質問した。其のやり取りを書簡に纏め長崎奉行所に送付し、第104代長崎奉行内藤忠明が、第36代韮山代官江川英龍に知らせ、最終的に万次郎の存在は江戸幕府に認識される事となった。同年9月27日、3名は長崎に護送され、長崎奉行所による取り調べを受け、踏み絵を行いキリスト教徒では無い事を確認された後、無罪の裁定が下された。
西暦1,852年8月25日、3名は高知藩に到着した。第15代高知藩主山内容堂は、万次郎を異国の服装で召し出し、直接西洋事情を聞き取った。又、吉田東洋が取り調べを行ったが、3名が日本語を殆ど忘れていた為、蘭学の知識のあった画家河田小龍を立ち合わせた。河田は高知藩の許可を得て万次郎を自宅に寄宿させ、日本語の読み書きを教育しつつ、万次郎から英語や西洋事情等を聞き取り、其の内容を「漂巽紀畧」全4巻に纏めて山内に献上した。同年11月2日、3名は宇佐に到着し、万次郎は母汐と兄弟に再会した。汐は溢れる涙を止めず、姉と妹は、万次郎を失って置いた苔むした墓石を抱いて咽び泣いた。同年11月5日、万次郎は高知藩の上席定小者に召し抱えられ士分に取り立てられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となり、後藤象二郎・岩崎弥太郎等が指導を受けた。西暦1,853年7月25日、阿部正弘が高知藩江戸留守居役広瀬源之進を呼び出し、江川英龍・大槻磐渓・林復斎の進言を受けてジョン万次郎を江戸へ連れて来る様命じた。同年10月14日、阿部は江川・川路聖謨・林・筒井政憲列席の下で、万次郎からアメリカ事情を聴取し、第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモア、ロード・アイランドで生まれメキシコとの戦いで戦功のあったマシュー・ペリーの再来航に備え、海軍創設の急務と、通訳にアメリカ語が必要である事等を述べた。同年12月5日、ジョン万次郎は直参旗本に取り立てられた。
西暦1,854年3月31日、日米和親条約が締結された。下田・箱館の両港を開港し、難破したアメリカ船舶に対する便宜を供与し、アメリカは常駐代表を下田に設置するという内容であった。江川は通訳官兼外交顧問にするつもりでジョン万次郎を指導したが、徳川斉昭は「アメリカに恩義のある万次郎は、アメリカ側に立って案件を処理するに違いない」とし登用に反対した為、万次郎は翻訳作業にしか携わる事が出来ず、マシュー・ペリーとの交渉は江戸幕府のオランダ語通史との間で行われた。西暦1,857年11月19日、箱館奉行所与力次席を拝命した万次郎が、幕命により捕鯨指導の為箱館へ向けて江戸を出発した。西暦1,858年1月1日に箱館に到着するも、箱館の住民は余所者は乗せないとして万次郎の西洋式帆船「箱館丸」への乗船を拒否し、又箱館の捕鯨技術の方が優れていた為、万次郎は本格的に指導出来ず、同月11日に江戸へ向けて箱館を出発した。西暦1,859年、万次郎は著書「英米対話捷径」を発表。アルファベット・ABCの歌・数の数え方を前述として、213の日常英会話に対訳が付けられていた。同年4月、江戸幕府が難破したロシア船員と共同で沼津藩戸田村にて建造した西洋式帆船君沢形一番「ヘダ号」を万次郎が指揮し品川を出港して小笠原諸島へ向かったが、暴風雨でヘダ号は損傷し航海は中止された。
西暦1,860年2月4日、アメリカ海軍の外輪フリゲート艦「ポーハタン号」の護衛と遠洋実習の名目で江戸幕府の軍艦「咸臨丸」が品川を出港した。江戸幕府はタウンゼント・ハリスの勧めもあり、日米修好通商条約の批准書交換の為、正使新見正興・副使村垣範正・監察小栗忠順を始めとする使節団77名をポーハタン号に乗船させ、アメリカに派遣する事を決定していた。咸臨丸には、軍艦奉行木村芥舟・勝海舟・福澤諭吉・主席通弁官ジョン万次郎・塩飽諸島出身の水夫等92名が乗船した。3月17日、咸臨丸はサンフランシスコに到着。浦賀を出港してから38日間の航海で其の内34日は荒天であり、木村芥舟と勝海舟は船酔いが酷く、特に勝は38日の航海で3度しか船室を出なかった。