ジミー・カーターを大統領に据えた
デイヴィッド・ロックフェラー
一元化
西暦1,971年、銀行の食堂での昼食から始まった──
無名の州知事が大統領に据えられる迄の八年を一元化。
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本書について
西暦1,971年、チェース・マンハッタン銀行の取締役会の際、デイヴィッド・ロックフェラーがジミー・カーターと食堂で昼食を共にした。ロックフェラーは、カーターがジョージア州の貿易事務所を東京に開設した事に感銘を受けたという。本書は、此の一度の昼食を起点として、一人の南部州知事がアメリカ大統領に据えられてゆく八年の歩みを、年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,972年12月頃、CFR会員のウィリアム・アヴェレル・ハリマンが、CFR会員でハーバード大学法科大学院国際法学プログラムディレクターのミルトン・カッツに対し「高みの見物を止め、南部の知事達に目を向けるべきだ」と語る。其処でジミー・カーターの名前が挙がり、カッツはカーターをデイヴィッド・ロックフェラーに知らせた。西暦1,973年2月には、ビルダーバーグ会議のメンバーで第54代アメリカ国務長官を務めたディーン・ラスクが、ジェラルド・スミスと夕食を共にしていた際に「ジミー・カーターが、三極委員会の良い候補者になるだろう」と提案している。
西暦1,973年4月、デイヴィッド・ロックフェラーのアシスタントでCFR会員且つ三極委員会コーディネーターのジョージ・S・フランクリン、ロバート・ボウイ、ジェラルド・スミスの3名が、三極委員会の候補者に南部を代表する人間が必要であると判断する。候補に挙がったのはジミー・カーターと、第37代アメリカフロリダ州知事ルービン・アスキューの2名であった。最終的にカーターが選ばれ、フランクリンはアトランタへ向かい、カーターを三極委員会へ勧誘した。
西暦1,973年7月1日、日米欧三極委員会が正式に発足する。デイヴィッド・ロックフェラーが会長、ズビグネフ・ブレジンスキーが北米創設理事に就任した。北米メンバーには、ブレジンスキーが勧誘した第76代ジョージア州知事ジミー・カーター、アメリカ下院議員で弁護士のジョン・B・アンダーソン、タイム社編集長ヘドリー・ドノバン等が名を連ねた。北米以外では、第74代イギリス内務大臣レジナルド・モードリング、イングランド銀行取締役ロール男爵エリック・ロール、BBCリポーターのアラステア・バーネット、フィアット社社長ジャンニ・アニェッリ、同年1月迄欧州委員会副委員長を務めたレイモン・バール等が加わっている。委員会はニューヨーク・東京・パリに拠点を置き、35名のメンバーから成る執行委員が運営し、ほぼ9ヶ月毎に3拠点の持ち回りで会合を開いた。
西暦1,973年9月頃、ジミー・カーターとデイヴィッド・ロックフェラーがロンドンで夕食を共にする。此れ以降カーターは、ズビグネフ・ブレジンスキーを始めとする三極委員会委員によって次期大統領として育てられた。念の為、ウォルター・モンデール、エリオット・リチャードソン、エドワード・ケネディも大統領候補となっている。同年10月、ブレジンスキーは「民主党の候補者が当選を望むなら、仕事・家族・宗教、そして益々愛国心を強調しなければならない」と演説した。カーターは此れ等の美徳を強調して選挙運動を行ない、自らを部外者とし、ワシントンD.C.の混乱を一掃する為にアメリカ国民に選んで貰おうとした。
西暦1,975年12月の時点で、アメリカ国内の民主党員でジミー・カーターを支持していたのは、ギャラップ社の世論調査で4%であった。
