電子書籍「マシュー・ペリーの浦賀来航・井戸弘道・戸田氏栄のミラード・フィルモアの親書受け取り一元化」の表紙

マシュー・ペリーの浦賀来航・井戸弘道・戸田氏栄のミラード・フィルモアの親書受け取り一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,853年7月8日〜1,853年7月17日
最新更新日
西暦2,026年4月4日

浦賀水道を北上する旗艦サスケハナ、観音崎と富津岬を結ぶ江戸湾防衛線、フランス語で書かれた退去要求の旗、堀達之助の「I can speak Dutch」、副奉行を詐称した中島三郎助、浦賀奉行を詐称した香山栄左衛門、サスケハナ艦長フランクリン・ブキャナンの威嚇、サイラス・ベントの江戸湾20km侵入、阿部正弘の久里浜受領決定、香山栄左衛門の地球儀対応、久里浜の国書伝達式と「ヘイル・コロンビア」、戸田氏栄と井戸弘道へのミラード・フィルモアの親書手渡し、サスケハナとミシシッピの威嚇砲撃、小柴沖への退却──
マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻による浦賀来航、4隻73門の大砲による空砲、約1,000名の同行団、川越藩・彦根藩・会津藩・忍藩の江戸湾防備、中島三郎助と堀達之助のサスケハナ乗船とペクサン砲・ダールグレン砲・蒸気機関の調査、香山栄左衛門のサスケハナでのブキャナン・アダムズ・コンティとの会談、長崎回航要求の拒否と徳川家慶への親書呈上の武力上陸の威嚇、ミシシッピ艦長シドニー・スミス・リーの援護、阿部正弘による「国書を受け取るだけなら主権侵害にはならない」との久里浜受領決定、徳川家慶病臥による回答留保、サスケハナとミシシッピの江戸の街を見渡せる所迄の進入と威嚇砲撃、翌春再来航予告と琉球王国への出航迄、マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊4隻が浦賀に来航し、井戸弘道と戸田氏栄が久里浜にてミラード・フィルモアの親書を受領するに至った10日間の系譜を年月日単位で追跡した一冊。

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本書について

西暦1,853年7月8日午前、マシュー・ペリーが旗艦サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻を率い、浦賀水道を北上した。水兵・科学者・技術者・料理人・音楽隊員・通訳・旅行記録者等約1,000名がペリーに同行しており、其の中にはウィリアム・ハイネ、画家エリファレット・ブラウン・ジュニア、サミュエル・ウィリアムズ、アントン・ポートマン、植物学者ジェームズ・モロウ等が含まれていた。ペリー一行は、観音崎(現在の神奈川県横須賀市鴨居)と富津岬(現在の千葉県富津市)を結ぶ日本の防衛線を越え、江戸方面へ蒸気船を進め、4隻で計73門の大砲で空砲を放った。17時、晴天の下、4隻が一列に投錨し、浦賀の町に砲門を向けた。此の時江戸湾の防備に当たっていたのは川越藩・彦根藩・会津藩・忍藩であった。日本側の警備船が4隻を取り囲み、国際外交の共通語であったフランス語で「即刻退去せよ」と書かれた大きな旗を掲げたが、ペリーは、日本側の役人の乗船を一切拒否した。警備船がサラトガにロープや鎖を投げて接舷しようとしたが、水兵がロープを切断し、槍・短剣・拳銃で追い払った。本書は、此のマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊4隻の浦賀来航から、井戸弘道と戸田氏栄が久里浜にてミラード・フィルモアの親書を受領するに至った10日間に亘る系譜を、一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