一行はミシン・カメラ・本(万次郎が福澤諭吉に購入を勧めたウェブスター辞典を含む)等をお土産として購入した。5月15日、日本使節団の乗船する「ノーロック号」がワシントンD.C.に到着し、第15代アメリカ大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見し、スミソニアン博物館・アメリカ議会議事堂・ワシントン海軍工廠・アメリカ海軍天文台を訪問した。5月22日、日米修好通商条約の批准書を交換。6月16日、使節団はニューヨークに到着しブロードウェイでパレードを行い、500,000名の人々から歓迎された。11月9日、使節団は北大西洋・カーボベルデ・アンゴラ・喜望峰・バタヴィア・香港を経由し品川に帰港した。
西暦1,862年1月3日、外国奉行水野忠徳を団長とする小笠原諸島の使節団が咸臨丸にて品川を出港し、ジョン万次郎も通訳として同行して父島・母島の調査と図面造りを行った。1月18日、使節団は父島の二見港に到着し、水野は安藤信正に反対されていたにも拘らず祝砲7発を打ち上げた。5月、使節団は江戸に帰港し、水野は復命書の中で、小笠原諸島の領有権の回復後の開拓には捕鯨業が重要且つ有望であると建議した。其の後万次郎は江戸幕府の軍艦操練所の教授となり、スクーネル船「一番丸」の船長に任命され、小笠原諸島で捕鯨に従事した。西暦1,866年、万次郎は鹿児島藩の開成所の教授に就任し航海・造船・測量・英語を指導した。同年、山内容堂の命により、万次郎と後藤象二郎が中心となり殖産興業・富国強兵を推し進める事を意図し、高知藩の藩校「開成館」を設立。更に万次郎は後藤等と上海に渡り、船を購入し「夕顔号」と名付けた。西暦1,869年、万次郎は開成学校の徴士(二等教授)となり英語教授として指導に当たり、此の年から11年間指導に当たり、高知藩下屋敷(現在の東京都江東区北砂)に居住した。西暦1,870年、万次郎は開成学校の中博士(教授)となった。同年9月23日、林有造・大山巌・品川弥二郎を含む普仏戦争視察団が横浜を出港し、ジョン万次郎も参加。同年11月、万次郎はフェアヘイヴンにて約24年振りにウィリアム・ホイットフィールドと再会し、互いに涙した。本書は、此の29年間に亘る、宇佐浦からの出港と鳥島漂着から、アメリカ留学、琉球王国経由での帰国、江戸幕府への招聘、咸臨丸でのサンフランシスコ航海、小笠原諸島使節団、開成所・開成館・開成学校の教授、普仏戦争視察団、フェアヘイヴンでのウィリアム・ホイットフィールドとの再会迄、ジョン万次郎の系譜の全過程を、年月日単位で記録した年表である。
登場人物
- ジョン万次郎 西暦1,841年1月27日に宇佐浦から出港し、同月30日に難破、2月4日に鳥島に漂着し、6月27日にウィリアム・ホイットフィールド率いるジョン・ハウランド号により救助された5名の内、炊係を務めていた人物。鳥島漂着組5名の中で唯一貪欲に英語を覚えようとし、ホイットフィールドの故郷フェアヘイヴンに渡り、オールド・ストーン・スクールとバーレット・アカデミーで航海術・測量・造船学を学んだ。西暦1,850年にホノルル経由で帰国計画を立て、西暦1,851年2月3日に琉球王国摩文仁間切小渡浜に上陸。鹿児島藩・長崎奉行所・高知藩での取り調べを経て、西暦1,852年11月5日に高知藩の教授館教授となり、西暦1,853年12月5日に直参旗本に取り立てられた。西暦1,860年に咸臨丸主席通弁官としてサンフランシスコへ航海し、其の後小笠原諸島使節団・開成所・開成館・開成学校で指導、西暦1,870年11月にフェアヘイヴンでホイットフィールドと再会した。
- 筆之丞 宇佐浦の漁船の船頭。西暦1,841年1月27日に5名で出港し、同月30日に難破、2月4日に鳥島に漂着、6月27日にジョン・ハウランド号により救助された。ホノルルでホイットフィールドから万次郎をアメリカに連れて行く事を相談された際、万次郎に判断を委ねた。西暦1,846年12月にホノルルから日本へ向けて出港したが上陸に失敗し、西暦1,851年2月3日にジョン万次郎・五右衛門と共に摩文仁間切小渡浜に上陸した。