西暦1,976年3月15日、ジミー・カーターが第48回アメリカ大統領選挙予備選挙に於いて、シカゴ外交問題評議会にて外交政策に就いての演説を行なう。此の演説の準備を手伝ったのは11名のCFR会員であり、大半は三極委員会委員でもあった。ズビグネフ・ブレジンスキー、イェール大学教授で同大学の事務長やアメリカ国務省国際金融担当副次官補を務めたリチャード・クーパー、アメリカ国務次官補(国際機関問題担当)を務めたリチャード・ガードナー、ブルッキングス研究所外交政策研究部長ヘンリー・オーウェン、ハーバード大学日本研究所所長エドウィン・O・ライシャワー、第11代アメリカ商務長官や第48代ニューヨーク州知事を歴任したウィリアム・アヴェレル・ハリマン、第18代国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めカーネギー国際平和基金で働いていたアンソニー・レイク、ヘンリー・キッシンジャーと共にハーバード大学国際問題研究センターを設立し国務省顧問を務めたロバート・ボウイ、アメリカ国務省法律顧問を務めたハーバード大学フェリックス・フランクファーター法学教授のエイブラム・チェイズ、第3代アメリカ経済担当国務次官・第23代アメリカ国務次官・第7代アメリカ国連大使を歴任したジョージ・ボール、第7代アメリカ陸軍長官・第11代アメリカ国防副長官を歴任したサイラス・ヴァンスである。
西暦1,976年7月12日から4日間、マディソン・スクエア・ガーデン(アメリカのニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区)にてアメリカ民主党全国大会が開かれ、大統領候補にジミー・カーター、副大統領候補にウォルター・モンデールが指名された。カーターが指名を勝ち取ったのは、メディアがカーターのジョージア州知事時代の業績を誇張するキャンペーンを張った結果であった。カーターの前任で第69代アメリカジョージア州知事を務めたレスター・マドックスは「虚偽で誤解を招く、欺瞞的な発言や行動に基づき、私の意見ではカーターはアメリカ国民から1票も受けるに値せず、期待するべきでもない」と述べている。其の後カーターは形式上三極委員会から脱会したが、三極委員会・ロックフェラー家・タイム誌・CFR会員でUAW(全米自動車労働組合)会長のレナード・ウッドコック・CFR会員でUAW組合員のヘンリー・フォード2世の支持を受けた。又、ディーン・ラスク、第57代アメリカ財務長官を務めたC・ダグラス・ディロン、タイム社創業者ヘンリー・ルース、ジョン・ロックフェラーの関連企業の「イースト・オハイオ・ガス会社」で働き、チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道取締役会長やウエストケンタッキー炭鉱会社取締役会長を歴任したサイラス・イートンから資金提供を受けている。
西暦1,977年1月3日、ジミー・カーターがタイム誌の「マン・オブ・ザ・イヤー」に選出される。此の時のタイム誌の編集長は、三極委員会北米メンバーでもあったヘドリー・ドノバンであった。同月20日、カーターは第39代アメリカ大統領に就任する。カーター政権は、カーター自身を含む日米欧三極委員会委員が要職を占めた。第42代アメリカ副大統領ウォルター・モンデール、第57代アメリカ国務長官サイラス・ヴァンス、第5代アメリカ国務副長官ウォーレン・クリストファー、第14代アメリカ国防長官ハロルド・ブラウン、第64代アメリカ財務長官ワーナー・マイケル・ブルーメンソール、第10代国家安全保障問題担当大統領補佐官ズビグネフ・ブレジンスキー、就任直前迄ブルッキングス研究所外交政策研究部長を務めたアメリカ大統領経済担当補佐官ヘンリー・オーウェン、第4代軍備管理・軍縮庁長官ポール・ウォーンケ、第14代アメリカ国連大使アンドリュー・ヤング、核不拡散担当大統領特別代表ジェラルド・スミス、駐伊アメリカ大使リチャード・ガードナー、特命全権大使兼国連海洋法条約特別代表エリオット・リチャードソン、アメリカ国務次官(経済担当)リチャード・クーパー、第4代国際安全保障問題担当国務次官ルーシー・ベンソン、アメリカ財務次官アンソニー・ソロモン、CIA国家情報長官ロバート・R・ボウイ、国務次官補(東アジア・太平洋担当)リチャード・ホルブルックである。
