電子書籍「黒船4隻を率いるマシュー・ペリーによる日本開国の黒幕はオーガスト・ベルモントとロスチャイルド家一元化」の表紙

黒船4隻を率いる
マシュー・ペリーによる日本開国の黒幕は
オーガスト・ベルモントと
ロスチャイルド家一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,813年12月8日〜1,853年7月8日
最新更新日
西暦2,026年3月31日

ライン川沿いのアルツァイ、フランクフルトのフィランスロピン、ウォール街78番地、那覇の首里城、父島の二見港、浦賀沖に投錨する4隻の黒船──
オーガスト・ベルモントの誕生から、N・M・ロスチャイルド&サンズ見習い就任、ニューヨークでの「オーガスト・ベルモント&カンパニー」設立、マシュー・ペリーの娘との結婚、ペリーのアメリカ東インド艦隊司令官任命、琉球王国首里城入城、小笠原諸島領有宣言、浦賀沖への蒸気船進入迄、ロスチャイルド家の代理人ベルモントが日本開国の黒幕となる40年間の系譜を年月日単位で追跡した一冊。

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本書について

西暦1,813年12月8日、アルツァイ(現在のドイツのラインラント・プファルツ州アルツァイ・ヴォルムス郡)にて、シナゴーグの秘書サイモン・ベルモントとフレデリカ・エルサスの間に、オーガスト・ベルモントが生誕した。西暦1,821年6月9日にフレデリカが死去すると、オーガストは、2度寡婦となったサイモンの母ガートルード・ハーナウに引き取られ、フランクフルトで暮らす様になった。西暦1,828年、サイモンが財政難に陥り、オーガストの学費が払えなくなる。此れによりオーガストは、メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドがユダヤ教徒とキリスト教徒のコミュニティを統合する事を目的として設立した学校「フィランスロピン」を退学した。ガートルードは、自身の2人目の夫であったハユム・ハーナウの人脈を活用し、ドイツ・ロスチャイルド家に頼み込んで、ベルモントをN・M・ロスチャイルド&サンズの見習い職に就かせた。ハユムの異母姉妹であるエヴァ・ハーナウは、アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルドの妻であった。本書は、此の遠縁の縁から始まったオーガスト・ベルモントの経歴を、彼が日本開国の黒幕となる迄追跡し、ロスチャイルド家の代理人としてアメリカと世界外交を動かした40年間の系譜を、一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1,832年、オーガスト・ベルモントが、ドイツ・ロスチャイルド商会から機密事務員に任命された。西暦1,834年には、ドイツ・ロスチャイルド商会のパートナーの1人の秘書兼旅行随行員となり、ドイツ国外へ初めて出る事となり、パリ・ナポリ・バチカンを旅した。西暦1,837年、イギリス・ロスチャイルド商会とフランス・ロスチャイルド商会は、第一次カルリスタ戦争で不安定化したスペイン帝国の資産に懸念を抱く様になり、ベルモントをニューヨーク経由でキューバへ派遣した。ベルモントは、ハバナへ向かう途上でニューヨークに寄港し、7,000,000ドルの負債を抱えて倒産したロスチャイルド家のアメリカ代理店「J.L.&S.I.ジョセフ商会」を含む、何百ものアメリカ企業が倒産に直面した恐慌を目の当たりにした。其処で、キューバ行きを独自の判断で延期し、倒産したJ.L.&S.I.ジョセフ商会に取って代わってロスチャイルド家の権益を監督する事を意図し、ウォール街78番地に「オーガスト・ベルモント&カンパニー」を設立した。そして、恐慌を利用して安価で証券を買い漁り、最終的にベルモントとロスチャイルド家の双方が、恐慌以前よりも金銭的に潤う事となった。ロスチャイルド家はベルモントの行動を追認し、ベルモントを年俸100,000ドルでアメリカに於ける代理人とした。

