里見甫一元化
西暦1,896年、秋田の港町に生まれた男は──
やがて上海のアヘンを握り、関東軍の財布となった。
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本書について
西暦1,896年1月22日、日本海軍軍医で加賀藩の上級家臣である平士であった里見乙三郎と里見スミの間に、里見甫は秋田県山本郡能代港町(現在の秋田県能代市元町付近)にて生誕した。西暦1,913年2月、第2代玄洋社社長進藤喜平太の手配により、里見の通う修猷館中学を孫文が訪問する。里見は、孫の前で柔道を披露した。同年9月、里見は進藤に県か市の推薦を頼み込み、福岡市からの留学生として東亜同文書院に入学する。近衛篤麿が西暦1,901年に前身の南京同文書院を開校させた事に始まる此の学校では、特待生は官費で学ぶ事が出来、10日毎に中国の銀貨で1圓が支給された。里見家は貧しかったのである。先輩とマンツーマンのペアを組まされ、中国語の四音の発音の特訓で扱かれた里見は、政治経済も学び、中国進出の基盤を築いた。
西暦1,915年7月には卒業課題として、重慶を起点に成都・嘉定・峨眉山を巡る4ヶ月間の調査旅行を行っている。然し西暦1,916年5月に3年制課程を修了した時、里見甫は授業の欠席が多く成績が下から2番目であった為、外交官・商社・ジャーナリストというエリートコースから外れ、青島の日系貿易会社である新利洋行に入社した。第一次世界大戦の好景気を利用して空売りで儲け、派手な女遊びを行い、芸者を十数名落籍する。後の妻となる大分県出身の相馬ウメと知り合ったのも此の頃であった。初座敷に出た相馬へ里見が「お前はまだ小さいのにこんな所に居てはいけない。引かしてやるから国へ帰れ」と言うと、相馬は「国へ帰ったら又売られる」と返したという。だが新利洋行は倒産する。同年11月、里見は相馬と共に帰国し、九段下で荷車の後押しをして駄賃を貰い、友人とおでん屋を始めて失敗し、四谷の蕎麦屋の出前持ちとなり、遂には下谷万年町の一畳間の掘っ立て小屋を借りて日雇い労働者となった。
西暦1,919年8月、東亜同文書院の後輩で朝日新聞北京支局記者の中山優の計らいにより、里見甫は橘樸が主筆を務める天津の邦字紙「京津日日新聞」の記者となり、再び中華民国へ渡る。西暦1,922年5月、第一次奉直戦争の取材で編集長上田我郎と共に軍糧城の総司令部を訪ね、東三省の独立を宣言した奉天軍閥の頭目張作霖の単独取材を許された。通訳は、張の軍事顧問で陸軍中佐の本庄繁であった。西暦1,923年5月、豪華列車「ブルー・エクスプレス」が押収され、アビー・アルドリッチ・ロックフェラーの姉ルーシー・トルーマン・アルドリッチを含む300名以上が人質に取られた事件を取材した帰路、里見は車内で電通大阪支局長能島進と偶然会い「電通に来んか」と誘われる。新聞記者が嫌になっていた里見は此の誘いに乗ろうと考えたが、程無くして北京版「北京新聞」の創刊が決まり、主幹兼編集長に就任した。1人で数百行の記事を毎日書く傍ら、東亜同文会が発行する順天時報にも寄稿し、創造社の共同創設者郭沫若を通じて中国国民党との人脈を作り、板垣征四郎・石原莞爾とも知己を得る。
西暦1,928年5月3日、済南にて日本軍と国民革命軍が衝突する。里見甫は、日本陸軍参謀本部第2部部長建川美次・済南総領事館付武官原田熊吉・上海公使館付武官補佐官田中隆吉から中国国民党との調停を依頼され、2ヶ月に渡る秘密工作の末、協定文書の調印を取り付けた。同年6月9日には蒋介石と会見し、同年8月、蒋が首都を南京に定めた事に対応して、南満洲鉄道南京事務所の嘱託に就任する。西暦1,931年10月、里見は関東軍司令部第4課の嘱託辞令を受けて奉天に移り、奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報・宣伝・宣撫活動を担当した。