マシュー・ペリーの浦賀来航、
井戸弘道・戸田氏栄の
ミラード・フィルモアの親書受け取り一元化
西暦1,853年7月8日、73門の砲門が浦賀を向いた──
其処から親書受け取りまでは、僅か六日であった。
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本書について
西暦1,853年7月8日午前、マシュー・ペリーが、旗艦サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻を率い、浦賀水道を北上する。同行していたのは、ウィリアム・ハイネ、画家エリファレット・ブラウン・ジュニア、サミュエル・ウィリアムズ、アントン・ポートマン、植物学者ジェームズ・モロウを始めとする、水兵・科学者・技術者・料理人・音楽隊員・通訳・旅行記録者等、約1,000名であった。一行は観音崎と富津岬を結ぶ日本の防衛線を越え、江戸方面へ蒸気船を進め、4隻で計73門の大砲による空砲を放つ。17時、晴天の下、4隻が一列に投錨し、浦賀の町へ砲門を向けた。当時江戸湾の防備に当たっていたのは、川越藩・彦根藩・会津藩・忍藩である。本書は、此の日から7月17日の浦賀出航までの十日間を、日ごとの動きに分けて一元化した記録である。
日本側の警備船が艦隊を取り囲み、国際外交の共通語であったフランス語で「即刻退去せよ」と書かれた大きな旗を掲げたが、マシュー・ペリーは日本側の役人の乗船を一切拒否した。警備船がサラトガにロープや鎖を投げて接舷しようとすると、水兵はロープを切断し、槍・短剣・拳銃で追い払っている。其の後、浦賀奉行所与力で応接掛の中島三郎助と、小通詞堀達之助の2名が、異国船に対して退去を求める書類を携え、番船でサスケハナに横付けした。堀は第一声、オランダ語で「I can speak Dutch」と、オランダ語が話せる事を主張する。ウィリアムズも片言の日本語で話しかけたが、交渉自体はポートマンを介してオランダ語で行われた。ペリー側は退去を求める書類に応じず、乗船も拒否する。ペリー自身も、ミラード・フィルモアの親書を持参しているので相応の身分の役人としか会わない旨を伝え、船室に籠った儘面会を拒んだ。其処で堀は、中島を副奉行として紹介する。浦賀奉行所に副奉行という役職は実際には存在しなかったが、此れにより2名の乗船が許可された。甲板に上がった2人を迎えたのは、戦闘態勢を取るサスケハナの乗組員達である。中島は乗船中、船体構造・搭載砲であるペクサン砲とダールグレン砲・蒸気機関を入念に調査した。ペリー側は中島を「密偵の様だ」「大胆で出しゃばり、しつこく詮索好き」と記録している。此の日、佐久間象山は木挽町の五月塾にて、砲術と経書を教授していた。
翌7月9日、浦賀奉行所与力香山栄左衛門が、浦賀奉行を詐称して中島三郎助と共にサスケハナを訪れ、サスケハナ艦長フランクリン・ブキャナン、アメリカ海軍東インド艦隊参謀長ヘンリー・A・アダムズ、同旗艦副官ジョン・コンティと会談する。窓口となって最初に接触したのはコンティであった。マシュー・ペリーは此の日も船室に籠り、姿を現していない。香山は長崎への回航を要求したが、ブキャナンは之を拒否し、江戸幕府が国書受領に相応しい高官を派遣しないなら、武力に訴えてでも上陸し、ペリー自ら徳川家慶にミラード・フィルモアの親書を呈したい、という主旨の発言をした。香山は江戸幕府に報告してから回答するとし、4日の猶予を求めたが、ペリーの回答は「3日なら待つ」であった。此の日から浦賀には見物人が集まり始める。同じ日、ペリーは4隻の各艦から1隻ずつ、計4隻の武装した短艇を派遣し、浦賀湊内を測量させた。浦賀奉行所は抗議したが、アメリカ側は無視している。
7月10日、香山栄左衛門が、アメリカ海軍東インド艦隊の浦賀来航について、江戸詰の浦賀奉行井戸弘道へ報告する。此の日の浦賀には、江戸からも見物人が殺到していた。翌7月11日早朝、艦隊の測量艇隊が江戸湾内に約20km侵入し、ミシシッピが護衛に付く。江戸幕府は警備船を送った。ミシシッピの小艇に乗っていた大尉サイラス・ベントは、測量の際、槍・火縄銃で武装した武士の乗る40隻の警備船に遭遇する。ベントは警備船の間を突き進んで進路を変え、ミシシッピへ伝令の船を送り、艦長シドニー・スミス・リーに接近を要請した。ミシシッピが近付くと、警備船は退去している。