- 重助 筆之丞の弟で漁撈係。西暦1,841年1月27日に5名で出港し、鳥島に漂着しジョン・ハウランド号により救助された。西暦1,846年に病死し、オアフ島のカネオヘ(現在のアメリカのハワイ州)に埋葬された。
- 五右衛門 宇佐浦の漁船の櫓係。西暦1,841年1月27日に5名で出港し、鳥島に漂着しジョン・ハウランド号により救助された。西暦1,846年12月に筆之丞と共にホノルルから日本へ向けて出港したが上陸に失敗。西暦1,851年2月3日にジョン万次郎・筆之丞と共に摩文仁間切小渡浜に上陸した。西暦1,859年に死去した。
- 寅右衛門 宇佐浦の漁船の櫓係。西暦1,841年1月27日に5名で出港し、鳥島に漂着しジョン・ハウランド号により救助された。西暦1,846年12月の帰国船出港直前に翻意し、ホノルルに留まった。西暦1,847年にオアフ島の現地の女性と結婚し、大工に就いていた。
- ウィリアム・ホイットフィールド アメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」船長。西暦1,841年6月27日に鳥島で漂流していた5名を救助した。万次郎の聡明さを見抜き、北米大陸に連れて行き教育を受けさせた。西暦1,843年5月31日にアルベルティーナ・キースと結婚し、フェアヘイヴンの自宅で万次郎を養育した。西暦1,870年11月、フェアヘイヴンにて約24年振りにジョン万次郎と再会し、互いに涙した。
- ウォーレン・デラノ・ジュニア ウィリアム・ホイットフィールドの親友で、ジョン・ハウランド号の共同船主。西暦1,846年にアメリカに帰国し、株式投資により安泰な生活を送りつつ、度々フェアヘイヴンで暮らしていたジョン万次郎を訪れていた。
- ジェーン・アレン フェアヘイヴンの初級学校「オールド・ストーン・スクール」の教師。西暦1,843年から、エベン・アキンの提案により隣家のジョン万次郎に英語の読み書きを教えた。妹チャリィティーと共に万次郎を指導し、半地下室兼台所で手作りのお菓子をご馳走していた。
- アイラ・デービス 捕鯨船「フランクリン号」船長。西暦1,846年5月にジョン万次郎を給仕係として乗船させ、ニューベッドフォードを出港した。西暦1,847年11月にホノルル出港後から精神病になり、刀や鉄砲を振り回す様になった為、乗組員によって監禁された。
- アイザック・エーキン フランクリン号の一等航海士。アイラ・デービスの監禁後の新船長を選ぶ投票で、ジョン万次郎と同票でトップとなり、年長であった為船長となった。
- デーモン牧師 ホノルルで世話になった牧師。西暦1,850年に上海行きの商船「サラ・ボイド号」の船長ホイットモアを紹介し、アメリカ領事に働きかけてジョン万次郎達3名の身分証明書を書いて貰った。
- ホイットモア 上海行きの商船「サラ・ボイド号」船長。西暦1,850年12月17日にジョン万次郎達3名をホノルルから日本近海まで乗船させ、西暦1,851年2月2日に喜屋武岬の沖合でアドベンチャー号を下ろした。
- バーナード・ジャン・ベッテルハイム 琉球王国に居たキリスト教宣教師。西暦1,851年2月、那覇へ護送中のジョン万次郎達3名と彼との接触を恐れた鹿児島藩・琉球王国の役人が、3名を豊見城間切に戻し翁長の高安家に幽閉した。
- 尚泰王 第19代第二尚氏王統琉球国王。曽て琉球の進貢船が遭難した際、高知藩に助けられた事から、西暦1,851年に翁長の高安家に幽閉されたジョン万次郎・筆之丞・五右衛門の3名を手厚く保護し、豚・鳥・魚・泡盛・衣服を贈った。
- 島津斉彬 第11代鹿児島藩主。西暦1,851年8月27日に鹿児島藩に護送されたジョン万次郎達3名を、藩士に丁重に扱う様命じ、山海の珍味佳肴で饗応した。田原直助と船大工数名を派遣し造船術・捕鯨術・航海術を学ばせ、3名を鹿児島城に招き万次郎に直々に海外の情勢を質問。其のやり取りを書簡に纏め長崎奉行所に送付し、最終的に江戸幕府に万次郎の存在を認識させた。
- 内藤忠明 第104代長崎奉行。西暦1,851年、島津斉彬から送付されたジョン万次郎に関する書簡を受け取り、第36代韮山代官江川英龍に知らせた。