此れ等の活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成される。課長松井太久郎の指示により、満洲に於けるナショナル・ニュース・エージェンシー設立工作にも務め、岩永裕吉・古野伊之助・光永星郎と交渉を行った。西暦1,932年、新聞聯合社奉天支局長佐々木健児が関東軍司令官本庄繁に里見を主事として推薦し、同年12月1日、満洲国通信社が設立される。初代主事には、里見甫が就いた。西暦1,933年5月、松本重治の斡旋でロイター通信社総支配人兼極東支配人クリストファー・チャンセラーとの交渉が纏まり、ニュースを相互に供給する提携契約が結ばれた。満洲国通信社のニュースが世界的に流通する事で、関東軍のプロパガンダは強化される。同年9月、里見は相馬ウメと正式に結婚した。
西暦1,935年4月、土肥原賢二が天津の反日華字紙「庸報」を秘密買収する。同年9月、里見甫は松井太久郎から関東軍参謀副長板垣征四郎の下へ向かう様連絡を受け、到着すると其処には土肥原も居た。依頼されたのは庸報の経営と紙面改革——だが本題は其の裏に在った。土肥原は「此れ迄関東軍が画策してきた謀略工作は、天津のアヘン市場を掌握して、巨額になって来た諜報工作資金に充てる為であった」と語り、阪田組の密輸するアヘンを密売し、蒋介石の財源である天津のアヘン市場を奪う様依頼する。輸送は関東軍が全面的に護衛し、関東憲兵隊司令官岩佐緑朗の命により摘発・押収をしない手配が既に済んでいた。里見は此れを引き受け、同年10月に満洲国通信社を退社、12月に庸報社長へ就任する。岩佐の役割は、後に東條英機へ引き継がれた。西暦1,937年3月1日、第2代満洲国通信社主事森田久が岸信介と満洲国実業部主計処長古海忠之を連れて里見を訪ね、岸は東條からの謝意を伝えた上で、熱河産アヘンの取扱量の増大と、北支・中支全域への販路拡大、そして里見機関の上海移転を依頼した。
西暦1,937年9月、里見甫は天津から上海へ移り、以降上海のアヘンの総元締めとなる。其の莫大な利益は関東軍の軍事機密費に使われ、関東軍・満洲国政府・甘粕正彦が1株ずつ持って其々800,000円/月程度を受け取った。同年11月には参謀本部第8課課長影佐禎昭に中国語力と人脈を見込まれ、陸軍特務部大佐楠本実隆を通じて特務資金調達の為のアヘン売買を依頼される。満洲から金塊数十個、時価にして数百億円を上海に運び込んで始めたペルシャ産アヘンの輸入で、里見は最終的に20,000,000ドルの利益を得た。西暦1,938年3月、三井物産主導で慈善団体を装った「華中宏済善堂」が設立され、里見は副董事長(事実上の社長)に就任する。同年12月16日、近衛文麿内閣が興亜院を設立し、以降アヘン取引の利益は興亜院が管理した。西暦1,939年4月20日には、三井物産・三菱商事・大倉産業が各5,000,000円を共同出資して「昭和通商」が設立される。表向きは旧式武器の輸出とタングステン調達の商社であったが、実態は諜報活動とアヘン取引を行う陸軍の特務機関であった。翌5月、里見は昭和通商・青幇・紅幇等と連携し、上海でのアヘン密売を取り仕切る「里見機関」を設立する。張家口で20円だったアヘン37gは、天津で40円、上海で80円、シンガポールで160円になった。杜月笙・盛文頤・笹川良一・児玉誉士夫・許斐氏利・阪田誠盛等との地下人脈が、此処に出来上がる。
西暦1,941年12月8日の太平洋戦争開戦により三井物産経由の密輸入が絶たれ、二反長音蔵が日本・満洲・朝鮮・内蒙古で栽培していたケシが代用された。西暦1,942年4月30日の第21回衆院選で岸信介が初当選した際、岸は弟の佐藤栄作を経由して里見甫から2,000,000円の資金提供を受けている。西暦1,943年12月、里見は華中宏済善堂を辞し、南満洲鉄道と中華航空の顧問となった。西暦1,945年9月6日、上海から中華航空の旅客機で雁ノ巣飛行場に降り立ち、京都や東京に潜伏したが、同年12月、民間人最初のA級戦犯容疑者としてGHQに逮捕され、巣鴨拘置所に収監される。