同じ7月11日、阿部正弘が「国法には反するが、国書を受け取るだけなら条約を結んだ訳でも通商を認めた訳でも無い。だから主権を譲り渡した主権侵害にはならない」とし、ミラード・フィルモアの親書を、長崎奉行を通さずに久里浜で受理する事を決定する。徳川家慶は、病床に伏せていた。阿部は浦賀奉行井戸弘道に対し、浦賀へ行って浦賀奉行戸田氏栄と協議し、親書を受け取る様命じた。7月12日、香山栄左衛門がサスケハナへ向かい、7月14日に久里浜の海岸で親書を受け取る旨をアメリカ側へ伝える。交渉成立を祝って船内を案内された香山は、地球儀を見せられた際、アメリカ側の予想に反して平然とニューヨークやワシントンD.C.の位置を指し示し、彼等を驚かせた。
7月14日8時、日本側がサスケハナへ向かい、10時、アメリカ海軍東インド艦隊が久里浜に上陸する。サスケハナの13発の礼砲の下、マシュー・ペリーは250名の水兵・海兵隊を率い、15隻のボートで盛大に上陸した。国書伝達式が執り行われ、海兵隊が捧げ銃をし、軍楽隊が「ヘイル・コロンビア」を演奏する中、ミラード・フィルモアの親書が戸田氏栄と井戸弘道の2名へ手渡される。式は20分程度で終了した。親書に書かれていた要求は、通商、石炭と食糧の供給、難破民の保護の3点である。江戸幕府は之を受けて、徳川家慶が病気の為に決定が出来ない旨を伝えた。ペリーは戸田・井戸と会談したものの、外交交渉は一切行われず、親書の受け渡しのみで終わっている。江戸幕府はアメリカ側へ受領書を渡したが、其処には「国書は受け取ったのだから、速やかにお引き取りを願いたい」という主旨が書かれていた。
然しペリー率いる艦隊は引き揚げなかった。親書の受け渡し後、此の日から翌日に掛けて内海の停泊候補地域の測量を行い、武蔵国橘樹郡生麦村辺りにまで進入して測量し、次回来航時の停泊地の決定に備える。7月15日夕方には、サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻を北上させ、江戸湾深くに侵入した。ペリーが乗船していたのはミシシッピである。サスケハナとミシシッピは江戸の街を見渡せる所まで艦を進ませ、日が暮れてから大砲を放って威嚇し、其の後小柴沖へ引き返した。そして7月17日、アメリカ海軍東インド艦隊が浦賀を出航する。マシュー・ペリーは翌春の再来航を予告し、琉球王国へと向かった。斯うして、松代藩から幕閣に願い出ていた御殿山への出兵命令も無く静かになる——本書は、此の十日間の全軌跡を一冊に束ねている。
登場人物
- マシュー・ペリー アメリカ海軍東インド艦隊を率いた提督。西暦1,853年7月8日、サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻と約1,000名を率いて浦賀水道を北上し、観音崎と富津岬を結ぶ日本の防衛線を越えて空砲を放った。ミラード・フィルモアの親書を持参しているので相応の身分の役人としか会わないとして船室に籠り、7月14日の久里浜での国書伝達式まで姿を現さなかった。7月17日、翌春の再来航を予告して浦賀を出航し、琉球王国へ向かった。
- 井戸弘道 浦賀奉行。西暦1,853年7月10日、香山栄左衛門から江戸詰の身で艦隊来航の報告を受ける。翌7月11日、阿部正弘より浦賀へ行って浦賀奉行戸田氏栄と協議し親書を受け取る様命じられ、7月14日の国書伝達式にて、戸田と共にミラード・フィルモアの親書を受け取った。
- 戸田氏栄 浦賀奉行。西暦1,853年7月14日の久里浜での国書伝達式にて、井戸弘道と共にミラード・フィルモアの親書を受け取った。マシュー・ペリーとの会談も行われたが、外交交渉は一切無く、親書の受け渡しのみで終わっている。
- 中島三郎助 浦賀奉行所与力で応接掛。西暦1,853年7月8日、小通詞堀達之助と共に番船でサスケハナへ横付けし、退去を求める書類を携えて最初の接触を行った。堀により副奉行として紹介され乗船を許可されると、船体構造・ペクサン砲とダールグレン砲・蒸気機関を入念に調査する。アメリカ側は中島を「密偵の様だ」「大胆で出しゃばり、しつこく詮索好き」と記録した。翌9日には香山栄左衛門と共に再度サスケハナを訪れている。