更にカーターは、ロックフェラー財団・ブルッキングス研究所・コカ・コーラ社の内部勢力から多くの行政職を任命した。カーターはジョージア州知事時代にコカ・コーラ社の人間を多用しており、今回同社からはジョージ・ボール、第2代アメリカ大統領情報活動諮問会議議長や第9代アメリカ国防長官を歴任したクラーク・クリフォード、ブレジンスキーが招いたハーバード大学国際問題センター所長サミュエル・P・ハンティントン、アメリカ国連使節団の情報担当官であったディーン・アチソンの特別補佐官を務めたマーシャル・シュルマン、ガードナー、オーウェン、CFR理事ロバート・ルーサ、コカ・コーラ社会長ジョン・ポール・オースティンが任命されている。最終的に、三極委員会のアメリカ人メンバーの40%がカーター政権に参加し、三極委員会とCFR合わせて291名がカーター政権に加わった。此の他にも、西暦1,964年にデイヴィッド・ロックフェラーと共同で「国際エグゼクティブ・サービス・コープス」を設立したソル・リノウィッツがパナマ運河条約の主任交渉官に、第12代ニューヨーク大学学長ジョン・C・ソーヒルがOMB(管理予算局)天然資源・エネルギー・科学・環境担当副局長に、カーターと三極委員会で出会ったロイド・カトラーがホワイトハウス顧問に、アンソニー・レイクが第11代アメリカ国務省政策企画本部長に、C・フレッド・バーグステンがアメリカ財務省国際問題担当財務次官補に、ニューヨークタイムズ外交特派員レスリー・ゲルブがアメリカ国務次官補・政治軍事局長に、国家安全保障会議秘書を務めたリチャード・ムースがアフリカ問題担当国務次官補に、ブロック・アダムズが第5代アメリカ運輸長官に、レナード・ウッドコックが北京のアメリカ連絡事務所所長に、アメリカ国防長官特別補佐官及びアメリカ国防副長官特別補佐官を兼任したジョセフ・アンソニー・カリファノがアメリカ保健教育福祉長官に就いた。セオドア・C・ソレンセンはCIA長官に指名されたが、アメリカ上院が承認しなかった。
西暦1,979年8月6日、ジミー・カーターにより指名された、三極委員会北米委員長でCFR・ビルダーバーグ会議のメンバーであるポール・ボルカーが、第12代FRB議長に就任する。デイヴィッド・ロックフェラーがカーターに指示を出していた。銀行の食堂での昼食が、南部の知事への着目となり、委員会への勧誘となり、支持率4%からの指名となり、遂には291名を擁する政権と中央銀行の人事になる——本書は、其の八年の全軌跡を一冊に束ねている。
登場人物
- デイヴィッド・ロックフェラー 本書の中心人物。西暦1,971年、チェース・マンハッタン銀行の取締役会の際にジミー・カーターと食堂で昼食を共にし、カーターがジョージア州の貿易事務所を東京に開設した事に感銘を受けた。西暦1,973年7月1日に発足した日米欧三極委員会の会長に就任し、同年9月頃にはロンドンでカーターと夕食を共にしている。西暦1,979年8月6日のポール・ボルカーのFRB議長就任に際しては、カーターに指示を出していた。
- ジミー・カーター 第76代ジョージア州知事から第39代アメリカ大統領となった人物。西暦1,973年4月に三極委員会の南部代表候補として選ばれ、ジョージ・S・フランクリンの勧誘を受けた。同年9月頃以降、ズビグネフ・ブレジンスキーを始めとする三極委員会委員によって次期大統領として育てられる。西暦1,975年12月の支持率は4%であったが、西暦1,976年7月12日に民主党の大統領候補に指名され、西暦1,977年1月20日に就任した。
- ズビグネフ・ブレジンスキー 日米欧三極委員会の北米創設理事。ジミー・カーターを同委員会へ勧誘し、西暦1,973年10月には「民主党の候補者が当選を望むなら、仕事・家族・宗教、そして益々愛国心を強調しなければならない」と演説した。西暦1,976年3月15日のシカゴ外交問題評議会での演説準備を手伝い、カーター政権では第10代国家安全保障問題担当大統領補佐官を務め、サミュエル・P・ハンティントンを政権に招いた。
