マシュー・ペリーの浦賀来航を受けて、
御殿山守備を訴えた佐久間象山に
砲術隊の組織を命じた
真田幸教一元化
西暦1,853年、四隻の黒船が浦賀の沖に現れた──
佐久間象山の献策と真田幸教の決断、其の一月余を一元化。
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本書について
西暦1,853年7月8日、相模国浦賀の沖に、四隻の黒船が現れた。旗艦サスケハナを先頭に、ミシシッピ・プリマス・サラトガを率いるのは、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー。約1,000名の水兵・科学者・通訳・音楽隊員を従えた艦隊は、観音崎と富津岬を結ぶ日本の防衛線を越え、四隻で計73門の大砲で空砲を放ち、浦賀の町に砲門を向けた。此の日、佐久間象山は木挽町(現在の東京都中央区銀座)の五月塾にて、砲術と経書を教授していた──本書は、此の黒船来航の衝撃から説き起こし、佐久間象山と松代藩が御殿山防衛へ動いた一月余の顛末を、年月日単位で一元化した記録である。
翌7月9日、ペリー来航の注進を受けた佐久間象山は、直様外桜田の松代藩上屋敷へ出頭し、足軽2名を連れて浦賀へと急行した。東浦賀から山を登り、鴨居から双眼鏡で艦隊を観察した佐久間は、外輪の直径、蒸気を起こす筒の高さ、砲門の数に至るまでを克明に書き留め、江戸詰家老望月主水へ宛てて、緊迫した情勢を伝える長文の書簡を送る。蒸気船の速さは「とても言葉に出来ない程」であり、与力中島三郎助が乗船を拒まれながらも旗艦に乗り込み、船体構造と搭載砲を調べ上げた経緯までもが、其の筆に収められていた。
佐久間が望月主水、そして第9代松代藩主真田幸教に説いたのは、実の有る武備の不在であった。近年江戸近海に台場を築いてはいるが、理に適って異国船の防御になるものが一つも無い──佐久間は、大砲は地形を踏まえて使う事が肝心であり、江戸の市中に最も近く大砲を運用出来る要地は、御殿山(現在の東京都品川区東品川)の近辺を措いて他に無いと論じた。第8代藩主真田幸貫が生涯を懸けて鋳た大砲を活かし、外敵と打つかる最前線を松代藩が引き受ければ、亡き先代への孝行にも、江戸幕府への忠節にもなる。御殿山にボムフレイと呼ばれる防弾施設を築けば、藩主自らの出陣すら安んじて為し得る、と。
7月14日、真田幸教は此の献策を容れ、佐久間象山を軍議役に任じた。関係する松代藩士は悉く佐久間の門下に入り、佐久間は其の者達を束ねて砲術隊を組織する事を命じられる。江戸藩邸の御殿で入門式が行われ、佐久間は馬場に出て大砲の装法と打ち方を指導した。同じ日、佐久間は老中阿部正弘と牧野忠雅の屋敷を訪れ、御殿山守備を直に訴える。阿部は其の訴えを道理に適うものとし、評議の為の口上書を求めた。一方、久里浜の浜では、サスケハナの礼砲の下、ペリーが250名の水兵・海兵隊を率いて盛大に上陸し、戸田氏栄・井戸弘道へミラード・フィルモアの親書を手渡していた。親書が求めたのは、通商・石炭と食糧の供給・難破民の保護であった。
だが、佐久間が描いた構図は実を結ばない。7月17日、アメリカ艦隊は翌春の再来航を予告して浦賀を去り、御殿山への出兵命令は遂に下らぬ儘、事態は静まった。そして7月29日、佐久間象山は海防御人数臨時出役・軍議役を罷免され、砲術指導も不要と通告される。8月9日には、松代藩への帰国命令までが下った。其の背景に在ったのは、真田幸貫の改革と善光寺地震の復興費用に由る藩財政の窮乏であり、佐久間率いる砲術隊の御殿山出兵が忌避された結果であった。帰国は幕閣の執り成しによって辛うじて中止される。来るべき開国の前夜、一人の兵学者の献策が藩の事情に阻まれてゆく──其の全軌跡を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 真田幸教 本書の中心人物。第9代松代藩主。ペリー来航の報を受け、佐久間象山の進言に従って大小銃・弾薬の準備を命じた。御殿山守備の献策を容れて佐久間を軍議役に任じ、関係藩士を束ねた砲術隊の組織を命じたが、藩財政の窮乏を背景に、其の出兵は遂に実現しなかった。