其の後、浦賀奉行所与力で応接掛の中島三郎助と小通詞堀達之助が、異国船に対して退去を求める書類を携え、番船でマシュー・ペリーが乗船しているサスケハナに横付けした。堀は第一声、オランダ語で「I can speak Dutch」と、オランダ語が話せる事を主張した。ウィリアムズも片言の日本語で話しかけたが、交渉自体は、ポートマンを介してオランダ語で行われた。ペリー側は、異国船に対して退去を求める書類を提示しても応じず、乗船も拒否した。ペリー自身も、ミラード・フィルモアの親書を持参しているので、相応の身分の役人としか会わない旨を伝え、船室に籠った儘面会を拒否した。其処で堀は、中島を副奉行として紹介した。浦賀奉行所に副奉行という役職は実際には存在しなかったが、此れにより中島・堀は乗船を許可された。中島・堀が甲板に上がると、サスケハナの乗組員達は、戦闘態勢を取っていた。中島は乗船中に船体構造・搭載砲(ペクサン砲・ダールグレン砲)・蒸気機関を入念に調査した。ペリー側は中島を「密偵の様だ」、「大胆で出しゃばり、しつこく詮索好き」と記録した。

西暦1,853年7月9日、浦賀奉行所与力香山栄左衛門が、浦賀奉行を詐称して、中島三郎助と共にサスケハナを訪れ、サスケハナ艦長フランクリン・ブキャナン、アメリカ海軍東インド艦隊参謀長ヘンリー・A・アダムズ、アメリカ海軍東インド艦隊旗艦副官ジョン・コンティの3名と会談した。コンティが窓口となって中島・香山と最初に接触し、交渉が行われた。マシュー・ペリーは船室に籠り、姿を現さなかった。香山は、長崎への回航を要求したが、ブキャナンは拒否し「江戸幕府が国書受領に相応しい高官を派遣しないなら、武力に訴えてでも上陸し、ペリー自ら徳川家慶にミラード・フィルモアの親書を呈したい」という主旨の発言をした。香山は「江戸幕府に報告してから回答する」とし、4日の猶予を求めた。ペリーは「3日なら待つ」と回答した。此の日から浦賀には、見物人が集まり始めた。又同日、マシュー・ペリーは、サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの各艦から1隻ずつ、計4隻の武装した短艇を派遣し、浦賀湊内を測量させた。浦賀奉行所は抗議したが、アメリカ側は無視した。西暦1,853年7月10日、香山栄左衛門が、マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の浦賀来航に関し、江戸詰の浦賀奉行井戸弘道に報告した。此の日の浦賀は、江戸からも見物人が殺到していた。

西暦1,853年7月11日早朝、アメリカ海軍東インド艦隊の測量艇隊が、江戸湾内に約20km侵入し、ミシシッピが護衛に付いた。此れを受けて江戸幕府は警備船を送った。ミシシッピの小艇に乗っていた大尉サイラス・ベントは、測量の際、日本側の槍・火縄銃で武装した武士の乗る40隻の警備船に遭遇した。ベントは警備船の間を突き進んで進路を変え、ミシシッピに伝令として船を送り、ミシシッピ艦長シドニー・スミス・リーに、ミシシッピを接近させる様要請した。ミシシッピが接近すると、警備船は退去した。同日、阿部正弘が「国法には反するが、国書を受け取るだけなら条約を結んだ訳でも通商を認めた訳でも無い。だから主権を譲り渡した主権侵害にはならない」とし、ミラード・フィルモアの親書を、長崎奉行を通さずに久里浜で受理する事を決定した。此の時、徳川家慶は病床に伏せていた。阿部は、浦賀奉行井戸弘道に浦賀へ行き、浦賀奉行戸田氏栄と協議し、フィルモアの親書を受け取る様命じた。西暦1,853年7月12日、香山栄左衛門が、サスケハナへ向かい、西暦1,853年7月14日に久里浜の海岸でミラード・フィルモアの親書を受け取る旨をアメリカ側に伝えた。其の後香山は、フィルモアの親書受け渡しの交渉成立を祝い、サスケハナの船内を案内された。地球儀を見せられた香山は、アメリカ側の予想に反して、平然とニューヨークやワシントンD.C.の位置を指し示し、アメリカ側を驚かせた。