- 堀達之助 小通詞。西暦1,853年7月8日、中島三郎助と共にサスケハナへ横付けし、第一声にオランダ語で「I can speak Dutch」と述べてオランダ語が話せる事を主張した。ペリー側が相応の身分の役人としか会わないとした為、実際には存在しない「副奉行」という役職を名乗らせる形で中島を紹介し、2名の乗船を実現させた。
- 香山栄左衛門 浦賀奉行所与力。西暦1,853年7月9日、浦賀奉行を詐称して中島三郎助と共にサスケハナを訪れ、フランクリン・ブキャナン等と会談した。長崎への回航を要求したが拒まれ、4日の猶予を求めて「3日なら待つ」と回答されている。7月10日に井戸弘道へ報告し、7月12日には久里浜での親書受け取りをアメリカ側へ伝えた。船内で地球儀を見せられた際、平然とニューヨークやワシントンD.C.の位置を指し示し、アメリカ側を驚かせている。
- 阿部正弘 江戸幕府の老中。西暦1,853年7月11日、「国法には反するが、国書を受け取るだけなら条約を結んだ訳でも通商を認めた訳でも無い。だから主権を譲り渡した主権侵害にはならない」として、ミラード・フィルモアの親書を長崎奉行を通さずに久里浜で受理する事を決定した。浦賀奉行井戸弘道に対し、浦賀へ行って戸田氏栄と協議し親書を受け取る様命じている。
- 徳川家慶 第12代征夷大将軍。西暦1,853年7月の黒船来航時、病床に伏せていた。フランクリン・ブキャナンは、相応しい高官が派遣されないならペリー自ら家慶に親書を呈したいと発言している。7月14日に親書が受け取られた後、江戸幕府は家慶が病気の為に決定が出来ない旨を伝えた。
- ミラード・フィルモア 第13代アメリカ大統領。其の親書がマシュー・ペリーによって日本へ持参され、西暦1,853年7月14日の久里浜での国書伝達式にて、戸田氏栄と井戸弘道へ手渡された。親書には通商、石炭と食糧の供給、難破民の保護の3点が要求として書かれていた。
- フランクリン・ブキャナン サスケハナ艦長。西暦1,853年7月9日の会談で香山栄左衛門の長崎回航要求を拒否し、江戸幕府が国書受領に相応しい高官を派遣しないなら、武力に訴えてでも上陸し、ペリー自ら徳川家慶に親書を呈したい、という主旨の発言をした。
- ヘンリー・A・アダムズ アメリカ海軍東インド艦隊参謀長。西暦1,853年7月9日、フランクリン・ブキャナン・ジョン・コンティと共に、中島三郎助・香山栄左衛門との会談に臨んだ。
- ジョン・コンティ アメリカ海軍東インド艦隊旗艦副官。西暦1,853年7月9日の会談で、窓口となって中島三郎助・香山栄左衛門と最初に接触し、交渉を行った。
- サミュエル・ウィリアムズ マシュー・ペリーに同行した人物。西暦1,853年7月8日の最初の接触では、片言の日本語で中島三郎助等に話しかけた。但し交渉自体は、アントン・ポートマンを介してオランダ語で行われている。
- アントン・ポートマン マシュー・ペリーに同行した人物。西暦1,853年7月8日の最初の接触に際し、オランダ語による交渉の仲介を担った。
- ウィリアム・ハイネ マシュー・ペリーに同行した約1,000名の1人。旅行記録者・画家等と共に艦隊に乗り組んでいた。
- エリファレット・ブラウン・ジュニア 画家。マシュー・ペリーに同行した約1,000名の1人として、艦隊に乗り組んでいた。
- ジェームズ・モロウ 植物学者。マシュー・ペリーに同行した、水兵・科学者・技術者・料理人・音楽隊員・通訳・旅行記録者等約1,000名の1人である。
- サイラス・ベント ミシシッピの小艇に乗っていた大尉。西暦1,853年7月11日早朝の江戸湾測量の際、槍・火縄銃で武装した武士の乗る40隻の警備船に遭遇した。警備船の間を突き進んで進路を変え、ミシシッピへ伝令の船を送って接近を要請している。
- シドニー・スミス・リー ミシシッピ艦長。西暦1,853年7月11日、測量中のサイラス・ベントからの要請を受けてミシシッピを接近させ、日本側の警備船を退去させた。
- 佐久間象山 砲術家・思想家。西暦1,853年7月8日、マシュー・ペリーが浦賀水道を北上した其の日、木挽町(現在の東京都中央区銀座)の五月塾にて砲術と経書を教授していた。松代藩から幕閣へは御殿山への出兵が願い出られていたが、艦隊の出航により其の命令は無いまま静かになった。