西暦1,844年、オーガスト・ベルモントが、オーストリア帝国政府の任命により、オーストリア帝国ニューヨーク総領事に就任した。以前からベルモントは、ロスチャイルド家とクレメンス・フォン・メッテルニヒの密接な繋がりを活かし、中米やヨーロッパの外交・金融業務を支援していた。西暦1,846年4月25日、米墨戦争が勃発した。此の頃にはベルモントは、アメリカ財務省が借り入れた大部分の貸付金の主要な引受人となっていた。

西暦1,849年、オーガスト・ベルモントが、プライベート社交クラブであるユニオンクラブを通じて、マシュー・ペリーの娘キャロライン・スライデル・ペリーの叔父で、ルイジアナ州民主党の主要メンバーであるジョン・スライデルと出会った。スライデルは翌年迄に、ベルモントに政界入りを勧めた。同年7月、ベルモントは、サラトガでの休暇中に、スライデルを通じてキャロライン・スライデル・ペリーと出会った。同年11月7日、ベルモントは、キャロライン・スライデル・ペリーと結婚した。其の後、ニューヨーク5番街18番通りに豪邸を建設し、客人を持て成した。西暦1,850年、ベルモントは、オーストリア帝国政府のハンガリー革命鎮圧に抗議し、オーストリア帝国ニューヨーク総領事職を辞任した。

西暦1,851年11月17日、ミラード・フィルモアが、ジョン・オーリックを、ブラジル外交官を虐待したとして告発されたスキャンダルが発覚した事を理由に、日本開国任務から外す決定を下した。同年12月6日、コシュート・ラヨシュがニューヨークに到着し、アメリカへの亡命を果たした。此れによる外交的緊張により、ヨハン・ゲオルク・リッター・フォン・ヒュルゼマンが、オーストリア帝国駐アメリカ代理公使職を辞任し、後任として、オーガスト・ベルモントが此れを引き継いだ。ベルモントは、オーストリア帝国側の代理として、ラヨシュへの支援を拒否し、非干渉主義を維持する立場を取るミラード・フィルモア政権との仲介役を果たした。其の過程で、ベルモントとフィルモアは知己を得た。西暦1,852年1月24日、フィルモアが、ジョン・オーリックの後任として、マシュー・ペリーを第10代アメリカ東インド艦隊司令官に任命した。ペリーは、ベルモントの妻キャロラインの父であり、此の任命は、ロスチャイルド家の代理人ベルモントと日本開国任務の最高指揮官を、姻戚関係を介して直結させるものとなった。

西暦1,852年9月、オランダからの別段風説書にて、マシュー・ペリーが日本への来航準備を進めている事が江戸幕府に報告された。同年11月24日、ペリー一行が、蒸気外輪フリゲート艦ミシシッピ(旗艦)、スループ型帆船プリマス、スループ型帆船サラトガ、補給艦サプライの4隻で、ノーフォーク(アメリカのバージニア州)から上海へ向けて出航した。西暦1,853年5月4日、ペリーが上海に到着し、サミュエル・ウィリアムズ・アントン・ポートマン・ハンフリー・マーシャル・ピーター・パーカーらと接触した。同年5月17日、ペリー一行が、ミシシッピ・プリマス・サラトガの3隻で、琉球王国へ向けて上海を出発した。アメリカは、アジアに進出した西欧諸国に遅れをとらない様、琉球王国を開国させて、蒸気船に必要な石炭の補給基地の建設や、アメリカ船への物資の補給を行える様にするのが狙いであった。

西暦1,853年5月26日、マシュー・ペリー一行が那覇に到着した。ペリーは直様、首里城入城を要求した。王家の住む城に兵を入れ、今後の交渉を有利に進める狙いが有った。同年5月30日から6月4日にかけて、ペリー一行は、徒歩での琉球王国の調査を行い、首里城・弁ヶ嶽・中城城・金武湾沿いの間切番所・恩納村・読谷山間切等を経由した。同年6月6日、ペリーは、200名の兵を率い、琉球王国政府の抵抗を押し切って首里城に入城した。琉球王国政府は、偽の行政機関を設け、上層部の役人や王族が直接接触する事を避け、ペリーを北殿に通し、偽の役人が対応する事で、正殿や尚泰王を守り抜いた。同年6月9日、ペリー側が琉球王国に対して友好条約の草案を提示した。同日、ペリー一行が、サスケハナ(旗艦)・サラトガの2隻で、アメリカの捕鯨船や商業船の為の避難港・補給基地を確保し、石炭貯蔵所や潜在的なアメリカ海軍拠点を構築する事を意図し、小笠原諸島へ向けて琉球王国を出発した。同年6月14日、ペリー一行が二見港(現在の東京都小笠原村父島東町)に到着した。以降ペリーは、島内探検・石炭貯蔵用地の購入・アメリカ海軍管理下の父島植民地政府の樹立・現地島民への指導・ナサニエル・セイヴァリーの移民の頭目への任命・母島での現地調査・アメリカ領有宣言の銘板の写しの設置を行った。