西暦1,946年9月、極東国際軍事裁判に出廷した里見は「私は只アヘンを正しく管理し、東條英機内閣や興亜院に、必要とする資金を届けただけである」と述べ、自身の活動を国家公認の管理業務として弁明した。アヘンの利益金が満洲国の国家歳入の5〜5.6%を占めた事、売上の大部分が東京に送られ東條内閣や国会議員への資金に充てられた事は認めたが、岸信介には言及しなかった。西暦1,965年3月21日、里見は家族と歓談中に心臓麻痺に襲われ死去する。葬儀委員長は古海忠之が務め、同年5月に作られた遺児への寄付金の芳名帳には、頭山満の弐男頭山泉、頭山秀三の長男頭山統一、進藤喜平太の四男進藤一馬が名を連ねた。玄洋社の縁で始まった生涯は、玄洋社の縁で閉じられた——本書は、其の69年の全軌跡を一冊に束ねている。
登場人物
- 里見甫 本書の中心人物。日本海軍軍医里見乙三郎とスミの子として、西暦1,896年1月22日に秋田県山本郡能代港町にて生誕。玄洋社第2代社長進藤喜平太の計らいで東亜同文書院に学び、京津日日新聞・北京新聞の記者を経て、西暦1,932年に満洲国通信社初代主事となる。西暦1,935年、土肥原賢二の依頼で天津の華字紙「庸報」社長に就任し、蒋介石の財源であるアヘン市場の奪取に従事。西暦1,937年に上海へ移って以降はアヘンの総元締めとなり、華中宏済善堂副董事長・里見機関頭目として「上海アヘン王」と呼ばれた。西暦1,945年12月、民間人最初のA級戦犯容疑者としてGHQに逮捕され、極東国際軍事裁判で証言。西暦1,965年3月21日、家族との歓談中に心臓麻痺で死去した。
- 相馬ウメ 大分県出身の元芸妓で、里見甫の妻。西暦1,916年、青島で新利洋行に勤めていた里見と知り合い落籍された。新利洋行の倒産で里見と共に帰国した後、貧困の中で一旦故郷へ帰されるが、西暦1,921年に里見が中華民国へ呼び寄せ、西暦1,933年9月に正式に結婚した。
- 進藤喜平太 第2代玄洋社社長。西暦1,913年2月、里見甫の通う修猷館中学への孫文の訪問を手配した。同年9月には、貧しい里見家の為に福岡市からの留学生としての推薦を与え、東亜同文書院への入学を実現させている。四男の進藤一馬は、里見の遺児への寄付金お願いの会の芳名帳に名を連ねた。
- 中山優 里見甫の東亜同文書院の後輩で、朝日新聞北京支局記者。西暦1,919年8月、日雇い労働者として下谷万年町に暮らしていた里見に、天津の邦字紙「京津日日新聞」の記者の口を世話し、里見を再び中華民国へ渡らせた。
- 張作霖 奉天軍閥の頭目で、東三省(奉天省・吉林省・黒竜江省)の独立を宣言した人物。西暦1,922年5月、第一次奉直戦争の取材で軍糧城の総司令部を訪れた里見甫に単独取材を許し、身振り手振りを交えて話した。此の会見は翌日の京津日日新聞に掲載された。
- 本庄繁 陸軍中佐で張作霖の軍事顧問。西暦1,922年5月、里見甫による張作霖の単独取材で通訳を務めた。後に関東軍司令官として、新聞聯合社奉天支局長佐々木健児の推薦を受け、里見に満洲国通信社設立に関する研究を指示した。
- 郭沫若 日本で成立した中国現代文学の社団である創造社の共同創設者。西暦1,923年、北京新聞主幹兼編集長であった里見甫は、郭を通じて中国国民党との人脈を築き、板垣征四郎・石原莞爾とも知己を得た。
- 板垣征四郎 陸軍歩兵中佐で日本陸軍参謀本部支那課所属。西暦1,923年頃、里見甫が郭沫若を通じて中国国民党との人脈を作る中で知己を得た。西暦1,935年9月には関東軍参謀副長として、松井太久郎・土肥原賢二と共に、里見へ庸報の経営とアヘン市場奪取を依頼した。
- 石原莞爾 陸軍歩兵少佐。西暦1,923年頃、里見甫が北京新聞で活動する中、板垣征四郎と共に知己を得た。
- 蒋介石 中国国民党を率いる国民革命軍の指導者。西暦1,928年6月8日、北伐に成功して北京を占領し、同月9日に里見甫と会見した。後に、其の財源であった天津のアヘン市場が、関東軍と里見による奪取の標的となる。