- ウィリアム・アヴェレル・ハリマン CFR会員で、第11代アメリカ商務長官や第48代ニューヨーク州知事を歴任した人物。西暦1,972年12月頃、ミルトン・カッツに対し「高みの見物を止め、南部の知事達に目を向けるべきだ」と語り、ジミー・カーターの名が挙がる契機を作った。西暦1,976年3月15日の演説準備も手伝っている。
- ミルトン・カッツ CFR会員で、ハーバード大学法科大学院国際法学プログラムディレクター。西暦1,972年12月頃、ウィリアム・アヴェレル・ハリマンとの会話で挙がったジミー・カーターの名を、デイヴィッド・ロックフェラーに知らせた。
- ディーン・ラスク ビルダーバーグ会議のメンバーで、第54代アメリカ国務長官を務めた人物。西暦1,973年2月、ジェラルド・スミスとの夕食の際に「ジミー・カーターが、三極委員会の良い候補者になるだろう」と提案した。西暦1,976年には、カーターへの資金提供者の1人ともなっている。
- ジェラルド・スミス ディーン・ラスクからジミー・カーターを推された人物。西暦1,973年4月、ジョージ・S・フランクリン、ロバート・ボウイと共に、三極委員会の候補者に南部を代表する人間が必要であると判断した3名の1人。カーター政権では核不拡散担当大統領特別代表を務めた。
- ジョージ・S・フランクリン デイヴィッド・ロックフェラーのアシスタントで、CFR会員且つ三極委員会コーディネーター。西暦1,973年4月、南部代表の候補としてジミー・カーターが選ばれた後、アトランタへ向かいカーターを三極委員会へ勧誘した。
- ロバート・ボウイ ヘンリー・キッシンジャーと共にハーバード大学国際問題研究センターを設立し、国務省顧問を務めた人物。西暦1,973年4月に南部代表の必要性を判断した3名の1人で、西暦1,976年3月15日の演説準備も手伝った。カーター政権ではCIA国家情報長官を務めている。
- ルービン・アスキュー 第37代アメリカフロリダ州知事。西暦1,973年4月、三極委員会の南部代表としてジミー・カーターと共に候補に挙がったが、最終的に選ばれたのはカーターであった。
- ウォルター・モンデール 西暦1,973年9月頃以降、念の為の大統領候補の1人とされた人物。西暦1,976年7月12日のアメリカ民主党全国大会でジミー・カーターの副大統領候補に指名され、カーター政権では第42代アメリカ副大統領を務めた。
- エリオット・リチャードソン 西暦1,973年9月頃以降、念の為の大統領候補の1人とされた人物。カーター政権では特命全権大使兼国連海洋法条約特別代表を務めた。
- エドワード・ケネディ 西暦1,973年9月頃以降、ウォルター・モンデール、エリオット・リチャードソンと共に、念の為の大統領候補とされた人物。
- レスター・マドックス ジミー・カーターの前任で、第69代アメリカジョージア州知事を務めた人物。西暦1,976年7月のカーターの指名を受け「虚偽で誤解を招く、欺瞞的な発言や行動に基づき、私の意見ではカーターはアメリカ国民から1票も受けるに値せず、期待するべきでもない」と述べた。
- ヘドリー・ドノバン タイム社編集長で、西暦1,973年7月1日の日米欧三極委員会発足時の北米メンバーの1人。西暦1,977年1月3日、ジミー・カーターがタイム誌の「マン・オブ・ザ・イヤー」に選出された際の編集長であった。
- ヘンリー・ルース タイム社創業者。西暦1,976年、ジミー・カーターへの資金提供者の1人となった。
- サイラス・ヴァンス 第7代アメリカ陸軍長官・第11代アメリカ国防副長官を歴任した人物。西暦1,976年3月15日の演説準備を手伝ったCFR会員の1人で、カーター政権では第57代アメリカ国務長官を務めた。
- リチャード・クーパー イェール大学教授で、同大学の事務長やアメリカ国務省国際金融担当副次官補を務めた人物。西暦1,976年3月15日の演説準備を手伝い、カーター政権ではアメリカ国務次官(経済担当)を務めた。