西暦1,853年6月23日、マシュー・ペリー一行が琉球王国に帰着し、簡易的な友好協定が結ばれた。同年7月2日、ペリー一行が、サスケハナ(旗艦)・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻で、琉球王国を出発した。同年7月8日午前、ペリーが此の4隻を率い、浦賀水道を北上した。ウィリアム・ハイネ・エリファレット・ブラウン・ジュニア・サミュエル・ウィリアムズ・アントン・ポートマン・ジェームズ・モロウを始めとする、水兵・科学者・技術者・料理人・音楽隊員・通訳・旅行記録者等約1,000名がペリーに同行していた。ペリー一行は、観音崎と富津岬を結ぶ日本の防衛線を越え、江戸方面へ蒸気船を進め、4隻で計73門の大砲で空砲を放った。17時、晴天の下、4隻が一列に投錨し、浦賀の町に砲門を向けた。日本側の警備船が此れを取り囲み、国際外交の共通語であったフランス語で「即刻退去せよ」と書かれた大きな旗を掲げたが、ペリーは、日本側の役人の乗船を一切拒否した。其の後、浦賀奉行所与力で応接掛の中島三郎助と、小通詞堀達之助が、異国船に対して退去を求める書類を携え、番船でペリーが乗船しているサスケハナに横付けした。堀は第一声、オランダ語で「I can speak Dutch」と、オランダ語が話せる事を主張した。但、交渉自体は、ポートマンを介してオランダ語で行われた。ペリー自身も、ミラード・フィルモアの親書を持参しているので、相応の身分の役人としか会わない旨を伝え、船室に籠った儘面会を拒否した。本書は、此の40年に亘る、アルツァイのシナゴーグ秘書の息子オーガスト・ベルモントの誕生から、N・M・ロスチャイルド&サンズ見習い、ウォール街での「オーガスト・ベルモント&カンパニー」設立、マシュー・ペリーの娘との結婚、ペリーのアメリカ東インド艦隊司令官任命、4隻の黒船による浦賀来航迄、ロスチャイルド家の代理人ベルモントが日本開国の黒幕となる系譜の全過程を、年月日単位で記録した年表である。