- 佐々木健児 新聞聯合社奉天支局長。西暦1,932年、関東軍司令官本庄繁に対し、満洲の統一された情報網として設立予定の「満洲国通信社」の主事として里見甫を推薦した。
- 松本重治 新聞聯合社上海支局長。西暦1,932年、里見甫の満洲国通信社設立に際して組織の基盤作りに協力した。西暦1,933年5月には、ロイター通信社総支配人兼極東支配人クリストファー・チャンセラーとの交渉を斡旋し、満洲国通信社とロイターの通信提携契約の締結に貢献した。
- 土肥原賢二 陸軍大佐で奉天特務機関長。西暦1,931年10月以降、里見甫を関東軍司令部第4課の嘱託として指揮下に置き、甘粕正彦と共に諜報・宣伝・宣撫活動を担当させた。西暦1,935年4月に天津の反日華字紙「庸報」を秘密買収し、同年9月、里見へ庸報の経営・紙面改革と、阪田組の密輸するアヘンによる天津アヘン市場の奪取を依頼した。
- 甘粕正彦 里見甫と共に関東軍司令部第4課で諜報・宣伝・宣撫活動を担当した人物。西暦1,937年9月以降は、里見と満洲国政府の間、及び満洲国政府とアヘン消費者の間に入り、複数のダミー会社を通じてアヘン取引を行ってマネーロンダリングを実施した。陸軍士官学校時代に自身の教官であった東條英機に資金提供を行っていた。
- 東條英機 陸軍軍人で後の内閣総理大臣。関東憲兵隊司令官岩佐緑朗の役割を引き継ぎ、阪田組のアヘン輸送を摘発・押収しない様に手配した。西暦1,937年3月には岸信介を通じて里見甫に熱河産アヘンの取扱量増大と販路拡大を依頼し、塩沢清宣を通じて立川陸軍飛行場経由で現金の資金提供を受けている。極東国際軍事裁判で里見は、アヘンの収益が東條内閣に流れ、東條が陸軍大臣として流通を指揮した事を証言した。
- 岸信介 西暦1,937年3月1日、満洲国実業部主計処長古海忠之・第2代満洲国通信社主事森田久と共に里見甫を訪ね、東條英機からの謝意を伝えた上で、熱河産アヘンの取扱量増大・販路拡大・里見機関の上海移転を依頼した。西暦1,942年4月30日の第21回衆院選で初当選した際には、弟の佐藤栄作を経由して里見から2,000,000円の資金提供を受けている。極東国際軍事裁判で里見は、岸には言及しなかった。
- 古海忠之 満洲国実業部主計処長。西暦1,937年3月1日、岸信介・森田久と共に天津の里見甫を訪問した。西暦1,965年3月21日の里見の死去に際しては、葬儀委員長を務めている。
- 影佐禎昭 参謀本部第8課(謀略課)課長。西暦1,937年11月、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と中国語力を見込み、陸軍特務部大佐楠本実隆を通じて里見甫に特務資金調達の為のアヘン売買を依頼した。里見はペルシャ産アヘンで最終的に20,000,000ドルの利益を得て、其の利益は特務部、廃止後は興亜院に支払われた。
- 楠本実隆 陸軍特務部大佐。西暦1,937年11月、影佐禎昭の意向を受けて里見甫にアヘン売買を依頼し、ペルシャ産アヘンの輸入を開始させた。翌西暦1,938年1月には、特務部の為に多量のペルシャ産アヘンを売ってくれるかどうかを里見に尋ねている。
- 杜月笙 中華民国の秘密結社である青幇の頭目。西暦1,939年5月の里見機関設立に際し、盛文頤と共に里見甫の地下人脈の中核を成した。青幇は表向き日本の敵であった蒋介石率いる国民党や、後にアメリカ統合参謀本部の部局として設立されるOSS(戦略情報局)とも通じていた。
- 笹川良一 西暦1,939年5月の里見機関設立に際し、青幇杜月笙・盛文頤・児玉誉士夫等と共に、里見甫の地下人脈を構成した人物。
- 児玉誉士夫 児玉機関の頭目。西暦1,939年5月の里見機関設立に際し、副機関長吉田裕彦と共に里見甫の地下人脈を構成した。