西暦1,853年7月14日8時、日本側がサスケハナに向かい、10時、アメリカ海軍東インド艦隊が、久里浜に上陸した。サスケハナの13発の礼砲の下、マシュー・ペリーは、250名の水兵・海兵隊を率い、15隻のボートで盛大に上陸した。国書伝達式が執り行われ、海兵隊が捧げ銃をし、軍楽隊が「ヘイル・コロンビア」を演奏し、ミラード・フィルモアの親書が、戸田氏栄と井戸弘道の2名に手渡された。伝達式は20分程度で終了した。親書には、①通商、②石炭と食糧の供給、③難破民の保護、の要求が書かれていた。江戸幕府は此れを受けて、徳川家慶が病気の為、決定が出来ない旨を伝えた。ペリーは、戸田・井戸と会談したものの、外交交渉は一切行われず、親書の受け渡しのみで終わった。江戸幕府は、受領書をアメリカ側に渡したが「国書は受け取ったのだから、速やかにお引き取りを願いたい」旨が書かれていた。

西暦1,853年7月15日夕方、アメリカ海軍東インド艦隊が、サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻を北上させ、江戸湾深くに侵入した。此の時マシュー・ペリーは、ミシシッピに乗船していた。サスケハナとミシシッピは、江戸の街を見渡せる所まで艦を進ませた。そして、日が暮れてから大砲を放ち、威嚇した。其の後アメリカ海軍東インド艦隊は、小柴沖(現在の神奈川県横浜市金沢区柴町)に引き返した。西暦1,853年7月17日、アメリカ海軍東インド艦隊が、浦賀を出航した。マシュー・ペリーは、翌春の再来航を予告し、琉球王国へと向かった。本書は、此の10日間に亘る、マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻による浦賀水道北上から、観音崎・富津岬の江戸湾防衛線突破、4隻73門の大砲による空砲、中島三郎助と堀達之助のサスケハナ乗船とペクサン砲・ダールグレン砲・蒸気機関の調査、香山栄左衛門の浦賀奉行詐称によるブキャナン・アダムズ・コンティとの会談、ブキャナンの長崎回航要求拒否と武力上陸の威嚇、サイラス・ベントとシドニー・スミス・リーによる江戸湾20km侵入、阿部正弘による久里浜での親書受領決定、香山栄左衛門の地球儀対応、久里浜の国書伝達式と13発の礼砲・「ヘイル・コロンビア」演奏、戸田氏栄と井戸弘道へのミラード・フィルモアの親書手渡し、通商・石炭と食糧供給・難破民保護の3要求、徳川家慶病臥による回答留保、サスケハナとミシシッピの江戸湾深部侵入と威嚇砲撃、小柴沖への退却、翌春再来航予告と琉球王国への出航迄、マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊4隻が浦賀に来航し、井戸弘道と戸田氏栄が久里浜にてミラード・フィルモアの親書を受領するに至った系譜の全過程を、年月日単位で記録した年表である。