- リチャード・ガードナー アメリカ国務次官補(国際機関問題担当)を務めた人物。西暦1,976年3月15日の演説準備を手伝い、カーター政権では駐伊アメリカ大使に就いた。コカ・コーラ社の内部勢力からの任命者としても名が挙がっている。
- ヘンリー・オーウェン ブルッキングス研究所外交政策研究部長。西暦1,976年3月15日の演説準備を手伝い、就任直前迄同職を務めた上でカーター政権のアメリカ大統領経済担当補佐官となった。
- エドウィン・O・ライシャワー ハーバード大学日本研究所所長。西暦1,976年3月15日、ジミー・カーターのシカゴ外交問題評議会での外交政策演説の準備を手伝ったCFR会員の1人。
- アンソニー・レイク 第18代国家安全保障問題担当大統領補佐官を務め、カーネギー国際平和基金で働いていた人物。西暦1,976年3月15日の演説準備を手伝い、カーター政権では第11代アメリカ国務省政策企画本部長に就いた。
- エイブラム・チェイズ アメリカ国務省法律顧問を務めた、ハーバード大学フェリックス・フランクファーター法学教授。西暦1,976年3月15日の演説準備を手伝ったCFR会員の1人。
- ジョージ・ボール 第3代アメリカ経済担当国務次官・第23代アメリカ国務次官・第7代アメリカ国連大使を歴任した人物。西暦1,976年3月15日の演説準備を手伝い、カーター政権にはコカ・コーラ社の内部勢力から任命された1人として加わった。
- レナード・ウッドコック CFR会員でUAW(全米自動車労働組合)会長。西暦1,976年、ジミー・カーターを支持した1人で、カーター政権では北京のアメリカ連絡事務所所長に就いた。
- ヘンリー・フォード2世 CFR会員でUAW組合員。西暦1,976年、三極委員会・ロックフェラー家・タイム誌等と共にジミー・カーターを支持した。
- C・ダグラス・ディロン 第57代アメリカ財務長官を務めた人物。西暦1,976年、ジミー・カーターへの資金提供者の1人となった。
- サイラス・イートン ジョン・ロックフェラーの関連企業の「イースト・オハイオ・ガス会社」で働き、チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道取締役会長、ウエストケンタッキー炭鉱会社取締役会長を歴任した人物。西暦1,976年、ジミー・カーターへの資金提供者の1人となった。
- サミュエル・P・ハンティントン ハーバード大学国際問題センター所長。ズビグネフ・ブレジンスキーに招かれ、コカ・コーラ社の内部勢力からの任命者としてカーター政権に加わった。
- ソル・リノウィッツ 西暦1,964年にデイヴィッド・ロックフェラーと共同で「国際エグゼクティブ・サービス・コープス」を設立した人物。カーター政権ではパナマ運河条約の主任交渉官を務めた。
- ロイド・カトラー ジミー・カーターと三極委員会で出会った人物。カーター政権ではホワイトハウス顧問に就いた。
- セオドア・C・ソレンセン カーター政権でCIA長官に指名されたが、アメリカ上院が承認しなかった人物。
- ポール・ボルカー 三極委員会北米委員長で、CFR・ビルダーバーグ会議のメンバー。西暦1,979年8月6日、ジミー・カーターの指名により第12代FRB議長に就任した。此の指名に際しては、デイヴィッド・ロックフェラーがカーターに指示を出していた。
主要な組織・出来事
- 日米欧三極委員会 西暦1,973年7月1日に正式発足した組織。デイヴィッド・ロックフェラーが会長、ズビグネフ・ブレジンスキーが北米創設理事に就任した。ニューヨーク・東京・パリに拠点を置き、35名のメンバーから成る執行委員が運営し、ほぼ9ヶ月毎に3拠点の持ち回りで会合を開いた。最終的に、アメリカ人メンバーの40%がカーター政権に参加している。
- CFR(外交問題評議会) ウィリアム・アヴェレル・ハリマン、ミルトン・カッツ、ジョージ・S・フランクリン、レナード・ウッドコック、ヘンリー・フォード2世等が会員として名を連ねた組織。西暦1,976年3月15日のジミー・カーターの演説準備を手伝った11名は全員がCFR会員であり、其の大半は三極委員会委員でもあった。三極委員会と合わせて291名がカーター政権に加わっている。