登場人物

  • オーガスト・ベルモント 西暦1,813年12月8日、アルツァイ(現在のドイツのラインラント・プファルツ州アルツァイ・ヴォルムス郡)にて、シナゴーグの秘書サイモン・ベルモントとフレデリカ・エルサスの間に生誕。西暦1,828年にフィランスロピンを退学し、ドイツ・ロスチャイルド家の縁戚関係を介してN・M・ロスチャイルド&サンズの見習い職に就いた。フランス語・英語・作文・会計を学び、西暦1,832年に機密事務員、西暦1,834年に秘書兼旅行随行員に昇進した。西暦1,837年、ニューヨーク経由でキューバへ派遣される途上で恐慌を目撃し、独自判断でキューバ行きを延期して、ウォール街78番地に「オーガスト・ベルモント&カンパニー」を設立した。ロスチャイルド家から年俸100,000ドルでアメリカに於ける代理人に任命された。西暦1,844年にオーストリア帝国ニューヨーク総領事、西暦1,849年にマシュー・ペリーの娘キャロライン・スライデル・ペリーと結婚、西暦1,851年にオーストリア帝国駐アメリカ代理公使を兼任した。
  • マシュー・ペリー 第10代アメリカ東インド艦隊司令官。西暦1,852年1月24日、ミラード・フィルモアにより、スキャンダルで更迭されたジョン・オーリックの後任として任命された。同年11月24日、蒸気外輪フリゲート艦ミシシッピ(旗艦)・スループ型帆船プリマス・スループ型帆船サラトガ・補給艦サプライの4隻で、ノーフォークから上海へ向けて出航した。西暦1,853年5月26日に那覇に到着し、200名の兵を率いて琉球王国政府の抵抗を押し切って首里城に入城した。其の後、小笠原諸島の二見港でアメリカ領有宣言の銘板の写しを設置した。同年7月8日午前、4隻を率いて浦賀水道を北上、観音崎と富津岬を結ぶ日本の防衛線を越え、4隻で計73門の大砲で空砲を放ち、浦賀沖に投錨した。娘キャロライン・スライデル・ペリーがオーガスト・ベルモントの妻であった。
  • サイモン・ベルモント シナゴーグの秘書。オーガスト・ベルモントの父。フレデリカ・エルサスとの間に西暦1,813年12月8日にオーガストを儲けた。西暦1,828年に財政難に陥り、オーガストの学費が払えなくなった事で、オーガストはフィランスロピンを退学した。
  • フレデリカ・エルサス オーガスト・ベルモントの母。サイモン・ベルモントの妻。西暦1,821年6月9日に死去した。
  • ガートルード・ハーナウ サイモン・ベルモントの母であり、オーガスト・ベルモントの祖母。2度寡婦となり、フレデリカ・エルサス死後のオーガストをフランクフルトに引き取った。2人目の夫であったハユム・ハーナウの人脈を活用し、ドイツ・ロスチャイルド家に頼み込んで、オーガストをN・M・ロスチャイルド&サンズの見習い職に就かせた。
  • ハユム・ハーナウ ガートルード・ハーナウの2人目の夫。異母姉妹のエヴァ・ハーナウは、アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルドの妻であった。此の縁戚関係が、オーガスト・ベルモントのN・M・ロスチャイルド&サンズ見習い就任に結び付いた。
  • メイヤー・アムシェル・ロスチャイルド フランクフルトのロスチャイルド家初代。ユダヤ教徒とキリスト教徒のコミュニティを統合する事を目的として、学校「フィランスロピン」を設立した。オーガスト・ベルモントは少年期に此の学校に通った。
  • ミラード・フィルモア 第13代アメリカ大統領。西暦1,851年11月17日、ジョン・オーリックを、ブラジル外交官を虐待したスキャンダルを理由に、日本開国任務から外す決定を下した。西暦1,852年1月24日、後任としてマシュー・ペリーを第10代アメリカ東インド艦隊司令官に任命した。コシュート・ラヨシュの亡命を巡る外交的緊張に於いては、オーストリア帝国側の代理を務めたオーガスト・ベルモントと知己を得た。フィルモアの親書は、ペリーが浦賀沖に来航した際の交渉の根拠となった。
  • ジョン・スライデル マシュー・ペリーの娘キャロライン・スライデル・ペリーの叔父。ルイジアナ州民主党の主要メンバー。西暦1,849年、プライベート社交クラブであるユニオンクラブを通じてオーガスト・ベルモントと出会い、ベルモントに政界入りを勧めた。同年7月、サラトガでの休暇中に、ベルモントとキャロラインの引き合わせを行った。
  • キャロライン・スライデル・ペリー マシュー・ペリーの娘。ジョン・スライデルの姪。西暦1,849年7月にサラトガでオーガスト・ベルモントと出会い、同年11月7日にベルモントと結婚した。其の後、夫妻はニューヨーク5番街18番通りに豪邸を建設し、客人を持て成した。此の豪邸は西暦1,893年に売却される迄ベルモント家が使用した。此の結婚により、ロスチャイルド家の代理人ベルモントと、後の日本開国任務の最高指揮官ペリーが姻戚関係で結ばれた。