登場人物

  • マシュー・ペリー アメリカ海軍東インド艦隊司令長官。西暦1,853年7月8日午前、サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻を率いて浦賀水道を北上し、観音崎・富津岬の江戸湾防衛線を突破して空砲を放った。日本側の役人の乗船を一切拒否し、ミラード・フィルモアの親書を持参している事を理由に相応の身分の役人としか会わない旨を伝え、船室に籠った儘面会を拒否した。7月14日に久里浜で250名の水兵・海兵隊を率い15隻のボートで上陸し、戸田氏栄と井戸弘道にフィルモアの親書を手渡した。7月15日にはミシシッピに乗船して江戸湾深くに侵入し威嚇砲撃を行い、7月17日に浦賀を出航し、翌春の再来航を予告して琉球王国へと向かった。
  • ミラード・フィルモア 第13代アメリカ大統領。マシュー・ペリーに親書を託し、日本との通商・石炭と食糧の供給・難破民の保護の3要求を伝えさせた。親書は西暦1,853年7月14日、久里浜にて戸田氏栄と井戸弘道に手渡された。
  • 徳川家慶 江戸幕府第12代将軍。西暦1,853年7月のマシュー・ペリー来航時には病床に伏せていた。フランクリン・ブキャナンは「江戸幕府が国書受領に相応しい高官を派遣しないなら、武力に訴えてでも上陸し、ペリー自ら徳川家慶にミラード・フィルモアの親書を呈したい」と発言した。久里浜での親書受領後、江戸幕府はアメリカ側に、徳川家慶が病気の為決定が出来ない旨を伝えた。
  • 阿部正弘 老中首座。西暦1,853年7月11日「国法には反するが、国書を受け取るだけなら条約を結んだ訳でも通商を認めた訳でも無い。だから主権を譲り渡した主権侵害にはならない」とし、ミラード・フィルモアの親書を、長崎奉行を通さずに久里浜で受理する事を決定した。浦賀奉行井戸弘道に浦賀へ行き、浦賀奉行戸田氏栄と協議し、フィルモアの親書を受け取る様命じた。
  • 井戸弘道 浦賀奉行。西暦1,853年7月10日、香山栄左衛門からマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の浦賀来航に関する報告を江戸詰で受けた。同年7月11日、阿部正弘の命により浦賀奉行戸田氏栄と協議し、7月14日に久里浜にてマシュー・ペリーからミラード・フィルモアの親書を受領した。
  • 戸田氏栄 浦賀奉行。西暦1,853年7月11日、阿部正弘の命を受けた井戸弘道と協議し、7月14日に久里浜にてマシュー・ペリーからミラード・フィルモアの親書を受領した。
  • 中島三郎助 浦賀奉行所与力で応接掛。西暦1,853年7月8日、堀達之助と共に番船でサスケハナに横付けし、堀により副奉行として紹介され乗船を許可された。浦賀奉行所に副奉行という役職は実際には存在しなかった。乗船中に船体構造・搭載砲(ペクサン砲・ダールグレン砲)・蒸気機関を入念に調査した。ペリー側は中島を「密偵の様だ」、「大胆で出しゃばり、しつこく詮索好き」と記録した。7月9日には香山栄左衛門と共に再度サスケハナを訪れ、フランクリン・ブキャナン等との会談に同席した。
  • 堀達之助 小通詞。西暦1,853年7月8日、中島三郎助と共に番船でサスケハナに横付けし、第一声でオランダ語で「I can speak Dutch」と、オランダ語が話せる事を主張した。アントン・ポートマンを介したオランダ語交渉を担った。乗船を拒否されていた中島を副奉行として紹介し、中島・堀の乗船許可を引き出した。
  • 香山栄左衛門 浦賀奉行所与力。西暦1,853年7月9日、浦賀奉行を詐称して、中島三郎助と共にサスケハナを訪れ、フランクリン・ブキャナン・ヘンリー・A・アダムズ・ジョン・コンティの3名と会談した。長崎への回航を要求したが拒否され、4日の猶予を求めた。7月10日には江戸詰の浦賀奉行井戸弘道に報告。7月12日にはサスケハナへ向かい、7月14日に久里浜の海岸でミラード・フィルモアの親書を受け取る旨をアメリカ側に伝え、其の後サスケハナの船内を案内され、地球儀を見せられて平然とニューヨークやワシントンD.C.の位置を指し示し、アメリカ側を驚かせた。
  • フランクリン・ブキャナン サスケハナ艦長。西暦1,853年7月9日、香山栄左衛門・中島三郎助との会談で長崎への回航要求を拒否し「江戸幕府が国書受領に相応しい高官を派遣しないなら、武力に訴えてでも上陸し、ペリー自ら徳川家慶にミラード・フィルモアの親書を呈したい」という主旨の発言をした。
  • ヘンリー・A・アダムズ アメリカ海軍東インド艦隊参謀長。西暦1,853年7月9日、サスケハナでの香山栄左衛門・中島三郎助との会談にフランクリン・ブキャナン、ジョン・コンティと共に出席した。
  • ジョン・コンティ アメリカ海軍東インド艦隊旗艦副官。西暦1,853年7月9日、サスケハナでの香山栄左衛門・中島三郎助との会談で窓口となり、中島・香山と最初に接触して交渉を行った。
  • サイラス・ベント アメリカ海軍大尉。西暦1,853年7月11日早朝、ミシシッピの小艇に乗って測量隊として江戸湾内に約20km侵入した際、日本側の槍・火縄銃で武装した武士の乗る40隻の警備船に遭遇した。警備船の間を突き進んで進路を変え、ミシシッピに伝令として船を送り、ミシシッピ艦長シドニー・スミス・リーにミシシッピを接近させる様要請した。
  • シドニー・スミス・リー ミシシッピ艦長。西暦1,853年7月11日早朝、大尉サイラス・ベントの要請を受け、ミシシッピを警備船に接近させ、警備船を退去させた。
  • ウィリアム・ハイネ 西暦1,853年7月8日、マシュー・ペリーに同行してサスケハナで浦賀水道を北上した約1,000名の1人。水兵・科学者・技術者・料理人・音楽隊員・通訳・旅行記録者等の一員。
  • エリファレット・ブラウン・ジュニア 画家。西暦1,853年7月8日、マシュー・ペリーに同行して浦賀水道を北上した約1,000名の1人。
  • サミュエル・ウィリアムズ 西暦1,853年7月8日、マシュー・ペリーに同行して浦賀水道を北上した約1,000名の1人。中島三郎助・堀達之助のサスケハナ訪問時、片言の日本語で話しかけた。
  • アントン・ポートマン 西暦1,853年7月8日、マシュー・ペリーに同行して浦賀水道を北上した約1,000名の1人。中島三郎助・堀達之助のサスケハナ訪問時、ポートマンを介してオランダ語で交渉が行われた。
  • ジェームズ・モロウ 植物学者。西暦1,853年7月8日、マシュー・ペリーに同行して浦賀水道を北上した約1,000名の1人。