- ビルダーバーグ会議 ディーン・ラスクやポール・ボルカーがメンバーであった会議。ラスクは西暦1,973年2月にジミー・カーターを三極委員会の候補として提案し、ボルカーは西暦1,979年8月6日にFRB議長へ就任した。
- チェース・マンハッタン銀行 西暦1,971年、其の取締役会の際にデイヴィッド・ロックフェラーとジミー・カーターが食堂で昼食を共にした場。本書の起点である。
- 三極委員会発足時のメンバー 西暦1,973年7月1日の発足時、北米にはジミー・カーター、アメリカ下院議員で弁護士のジョン・B・アンダーソン、タイム社編集長ヘドリー・ドノバン等が、北米以外には第74代イギリス内務大臣レジナルド・モードリング、イングランド銀行取締役ロール男爵エリック・ロール、BBCリポーターのアラステア・バーネット、フィアット社社長ジャンニ・アニェッリ、同年1月迄欧州委員会副委員長を務めたレイモン・バール等が名を連ねた。
- シカゴ外交問題評議会での演説 西暦1,976年3月15日、第48回アメリカ大統領選挙予備選挙に於いてジミー・カーターが外交政策に就いて行なった演説。準備を手伝ったのはズビグネフ・ブレジンスキー、リチャード・クーパー、リチャード・ガードナー、ヘンリー・オーウェン、エドウィン・O・ライシャワー、ウィリアム・アヴェレル・ハリマン、アンソニー・レイク、ロバート・ボウイ、エイブラム・チェイズ、ジョージ・ボール、サイラス・ヴァンスの11名であった。
- アメリカ民主党全国大会 西暦1,976年7月12日から4日間、マディソン・スクエア・ガーデン(アメリカのニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区)にて開かれた大会。大統領候補にジミー・カーター、副大統領候補にウォルター・モンデールが指名された。カーターが指名を勝ち取ったのは、メディアがカーターのジョージア州知事時代の業績を誇張するキャンペーンを張った結果であった。
- タイム誌「マン・オブ・ザ・イヤー」 西暦1,977年1月3日、大統領就任を目前にしたジミー・カーターが選出された。当時のタイム誌の編集長は、三極委員会北米メンバーでもあったヘドリー・ドノバンである。
- カーター政権の要職 西暦1,977年1月20日に発足した政権。ウォルター・モンデール、サイラス・ヴァンス、ウォーレン・クリストファー、ハロルド・ブラウン、ワーナー・マイケル・ブルーメンソール、ズビグネフ・ブレジンスキー、ヘンリー・オーウェン、ポール・ウォーンケ、アンドリュー・ヤング、ジェラルド・スミス、リチャード・ガードナー、エリオット・リチャードソン、リチャード・クーパー、ルーシー・ベンソン、アンソニー・ソロモン、ロバート・R・ボウイ、リチャード・ホルブルックといった三極委員会委員が要職を占めた。
- ロックフェラー財団・ブルッキングス研究所・コカ・コーラ社 ジミー・カーターが多くの行政職を任命した3つの供給源。カーターはジョージア州知事時代からコカ・コーラ社の人間を多用しており、同社からはジョージ・ボール、クラーク・クリフォード、サミュエル・P・ハンティントン、マーシャル・シュルマン、リチャード・ガードナー、ヘンリー・オーウェン、CFR理事ロバート・ルーサ、同社会長ジョン・ポール・オースティンが任命された。
- 国際エグゼクティブ・サービス・コープス 西暦1,964年、デイヴィッド・ロックフェラーとソル・リノウィッツが共同で設立した組織。リノウィッツは後に、カーター政権でパナマ運河条約の主任交渉官を務めた。
支持率4%から、三極委員会・CFRの291名が入る政権へ──
誰が何時、誰を推したのかを一元化。
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