  • クレメンス・フォン・メッテルニヒ オーストリア帝国の宰相。ロスチャイルド家と密接な繋がりを有しており、オーガスト・ベルモントは此の繋がりを活かし、中米やヨーロッパの外交・金融業務を支援した。
  • コシュート・ラヨシュ ハンガリー革命の指導者。西暦1,851年12月6日にニューヨークに到着し、アメリカへの亡命を果たした。此れによる外交的緊張により、ヨハン・ゲオルク・リッター・フォン・ヒュルゼマンがオーストリア帝国駐アメリカ代理公使職を辞任、後任にオーガスト・ベルモントが就任した。
  • ヨハン・ゲオルク・リッター・フォン・ヒュルゼマン オーストリア帝国駐アメリカ代理公使。西暦1,851年12月6日のコシュート・ラヨシュ亡命による外交的緊張を受け、代理公使職を辞任した。後任としてオーガスト・ベルモントが此れを引き継いだ。
  • ジョン・オーリック マシュー・ペリーの前任者として日本開国任務に当たる予定であったアメリカ海軍士官。ブラジル外交官を虐待したとして告発されたスキャンダルの発覚により、西暦1,851年11月17日にミラード・フィルモアから日本開国任務を外された。
  • サミュエル・ウィリアムズ マシュー・ペリーの主席通訳(中国語)。西暦1,837年のモリソン号事件で日本を訪問した経験から、日本文化や外交に関する知識をペリーに与えた。西暦1,853年5月17日、ペリー一行と共に上海から琉球王国へ向かい、其の後浦賀沖にも同行した。中島三郎助・堀達之助との初対面の際、片言の日本語で話しかけた。
  • アントン・ポートマン アメリカの外交官。マシュー・ペリーが艦隊書記・参謀として雇用した。道中、ミラード・フィルモアの親書のオランダ語訳を作成した。西暦1,853年7月8日、浦賀沖での中島三郎助・堀達之助との交渉の際、オランダ語の通訳を務めた。
  • ハンフリー・マーシャル 駐清アメリカ公使。西暦1,853年5月4日、上海に到着したマシュー・ペリーに、太平天国の乱や清の情勢を伝えた。同月24日には、ピーター・パーカーと共にペリーから借りた蒸気フリゲート艦サスケハナで揚子江を上り、南京で太平天国との接触を試みたが失敗した。
  • ピーター・パーカー 駐清アメリカ臨時代理公使。西暦1,853年5月4日、上海でマシュー・ペリーに太平天国の乱に関する情報共有や外交助言を行った。通訳者として、ケイレブ・クッシング・ウォーレン・デラノ・ジュニアと共に黄埔を訪れた事も有った。
  • 中島三郎助 浦賀奉行所与力で応接掛。西暦1,853年7月8日、堀達之助と共に、異国船に対して退去を求める書類を携え、番船でマシュー・ペリーが乗船しているサスケハナに横付けした。実際には存在しない「副奉行」として紹介され乗船が許可され、船体構造・搭載砲(ペクサン砲・ダールグレン砲)・蒸気機関を入念に調査した。ペリー側は中島を「密偵の様だ」「大胆で出しゃばり、しつこく詮索好き」と記録した。
  • 堀達之助 小通詞。西暦1,853年7月8日、中島三郎助と共にサスケハナに横付けし、第一声、オランダ語で「I can speak Dutch」と、オランダ語が話せる事を主張した。交渉自体は、アントン・ポートマンを介してオランダ語で行われた。
  • フランクリン・ブキャナン 蒸気フリゲート艦サスケハナの艦長。西暦1,853年6月6日に琉球王国に到着し、マシュー・ペリー一行に合流した。ペリーは、再度サスケハナを旗艦に指定した。
  • 尚泰王 琉球王国の国王。西暦1,853年6月6日、マシュー・ペリーが200名の兵を率いて首里城に入城した際、琉球王国政府が偽の行政機関を設けて上層部の役人や王族の直接接触を避けた事で、正殿に居た尚泰王は守り抜かれた。
  • ナサニエル・セイヴァリー 小笠原諸島父島の住人。西暦1,853年6月14日以降、マシュー・ペリーによって、アメリカ海軍管理下の父島植民地政府の移民の頭目に任命された。
  • ウィリアム・ハイネ マシュー・ペリーに同行した画家。西暦1,853年6月の琉球王国徒歩調査では、琉球の風物や人物等を描いた。同年7月8日の浦賀沖来航にも同行した。
  • エリファレット・ブラウン・ジュニア マシュー・ペリーに同行した画家。西暦1,853年7月8日の浦賀沖来航に同行した。
  • ジェームズ・モロウ マシュー・ペリーに同行した医師で植物学者。西暦1,853年6月の琉球王国徒歩調査では、集落内や周辺の道路に就いて、道幅は広く凹凸が無く、両端に排水溝が走り、外側の土手の上に3~6mの間隔を置いて松並木が走り、市街の道路はヨーロッパ風の石畳道路で世界のどの国にも劣らず整然としていると記した。