主要な概念・組織

  • アメリカ海軍東インド艦隊 マシュー・ペリーが司令長官を務めた艦隊。西暦1,853年7月8日、旗艦サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻で浦賀水道を北上し、観音崎・富津岬の江戸湾防衛線を突破した。参謀長はヘンリー・A・アダムズ、旗艦副官はジョン・コンティ。約1,000名が同行していた。7月17日に浦賀を出航し、琉球王国へと向かった。
  • サスケハナ アメリカ海軍東インド艦隊の旗艦。艦長はフランクリン・ブキャナン。西暦1,853年7月8日に浦賀来航。中島三郎助・堀達之助が乗船し船体構造・搭載砲(ペクサン砲・ダールグレン砲)・蒸気機関を調査した。7月14日には久里浜での国書伝達式に際し13発の礼砲を放った。7月15日には江戸の街を見渡せる所まで艦を進ませ威嚇砲撃を行った。
  • ミシシッピ アメリカ海軍東インド艦隊所属艦。艦長はシドニー・スミス・リー。西暦1,853年7月8日に浦賀来航。7月11日早朝には、大尉サイラス・ベントの測量隊を護衛し、江戸湾内に約20km侵入した。7月15日にはマシュー・ペリー自身が乗船し、サスケハナと共に江戸の街を見渡せる所まで艦を進ませ威嚇砲撃を行った。
  • プリマス アメリカ海軍東インド艦隊所属艦。西暦1,853年7月8日に浦賀来航。7月9日には浦賀湊内の測量隊として武装した短艇を派遣した。
  • サラトガ アメリカ海軍東インド艦隊所属艦。西暦1,853年7月8日に浦賀来航。日本側の警備船がロープや鎖を投げて接舷しようとしたが、水兵がロープを切断し、槍・短剣・拳銃で追い払った。
  • 浦賀奉行所 江戸幕府の役所。奉行は江戸詰の井戸弘道と浦賀詰の戸田氏栄。与力には応接掛の中島三郎助、香山栄左衛門が居た。小通詞には堀達之助が居た。実際には存在しない「副奉行」という役職を、堀達之助が中島三郎助の乗船許可を引き出す為に詐称した。
  • 観音崎・富津岬の江戸湾防衛線 観音崎(現在の神奈川県横須賀市鴨居)と富津岬(現在の千葉県富津市)を結ぶ日本の防衛線。西暦1,853年7月8日午前、マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊4隻が此れを越え、江戸方面へ蒸気船を進めた。
  • 江戸湾警備諸藩 西暦1,853年7月8日のマシュー・ペリー来航時に江戸湾の防備に当たっていた4藩。川越藩・彦根藩・会津藩・忍藩。
  • ペクサン砲・ダールグレン砲 サスケハナの搭載砲。西暦1,853年7月8日、サスケハナに乗船した浦賀奉行所与力で応接掛の中島三郎助が、船体構造・蒸気機関と共に入念に調査した。
  • 退去要求のフランス語の旗 西暦1,853年7月8日、日本側の警備船がアメリカ海軍東インド艦隊4隻を取り囲み掲げた大きな旗。国際外交の共通語であったフランス語で「即刻退去せよ」と書かれていた。マシュー・ペリーは日本側の役人の乗船を一切拒否した。
  • ミラード・フィルモアの親書 第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアから江戸幕府に宛てた親書。マシュー・ペリーが持参した。①通商、②石炭と食糧の供給、③難破民の保護、の要求が書かれていた。西暦1,853年7月14日、久里浜にて戸田氏栄と井戸弘道に手渡された。江戸幕府は受領書を渡したが、徳川家慶の病気を理由に決定不能を伝え、又「国書は受け取ったのだから、速やかにお引き取りを願いたい」旨を書き添えた。
  • 久里浜の国書伝達式 西暦1,853年7月14日10時、アメリカ海軍東インド艦隊が久里浜に上陸し執り行われた式典。サスケハナの13発の礼砲の下、マシュー・ペリーが250名の水兵・海兵隊を率い15隻のボートで盛大に上陸した。海兵隊が捧げ銃をし、軍楽隊が「ヘイル・コロンビア」を演奏し、ミラード・フィルモアの親書が戸田氏栄と井戸弘道に手渡された。伝達式は20分程度で終了し、外交交渉は一切行われず親書の受け渡しのみで終わった。
  • ヘイル・コロンビア 西暦1,853年7月14日の久里浜での国書伝達式に於いて、軍楽隊によって演奏された曲。
  • 浦賀湊測量 西暦1,853年7月9日、マシュー・ペリーがサスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの各艦から1隻ずつ、計4隻の武装した短艇を派遣して行わせた浦賀湊内の測量。浦賀奉行所は抗議したが、アメリカ側は無視した。7月11日早朝には、測量艇隊が江戸湾内に約20km侵入し、ミシシッピが護衛に付いた。
  • 小柴沖 現在の神奈川県横浜市金沢区柴町の沖合。西暦1,853年7月15日夕方、サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻が江戸湾深くに侵入し、江戸の街を見渡せる所まで艦を進ませ威嚇砲撃を行った後、アメリカ海軍東インド艦隊が引き返した先。

マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊のサスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻による浦賀水道北上と観音崎・富津岬の江戸湾防衛線突破、4隻73門の大砲による空砲、川越藩・彦根藩・会津藩・忍藩の江戸湾防備、フランス語の退去要求の旗とペリーの乗船拒否、堀達之助の「I can speak Dutch」と中島三郎助の副奉行詐称によるサスケハナ乗船とペクサン砲・ダールグレン砲・蒸気機関の調査、香山栄左衛門の浦賀奉行詐称によるフランクリン・ブキャナン・ヘンリー・A・アダムズ・ジョン・コンティとの会談、ブキャナンの長崎回航要求拒否と武力上陸の威嚇、サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガからの4隻の武装短艇による浦賀湊測量、サイラス・ベントとシドニー・スミス・リーによる江戸湾20km侵入、阿部正弘の久里浜受領決定、香山栄左衛門の地球儀対応とニューヨーク・ワシントンD.C.指摘によるアメリカ側の驚愕、久里浜の国書伝達式と13発の礼砲・250名の水兵海兵隊・15隻のボート上陸・軍楽隊「ヘイル・コロンビア」演奏、戸田氏栄と井戸弘道へのミラード・フィルモアの親書手渡し、通商・石炭と食糧供給・難破民保護の3要求、徳川家慶病臥による回答留保、サスケハナとミシシッピの江戸湾深部侵入と威嚇砲撃、小柴沖への退却、翌春再来航予告と琉球王国への出航迄──
マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊4隻が浦賀に来航し、井戸弘道と戸田氏栄が久里浜にてミラード・フィルモアの親書を受領するに至った10日間の系譜を年月日単位で追跡した一冊。

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石田晋一

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