主要な概念・組織
- アメリカ海軍東インド艦隊 マシュー・ペリーが率いた艦隊。西暦1,853年7月8日、旗艦サスケハナ・ミシシッピ・プリマス・サラトガの4隻で浦賀水道を北上し、計73門の大砲による空砲を放って浦賀の町へ砲門を向けた。7月9日には各艦から1隻ずつ計4隻の短艇で浦賀湊を測量し、7月11日には江戸湾内へ約20km侵入している。7月17日、浦賀を出航して琉球王国へ向かった。
- サスケハナ アメリカ海軍東インド艦隊の旗艦。西暦1,853年7月8日に中島三郎助と堀達之助が横付けし、翌9日には香山栄左衛門が訪れて会談が行われた。7月14日の久里浜上陸に際しては13発の礼砲を放ち、7月15日にはミシシッピと共に江戸の街を見渡せる所まで艦を進めている。
- ミシシッピ アメリカ海軍東インド艦隊の1隻。西暦1,853年7月11日の江戸湾測量では測量艇隊の護衛に付き、艦長シドニー・スミス・リーの判断で接近して日本側の警備船を退去させた。7月15日の江戸湾侵入時には、マシュー・ペリーが此の艦に乗船していた。
- プリマス・サラトガ アメリカ海軍東インド艦隊の2隻。西暦1,853年7月8日、日本側の警備船がサラトガにロープや鎖を投げて接舷しようとしたが、水兵がロープを切断し、槍・短剣・拳銃で追い払った。
- ペクサン砲・ダールグレン砲 サスケハナの搭載砲。西暦1,853年7月8日に乗船を許可された中島三郎助が、船体構造や蒸気機関と併せて入念に調査した対象である。
- 浦賀奉行所 浦賀の行政と海防を担った江戸幕府の役所。与力の中島三郎助と香山栄左衛門、小通詞堀達之助が対応に当たった。西暦1,853年7月9日のアメリカ側による浦賀湊の測量には抗議したが、無視されている。
- 副奉行 浦賀奉行所には実際には存在しなかった役職。西暦1,853年7月8日、相応の身分の役人としか会わないとするペリー側に対し、堀達之助が中島三郎助を此の役職として紹介する事で、2名の乗船許可を引き出した。
- 江戸湾の防備 西暦1,853年7月の黒船来航時、江戸湾の防備に当たっていたのは川越藩・彦根藩・会津藩・忍藩であった。ペリー一行は、観音崎(現在の神奈川県横須賀市鴨居)と富津岬(現在の千葉県富津市)を結ぶ日本の防衛線を越えて江戸方面へ進んでいる。
- ミラード・フィルモアの親書 マシュー・ペリーが持参した第13代アメリカ大統領の親書。通商、石炭と食糧の供給、難破民の保護の3点を要求していた。西暦1,853年7月11日、阿部正弘が長崎奉行を通さずに久里浜で受理する事を決定し、7月14日に戸田氏栄・井戸弘道へ手渡された。
- 久里浜の国書伝達式 西暦1,853年7月14日10時、久里浜にて執り行われた式。マシュー・ペリーは250名の水兵・海兵隊を率い、15隻のボートで上陸した。海兵隊が捧げ銃をし、軍楽隊が「ヘイル・コロンビア」を演奏する中で親書が手渡され、式は20分程度で終了している。外交交渉は一切行われなかった。
- 受領書 西暦1,853年7月14日、江戸幕府がアメリカ側へ渡した書面。「国書は受け取ったのだから、速やかにお引き取りを願いたい」という主旨が書かれていた。だが艦隊は引き揚げず、内海の停泊候補地域の測量を続けている。
- 江戸湾の測量 アメリカ側が繰り返した行為。西暦1,853年7月9日に浦賀湊内、7月11日に江戸湾内へ約20km、そして7月14日から15日に掛けては武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区)辺りにまで進入して行われ、次回来航時の停泊地の決定に備えられた。
- 御殿山 松代藩が幕閣へ出兵を願い出ていた地。西暦1,853年7月17日にアメリカ海軍東インド艦隊が浦賀を出航した事で、出兵命令が下る事も無く静かになった。佐久間象山は、此の御殿山の守備を訴えていた。
浦賀水道北上から浦賀出航まで──
黒船来航の十日間を、日ごとの動きで一元化。
160円(税込)
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