主要な概念・組織

  • ロスチャイルド家 ヨーロッパの主要金融都市に拠点を有する銀行家一族。フランクフルト(ドイツ)・ロンドン(イギリス)・パリ(フランス)・ナポリ・ウィーンに分家を有した。西暦1,828年、ハユム・ハーナウの異母姉妹エヴァ・ハーナウとアムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルドの縁戚関係を介して、オーガスト・ベルモントをN・M・ロスチャイルド&サンズの見習い職に就かせた。西暦1,837年の恐慌でアメリカ代理店J.L.&S.I.ジョセフ商会が倒産した際、ベルモントの独自判断による「オーガスト・ベルモント&カンパニー」設立を追認し、年俸100,000ドルでアメリカに於ける代理人とした。
  • フィランスロピン メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが、ユダヤ教徒とキリスト教徒のコミュニティを統合する事を目的として設立した学校。オーガスト・ベルモントは少年期に通学したが、西暦1,828年、父サイモン・ベルモントの財政難により学費が払えなくなり、退学した。
  • N・M・ロスチャイルド&サンズ イギリス・ロスチャイルド商会。西暦1,828年、オーガスト・ベルモントが見習い職として就いた。ベルモントは銀行の床を掃除したり家具を磨いたりする所からキャリアを始め、訓練や使い走りを行う傍ら、フランス語・英語・作文・会計を教わった。
  • ドイツ・ロスチャイルド商会 フランクフルト拠点のロスチャイルド家銀行。西暦1,832年、オーガスト・ベルモントを機密事務員に任命した。西暦1,834年には、ベルモントをパートナーの1人の秘書兼旅行随行員とし、ベルモントは此れを切っ掛けにドイツ国外へ初めて出る事となり、パリ・ナポリ・バチカンを旅した。
  • J.L.&S.I.ジョセフ商会 ロスチャイルド家のアメリカ代理店。西暦1,837年の恐慌で、7,000,000ドルの負債を抱えて倒産した。此の倒産が、オーガスト・ベルモントによる「オーガスト・ベルモント&カンパニー」設立の契機となった。
  • オーガスト・ベルモント&カンパニー 西暦1,837年、オーガスト・ベルモントがウォール街78番地に設立した会社。倒産したJ.L.&S.I.ジョセフ商会に取って代わってロスチャイルド家の権益を監督する事を意図したものであった。恐慌を利用して安価で証券を買い漁り、最終的にベルモントとロスチャイルド家の双方が、恐慌以前よりも金銭的に潤う事となった。煙草と綿に投資し、外国為替通貨取引も扱った。
  • オーストリア帝国ニューヨーク総領事職 西暦1,844年、オーガスト・ベルモントがオーストリア帝国政府の任命により就任した役職。以前からベルモントは、ロスチャイルド家とクレメンス・フォン・メッテルニヒの密接な繋がりを活かし、中米やヨーロッパの外交・金融業務を支援していた。西暦1,850年、オーストリア帝国政府のハンガリー革命鎮圧に抗議し、ベルモントは此の職を辞任した。
  • 米墨戦争 西暦1,846年4月25日に勃発したアメリカとメキシコの戦争。此の頃にはオーガスト・ベルモントは、アメリカ財務省が借り入れた大部分の貸付金の主要な引受人となっていた。
  • ユニオンクラブ アメリカのニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタンのアッパー・イースト・サイドに在るプライベート社交クラブ。西暦1,849年、オーガスト・ベルモントが此のクラブを通じてジョン・スライデルと出会い、其の縁でマシュー・ペリーの娘キャロライン・スライデル・ペリーと結婚した。