- 江川英龍 第36代韮山代官。西暦1,853年7月25日、阿部正弘にジョン万次郎の招聘を進言し、同年10月14日のアメリカ事情聴取に列席。ペリーの再来航に備え万次郎を自らの配下とし、江戸屋敷の長屋に居住させ翻訳・通訳・造船指揮・人材育成に従事させた。長崎で没収された万次郎の所持物を返還させ、通訳官兼外交顧問にするつもりで万次郎を指導した。
- 山内容堂 第15代高知藩主。西暦1,852年8月25日、ジョン万次郎を異国の服装で召し出し、直接西洋事情を聞き取った。河田小龍に万次郎の聞き取りを命じ「漂巽紀畧」を献上させた。西暦1,866年、後藤象二郎と万次郎を中心に殖産興業・富国強兵を意図した藩校「開成館」を設立させた。
- 河田小龍 高知藩の画家で蘭学の知識を持っていた。西暦1,852年、吉田東洋の取り調べに立ち合い、ジョン万次郎を自宅に寄宿させ日本語の読み書きを教育しつつ、万次郎から英語や西洋事情を聞き取り、其の内容を「漂巽紀畧」全4巻に纏めて山内容堂に献上した。
- 阿部正弘 江戸幕府の老中。西暦1,853年7月25日、江川英龍・大槻磐渓・林復斎の進言を受け、高知藩江戸留守居役広瀬源之進にジョン万次郎を江戸へ連れて来る様命じた。同年10月14日、江川・川路聖謨・林・筒井政憲を列席させ、万次郎からアメリカ事情を聴取した。
- ミラード・フィルモア 第13代アメリカ大統領。西暦1,853年10月14日のジョン万次郎のアメリカ事情聴取に於いて、ペリーの来航がフィルモアからの要望であり、自国・他国の分け隔て無い扱いを望んでいる事が紹介された。
- マシュー・ペリー アメリカ海軍の提督。ロード・アイランドで生まれ、メキシコとの戦いで戦功を挙げた。西暦1,854年3月31日に日米和親条約を締結した。徳川斉昭がジョン万次郎をアメリカ側のスパイと疑った為、ペリーとの交渉は江戸幕府のオランダ語通史との間で行われた。
- 徳川斉昭 江戸幕府の有力者。ジョン万次郎をアメリカからのスパイだと疑い「アメリカに恩義のある万次郎は、アメリカ側に立って案件を処理するに違いない」とし、登用に反対した。結果、万次郎は翻訳作業にしか携わる事が出来なかった。
- 木村芥舟 江戸幕府の軍艦奉行。西暦1,860年2月4日に咸臨丸に乗船しサンフランシスコへ向かったが、38日の航海中34日が荒天であった為、勝海舟と共に船酔いが酷く船室に篭りきりであった。
- 勝海舟 西暦1,860年2月4日に咸臨丸に乗船しサンフランシスコへ向かったが、38日の航海中3度しか船室を出なかった程船酔いが酷かった。
- 福澤諭吉 西暦1,860年2月4日に咸臨丸に乗船しサンフランシスコへ向かった。ジョン万次郎の勧めによりウェブスター辞典を購入し持ち帰った。
- 新見正興 日米修好通商条約の批准書交換の為の日本使節団の正使。西暦1,860年2月13日にポーハタン号で横浜を出港し、5月15日にワシントンD.C.に到着、5月22日に批准書を交換した。
- ジェームズ・ブキャナン 第15代アメリカ大統領。西暦1,860年5月15日、日米修好通商条約の批准書交換の為の日本使節団に謁見した。
- 水野忠徳 江戸幕府の外国奉行。西暦1,862年1月3日、小笠原諸島使節団の団長として咸臨丸にて品川を出港。ジョン万次郎を通訳として同行させ、父島・母島の調査と図面造りを行った。安藤信正に反対されたが父島で祝砲7発を打ち上げ、復命書では小笠原諸島の領有権の回復後の開拓に捕鯨業が重要且つ有望であると建議した。
- 後藤象二郎 高知藩の藩校「教授館」でジョン万次郎の指導を受けた人物。西暦1,866年、山内容堂の命により万次郎と中心となり、殖産興業・富国強兵を推し進める事を意図し高知藩の藩校「開成館」を設立。万次郎等と上海に渡り「夕顔号」を購入した。
- 岩崎弥太郎 高知藩の藩校「教授館」でジョン万次郎の指導を受けた人物。
- 汐 ジョン万次郎の母。西暦1,852年11月2日、宇佐に到着した万次郎と再会した際、溢れる涙を止めず、万次郎は母への土産として訪れた全ての海岸で拾った貝殻を持参した。