- 佐久間象山 松代藩士で、木挽町の五月塾にて砲術と経書を教えた兵学者。浦賀へ赴いて黒船を観察し、艦船の構造を克明に記録した。御殿山に砲を据える防衛策を望月主水・真田幸教・阿部正弘・牧野忠雅へ訴え砲術隊を組織したが、後に罷免され、帰国を命じられた。
- マシュー・ペリー アメリカ海軍東インド艦隊司令長官。西暦1,853年7月8日、旗艦サスケハナ以下四隻を率いて浦賀に来航し、久里浜でミラード・フィルモアの親書を手渡した。翌春の再来航を予告して琉球王国へと去った。
- 望月主水 松代藩江戸詰家老。浦賀の佐久間象山から艦隊の詳報を受け取り、御殿山守備の進言を真田幸教へ取り次いだ。真田の裁可を得て、大小銃・弾薬の準備を担った。
- 真田幸貫 第8代松代藩主で、真田幸教の先代。海防に苦心し、江戸藩邸で大砲を製作した。佐久間象山は、其の遺志を継ぐ事こそ御殿山守備の大義であると説いた。
- 中島三郎助 浦賀奉行所与力で応接掛。通詞堀達之助と共に旗艦サスケハナへ乗り込み、乗船を拒まれながらも船体構造・搭載砲・蒸気機関を入念に調査した。
- 堀達之助 浦賀奉行所の小通詞(オランダ通詞)。サスケハナで「I can speak Dutch」と名乗り、中島三郎助を副奉行と紹介する事で、二人の乗船を実現させた。
- 阿部正弘 老中。佐久間象山の御殿山守備の訴えを道理に適うものと認め、評議の為に正式な口上書の提出を求めた。
- 牧野忠雅 老中。阿部正弘と共に、佐久間象山から御殿山守備の訴えを受けた幕閣の一人。
- 戸田氏栄 浦賀奉行。久里浜の国書伝達式で、井戸弘道と共にミラード・フィルモアの親書を受け取った。
- 井戸弘道 浦賀奉行。戸田氏栄と共に、久里浜でペリーからフィルモアの親書を受領した。
- 香山栄左衛門 浦賀奉行所の与力。指示を仰ぐ為に早舟で江戸へ向かい、後にはペリー艦隊へ再度退去を迫る役を担った。
- ミラード・フィルモア アメリカ合衆国大統領。其の親書がペリーによって日本へ届けられ、通商・石炭と食糧の供給・難破民の保護を求めた。
主な出来事の流れ
- 西暦1,853年7月8日 マシュー・ペリーが旗艦サスケハナ以下四隻を率い、浦賀の沖に投錨。空砲を放って町に砲門を向けた。与力中島三郎助と通詞堀達之助が、乗船を拒まれながらもサスケハナへ乗り込む。
- 西暦1,853年7月9日 木挽町でペリー来航の注進を受けた佐久間象山が、松代藩上屋敷へ出頭し、足軽2名を連れて浦賀へ向かう。
- 西暦1,853年7月10日〜11日 鴨居の山から艦隊を双眼鏡で観察した佐久間が、艦船の構造・砲・蒸気機関を克明に記録し、家老望月主水へ詳細な書簡を送る。
- 西暦1,853年7月11日 江戸へ戻った佐久間が、真田幸教・望月主水と面会。大小銃と弾薬の準備が最重要と申し立て、真田は望月に準備を命じる。
- 西暦1,853年7月14日 真田幸教が佐久間を軍議役に任じ、砲術隊の組織を命じる。佐久間は御殿山守備を阿部正弘・牧野忠雅へ訴え、同日、久里浜でペリーがフィルモアの親書を戸田氏栄・井戸弘道へ手渡す。
- 西暦1,853年7月17日 アメリカ艦隊が浦賀を出航し、翌春の再来航を予告。御殿山への出兵命令は無いまま、事態は静まる。
- 西暦1,853年7月29日 佐久間が海防御人数臨時出役・軍議役を罷免され、松代藩士への砲術指導も不要と通告される。
- 西暦1,853年8月9日 藩財政の窮乏を背景に佐久間へ帰国命令が下るが、幕閣の執り成しにより中止となる。
浦賀来航から砲術隊の組織、そして帰国命令まで──
幕末の緊迫した一月余、其の全軌跡を一元化。
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