- 阪田誠盛 阪田組を率いた人物。関東軍が熱河省・内蒙古で確保したアヘンの天津への輸送ルートを担い、関東憲兵隊司令官岩佐緑朗、後に東條英機の手配により、摘発・押収を免れて輸送を行った。西暦1,939年5月の里見機関設立に際しては、其の地下人脈の一角を占めた。
- 塩沢清宣 東條英機の一番子分で、里見甫の親友。西暦1,940年4月、興亜院華北連絡部次長兼華北連絡部長官心得に就任した。興亜院華北連絡部は上海にもアヘンを流していた為に塩沢は巨利を得ており、日本陸軍機を使って立川陸軍飛行場経由で東條に現金で資金提供していた。
- 佐藤栄作 岸信介の弟で、鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた。西暦1,942年4月30日の第21回衆院選で兄岸信介が初当選した際、里見甫からの2,000,000円の資金提供を仲介した。西暦1,939年5月の里見機関設立を通じて里見と知己を得ている。
- 二反長音蔵 日本・満洲・朝鮮・内蒙古でケシを栽培していた人物。西暦1,941年12月8日の太平洋戦争開戦により、里見機関が三井物産を通じたペルシャ・トルコ産アヘンの密輸入が出来なくなった為、其のケシが代用される事となった。
- 汪兆銘 日本の傀儡であった中華民国南京政府の指導者。里見機関は、アヘンの売買によって得た利益の一部を汪兆銘政権に流した。極東国際軍事裁判で里見甫は、汪がアヘンの収益を政権樹立工作や財源に使用したと証言している。
主要な概念・組織
- 玄洋社 日本の国家主義団体。第2代社長進藤喜平太の手配により、西暦1,913年2月に修猷館中学への孫文の訪問を実現させ、同年9月には里見甫の東亜同文書院入学を支援した。里見の中国進出の出発点であり、西暦1,965年5月の遺児寄付金芳名帳には、創設者頭山満の弐男頭山泉、頭山秀三の長男頭山統一、進藤喜平太の四男進藤一馬が名を連ねている。
- 東亜同文書院 中国上海市徐匯区虹橋路に在った学校。西暦1,901年に近衛篤麿が前身の南京同文書院を開校させた事に始まる。当初は各府県から派遣する特待生のみが入学出来、官費で学び、10日毎に中国の銀貨で1圓が支給された。里見甫は西暦1,913年9月に入学し、中国語の四音の発音を特訓され、政治経済も学んで中国進出の基盤を築き、西暦1,916年5月に3年制課程を修了した。
- 京津日日新聞 橘樸が主筆を務めた天津の邦字紙。西暦1,919年8月、東亜同文書院の後輩で朝日新聞北京支局記者の中山優の計らいにより、里見甫が記者として入社した。西暦1,922年5月には、編集長上田我郎と共に張作霖の単独取材を実現している。
- 北京新聞 西暦1,923年に創刊された京津日日新聞の北京版。里見甫が主幹兼編集長に就任した。里見は1人で数百行の記事を毎日書く一方、外務省系の東亜同文会が北京で発行する中文新聞「順天時報」にも寄稿して国民革命軍の内情を伝え、郭沫若を通じて中国国民党との人脈を築いた。
- 満洲国通信社 西暦1,932年12月1日に設立された、満洲の統一された情報網。新聞聯合社奉天支局長佐々木健児が関東軍司令官本庄繁に里見甫を推薦し、里見が初代主事に就いた。西暦1,933年5月、松本重治の斡旋によりロイター通信社と通信提携契約を締結。満洲国通信社のニュースが世界的に流通する事で、満洲国の独立が宣伝され、関東軍のプロパガンダが強化された。
- 庸報 天津の華字紙。発行人は黄顕光。西暦1,935年4月、土肥原賢二が反日色を一掃する為に秘密買収し、茂川機関の李志堂を社長に据えて関東軍の機関紙とした。同年12月、関東軍の意向により里見甫が社長に就任。里見は紙面改革の裏で、阪田組の密輸するアヘンを密売し、蒋介石の財源である天津のアヘン市場の奪取を担った。
- 華中宏済善堂 西暦1,938年3月、アヘン売買の為に里見甫と三井物産主導で設立された、慈善団体を装ったアヘン販売拠点。里見は副董事長(事実上の社長)に就任した。ペルシャ・トルコ産アヘンを三井物産に密輸入させ、青幇を経由して末端のアヘン窟に流した。西暦1,943年12月、南京等での反アヘンデモの後、里見は華中宏済善堂を辞職している。