主要な概念・組織
- 鳥島 現在の東京都伊豆諸島の火山島。西暦1,841年2月4日、宇佐浦から出港したジョン万次郎を含む5名の漁師が漂着した島。岩から染み出てくる水と海藻、繁殖地のアホウドリを食して生き延びた。同年6月27日、海亀を捕獲する為に立ち寄ったジョン・ハウランド号によって5名は救助された。
- ジョン・ハウランド号 アメリカの捕鯨船。ウィリアム・ホイットフィールドと親友ウォーレン・デラノ・ジュニアが共同で船主を務め、西暦1,620年11月21日にプリマスからプロビンスタウンに上陸したメイフラワー号の乗組員ジョン・ハウランドの子孫に当たるハウランド家がオーナーを務めた船。西暦1,841年6月27日に鳥島の漂流者5名を救助、11月20日にハワイのホノルルに寄港し、西暦1,843年5月7日にタヒチ・フィジー・グアムを経由してニューベッドフォードに帰港した。
- フェアヘイヴン アメリカのマサチューセッツ州の町。ウィリアム・ホイットフィールドの故郷であり、西暦1,843年からジョン万次郎が下宿・通学した地。チェリーストリートにホイットフィールドの自宅、オックスフォードストリートにエベン・アキンの自宅とオールド・ストーン・スクールがあった。スコンティカット・ネックにはホイットフィールド所有の農場が在り、西暦1,870年11月にはジョン万次郎とホイットフィールドが約24年振りに再会した。
- オールド・ストーン・スクール フェアヘイヴンのオックスフォードストリートに在った初級学校。西暦1,843年からジョン万次郎が通った。万次郎以外は全員ネイティブで、英語の読み書きに苦労したが、優秀な成績で卒業した。
- バーレット・アカデミー フェアヘイヴンの高等学院。オールド・ストーン・スクール卒業後にジョン万次郎が入学した。航海術・測量・造船学を学び、西暦1,846年に優秀な成績で卒業した。
- フランクリン号 捕鯨船。西暦1,846年5月16日、アイラ・デービスを船長としてニューベッドフォードを出港。ジョン万次郎は給仕係として乗船した。西暦1,847年10月にはマニラ経由でホノルルに寄港。西暦1,849年8月に数千樽の鯨油を満載しニューベッドフォードに帰港し、万次郎は350ドルの配当金を受け取った。
- サラ・ボイド号 上海行きの商船。船長はホイットモア。西暦1,850年12月17日、ジョン万次郎・筆之丞・五右衛門の3名をホノルルから琉球王国へ向けて出港させ、西暦1,851年2月2日に喜屋武岬の沖合でアドベンチャー号を下ろした。
- アドベンチャー号 ジョン万次郎達3名がイギリス人から購入し命名した上陸用の小舟。西暦1,851年2月3日、3名はサラ・ボイド号から下りた後、此のアドベンチャー号で摩文仁間切の小渡浜に上陸した。
- 摩文仁間切小渡浜 現在の沖縄県糸満市大度。西暦1,851年2月3日、ジョン万次郎・筆之丞・五右衛門の3名がアドベンチャー号で上陸した地。3名は小渡の村人に歓迎されふかし芋をご馳走され、摩文仁間切番所の役人に航海術書・数学書・ジョージ・ワシントン伝記・地図・八分儀・コンパス・ピストルを没収された。
- 教授館 高知城下に在った高知藩の藩校。西暦1,852年11月5日、ジョン万次郎が士分に取り立てられた後、教授に就任した。後藤象二郎・岩崎弥太郎等が指導を受けた。
- 漂巽紀畧 西暦1,852年、河田小龍がジョン万次郎から聞き取った英語や西洋事情等を纏めた全4巻の書物。山内容堂に献上された。
- 日米和親条約 西暦1,854年3月31日に締結された条約。下田・箱館の両港を開港、難破したアメリカ船舶への便宜供与、アメリカ常駐代表の下田設置を主な内容とした。江川英龍はジョン万次郎を通訳官兼外交顧問にするつもりで指導したが、徳川斉昭の反対により万次郎は翻訳作業にしか携われなかった。
- 英米対話捷径 西暦1,859年、ジョン万次郎が発表した著書。アルファベット・ABCの歌・数の数え方を前述として、213の日常英会話に対訳が付けられている。