  • アメリカ東インド艦隊 アメリカ海軍のアジア方面艦隊。西暦1,852年1月24日、ミラード・フィルモアが、ジョン・オーリックの後任として、マシュー・ペリーを第10代司令官に任命した。蒸気外輪フリゲート艦ミシシッピ・スループ型帆船プリマス・スループ型帆船サラトガ・補給艦サプライ・蒸気フリゲート艦サスケハナの5隻が、日本開国任務に投入された。
  • ミラード・フィルモアの親書 日本国(江戸幕府)宛のアメリカ大統領親書。アントン・ポートマンが道中、オランダ語訳を作成した。西暦1,853年7月8日、ペリーは此の親書を持参している事を理由に、相応の身分の役人としか会わない旨を伝え、船室に籠った儘面会を拒否した。
  • 琉球王国 沖縄に在った王国。アメリカは、アジアに進出した西欧諸国に遅れをとらない様、琉球王国を開国させて、蒸気船に必要な石炭の補給基地の建設や、アメリカ船への物資の補給を行える様にするのが狙いであった。西暦1,853年5月26日、マシュー・ペリー一行が那覇に到着、同年6月6日にペリーが200名の兵を率いて首里城に入城した。琉球王国政府は、偽の行政機関を設けて、ペリーを北殿に通し、偽の役人が対応する事で、正殿や尚泰王を守り抜いた。同月23日、簡易的な友好協定が結ばれ、アメリカ船の琉球王国への寄港が許可された。
  • 小笠原諸島 アメリカの捕鯨船や商業船の為の避難港・補給基地、石炭貯蔵所や潜在的なアメリカ海軍拠点の候補地。西暦1,853年6月14日、マシュー・ペリー一行が二見港(現在の東京都小笠原村父島東町)に到着し、島内探検・石炭貯蔵用地の購入・アメリカ海軍管理下の父島植民地政府の樹立・現地島民への指導・ナサニエル・セイヴァリーの移民の頭目への任命・母島での現地調査・アメリカ領有宣言の銘板の写しの設置を行った。
  • 浦賀沖来航 西暦1,853年7月8日午前、マシュー・ペリーがサスケハナ(旗艦)・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻を率い、浦賀水道を北上し、観音崎(現在の神奈川県横須賀市鴨居)と富津岬(現在の千葉県富津市)を結ぶ日本の防衛線を越え、江戸方面へ蒸気船を進め、4隻で計73門の大砲で空砲を放った事件。17時、晴天の下、4隻が一列に投錨し、浦賀の町に砲門を向けた。江戸湾の防備に当たっていたのは川越藩・彦根藩・会津藩・忍藩であった。
  • 4隻の黒船 マシュー・ペリーが浦賀沖に率いた4隻の艦船。蒸気外輪フリゲート艦ミシシッピ(当初の旗艦)、スループ型帆船プリマス、スループ型帆船サラトガ、蒸気フリゲート艦サスケハナ(西暦1,853年6月6日に琉球王国で合流後の旗艦)。同年11月24日にノーフォーク(アメリカのバージニア州)から出航したのは、ミシシッピ・プリマス・サラトガと補給艦サプライの4隻であった。

アルツァイのシナゴーグ秘書の息子の誕生から、N・M・ロスチャイルド&サンズ見習い、ウォール街での「オーガスト・ベルモント&カンパニー」設立、マシュー・ペリーの娘との結婚、ペリーのアメリカ東インド艦隊司令官任命、琉球王国首里城入城、小笠原諸島領有宣言、4隻の黒船による浦賀来航迄──
ロスチャイルド家の代理人ベルモントが日本開国の黒幕となる40年間の系譜を年月日単位で追跡した一冊。

JPY 200(税込)

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石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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