- 興亜院 西暦1,938年12月16日、近衛文麿内閣が対中国政策を一元的に統制指導する事を意図して設立した内閣直属機関。以降、アヘン取引による利益は興亜院が管理し、南京政府の財務省と華中宏済善堂に分配された。華北のアヘン取引は北京の興亜院連絡部が統制し、西暦1,940年4月には塩沢清宣が華北連絡部次長兼華北連絡部長官心得に就任した。
- 昭和通商 西暦1,939年4月20日、三井物産・三菱商事・大倉産業が各5,000,000円を共同出資し、資本金15,000,000円で設立された商社。表向きは陸軍の旧式となった武器を中近東等の第三国に輸出し、タングステン等の軍需物資を現地調達する名目であったが、実態は諜報活動とアヘン取引を行う陸軍の特務機関であった。製造したヘロインをタングステンとバーター取引する事も行われた。
- 里見機関 西暦1,939年5月、里見甫が昭和通商・青幇・紅幇等と連携し、上海でのアヘン密売を取り仕切る為に設立した組織。ペルシャ・モンゴル産アヘンの売買で得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は汪兆銘政権へ流した。関東軍が極秘に生産した満洲産アヘンや、日本軍が生産した海南島産アヘンも取り扱った。当時のアヘン37gの価格は、張家口20円・天津40円・上海80円・シンガポール160円であった。
- 青幇 中華民国の秘密結社。頭目は杜月笙・盛文頤等。西暦1,938年以降、華中宏済善堂が密輸入したペルシャ・トルコ産アヘンを末端のアヘン窟に流す役割を担った。青幇は表向き日本の敵であった蒋介石率いる国民党や、後にアメリカ統合参謀本部の部局として設立されるOSS(戦略情報局)とも通じていた。
- 三井物産 日本の総合商社。西暦1,938年3月、里見甫と共に華中宏済善堂を設立した。ペルシャ産アヘンをサスーン商会系から上海支店で仕入れて密輸入し、35円/32gで軍に納入、里見機関が22〜23円/gで華中宏済善堂へ卸した。西暦1,939年1月に赤城山丸で972箱を上海維新政府阿片局へ、同年4月に赤城山丸で1,000箱、同年10月に玉川丸で1,000箱、西暦1,940年10月に最上川丸で500箱、同年12月に加茂川丸で500箱を中支阿片局へ輸入している。
- ペルシャ産アヘン サスーン商会系によって上海に流入したアヘンで、四川省産よりも品質が良かった。三井物産上海支店が仕入れ、調達資金は佐藤喜一郎が工面した。西暦1,937年11月以降、影佐禎昭・楠本実隆の依頼で里見甫が輸入を開始し、最終的に20,000,000ドルの利益を得た。西暦1,941年12月8日の太平洋戦争開戦により密輸入が絶たれ、二反長音蔵が栽培したケシで代用される事となる。
- 蒙古産アヘン 西暦1,939年12月から里見甫が販売を開始したアヘン。其の大部分は中華航空機で運ばれた。極東国際軍事裁判で里見は、此の売上の大部分が東京に送られ、東條内閣や国会議員への資金に充てられた事を証言している。
- 極東国際軍事裁判 西暦1,946年9月、里見甫が出廷した裁判。里見はアヘン事業の正当化と自身の役割、アヘン流通の仕組み、満洲国のアヘン政策と影響、関連する被告や事件について証言した。アヘンの利益金が満洲国の国家歳入の5〜5.6%を占めた事、売上金が東京へ送られた事を宣誓口述書に記載する一方、岸信介には言及しなかった。アヘン問題は満洲事変・日中戦争と並ぶ追及対象となり、中華民国検察側が証拠を提出して日本の戦争犯罪として裁かれた。
東亜同文書院から極東国際軍事裁判まで──
上海アヘン王・里見甫の69年の全軌跡を一元化。
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