- ヘダ号 江戸幕府が難破したロシア船員と共同で沼津藩戸田村(現在の静岡県)にて建造した西洋式帆船君沢形一番。西暦1,859年4月、ジョン万次郎が指揮し品川を出港して小笠原諸島へ向かったが、暴風雨で損傷し航海は中止された。
- 咸臨丸 江戸幕府の軍艦。西暦1,860年2月4日、ポーハタン号の護衛と遠洋実習の名目で品川を出港。軍艦奉行木村芥舟・勝海舟・福澤諭吉・主席通弁官ジョン万次郎・塩飽諸島出身の水夫等92名が乗船。3月17日にサンフランシスコに到着し、4月7日に出港、5月23日に浦賀に帰港した。西暦1,862年1月3日には水野忠徳率いる小笠原諸島使節団を乗せ、ジョン万次郎を通訳として再度航海した。
- ポーハタン号 アメリカ海軍の外輪フリゲート艦。西暦1,860年2月13日、日米修好通商条約の批准書交換の為の日本使節団77名(正使新見正興・副使村垣範正・監察小栗忠順他)を乗せて横浜を出港し、3月28日にサンフランシスコに寄港した。
- 日米修好通商条約 西暦1,860年5月22日、ワシントンD.C.で日本使節団により批准書が交換された条約。批准書交換に至る迄、使節団はスミソニアン博物館・アメリカ議会議事堂・ワシントン海軍工廠・アメリカ海軍天文台を訪問し、第15代アメリカ大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見した。
- 小笠原諸島使節団 西暦1,862年1月3日、外国奉行水野忠徳を団長として咸臨丸にて品川を出港した使節団。ジョン万次郎も通訳として同行し、父島・母島の調査と図面造りを行った。1月18日に父島の二見港に到着し、5月に江戸に帰港。復命書で小笠原諸島の領有権の回復後の開拓に捕鯨業が重要且つ有望であると建議された。
- 一番丸 スクーネル船。西暦1,862年、ジョン万次郎が船長に任命され、小笠原諸島で捕鯨に従事した。
- 開成所 鹿児島藩の学校。西暦1,866年、ジョン万次郎が教授に就任し、航海・造船・測量・英語を指導した。
- 開成館 高知藩の藩校。西暦1,866年、山内容堂の命により、ジョン万次郎と後藤象二郎が中心となり、殖産興業・富国強兵を推し進める事を意図して設立された。
- 夕顔号 西暦1,866年、ジョン万次郎が後藤象二郎等と上海に渡り購入し命名した船。
- 開成学校 西暦1,869年、ジョン万次郎が徴士(二等教授)となった学校。英語教授として指導に当たり、此の年から11年間指導に当たり、高知藩下屋敷(現在の東京都江東区北砂)に居住した。西暦1,870年、万次郎は中博士(教授)となった。
- 普仏戦争視察団 西暦1,870年9月23日、横浜を出港した視察団。林有造・大山巌・品川弥二郎・ジョン万次郎を含む。万次郎は此の視察の機会に、西暦1,870年11月にフェアヘイヴンを訪れ、ウィリアム・ホイットフィールドと約24年振りに再会した。
宇佐浦からの出港と漁船の難破、鳥島漂着、捕鯨船ジョン・ハウランド号船長ウィリアム・ホイットフィールドによる救助、ホノルル寄港、フェアヘイヴンへの渡米、オールド・ストーン・スクールとバーレット・アカデミーでの教育、捕鯨船フランクリン号での航海、カリフォルニア金鉱でのゴールドラッシュ、サラ・ボイド号とアドベンチャー号による琉球王国摩文仁間切小渡浜への上陸、第11代鹿児島藩主島津斉彬の厚遇、長崎奉行所の取り調べ、第15代高知藩主山内容堂の召し出しと河田小龍の漂巽紀畧、母汐との再会、教授館教授就任、阿部正弘によるアメリカ事情聴取、直参旗本就任、日米和親条約、英米対話捷径発表、咸臨丸主席通弁官としてのサンフランシスコ航海、ポーハタン号と日米修好通商条約批准書交換、小笠原諸島使節団と父島・母島調査、鹿児島藩開成所と高知藩開成館の教授、夕顔号購入、開成学校徴士、普仏戦争視察団参加、フェアヘイヴンでのウィリアム・ホイットフィールドとの再会迄──
ジョン万次郎の29年間に亘る系譜を年月日単位で追跡した一冊。
JPY 200(税込)
購入する →購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。