電子書籍「デュポン財閥の祖ピエール・サミュエル・デュポン一元化」の表紙

デュポン財閥の祖
ピエール・サミュエル・デュポン
一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,760年〜西暦1,814年4月16日
最新更新日
西暦2,026年1月13日

ヴェルサイユ宮殿、テュイルリー宮殿、フィラデルフィア──
デュポン財閥の祖の波乱の生涯を年月日単位で追跡した一冊。

JPY 200(税込)

購入する

購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します

お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。


皇室献上品 高級トイレットペーパー
皇室献上品 高級トイレットペーパー

本書について

西暦1,760年、ピエール・サミュエル・デュポンの著作が、ヴォルテール及びジャック・テュルゴーといった啓蒙思想家達の注目を集めた。本書は、此のデュポン財閥の祖の啓蒙思想家としての地位確立から、西暦1,814年4月16日のナポレオン・ボナパルトのエルバ島追放迄、フランス絶対王政の終焉と革命の動乱を生き抜き、海を渡ってアメリカに財閥の礎を築いた生涯を、一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1,763年、デュポンは、第4代ブルボン朝皇帝ルイ15世の妾ポンパドゥール夫人の侍医で、経済及び農業改革に専念する宮廷の自由主義者で構成される「エコノミスト派」のリーダー、フランソワ・ケネーの保護下に入った。西暦1,765年に「農業・商業・財政ジャーナル」の編集者となり、西暦1,768年には重農主義に関する著書「重農主義、又は人類にとって最も有益な政府の自然憲法」を出版し、低関税と国家間の自由貿易を主張した。此の本はアダム・スミスに強い影響を与えた。同年、ニコラ・ボードーの後任として「市民日誌、国民精神時評」の編集者となり、西暦1,769年には「市民の日記」の編集者を務めた。

西暦1,774年7月、デュポンは、第15代ポーランド・リトアニア共和国国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキに、同国の教育制度の組織化に協力する名目で招かれて秘書となり、国民教育委員会のメンバーに任命された。此れがフランス政府に引き入れられる切っ掛けとなり、西暦1,775年1月にフランス王国政府に招聘され、ルイ16世から商務総監に任命された。又、親友のジャック・テュルゴーの下で私設秘書兼顧問として、西暦1,788年迄活動した。西暦1,783年9月3日のパリ講和条約締結の際には、外交官として和平交渉に当たり、ベンジャミン・フランクリン及びトーマス・ジェファーソンと知己を得た。西暦1,784年にはルイ16世から叙爵を受け、貴族に叙せられ「ド・ヌムール」を名乗る事を許可された。西暦1,786年、ルイ16世から国家顧問官に任命され、同年9月26日のイーデン条約の条件の取り纏めも行なった。西暦1,787年2月22日、シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌがヴェルサイユにて開催した、西暦1,626年12月以来となる名士会の第二書記を務めた。

西暦1,789年7月9日、フランス王国の国民議会が憲法制定国民議会と改称した際、デュポンも此れに加わり、穏健なジロンド派と同盟を結び、ヌムールから第三身分の代表に選出された。西暦1,792年8月10日、フランス王国国民と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃し、ルイ16世やマリー・アントワネット等の国王一家をタンプル塔に幽閉した際、デュポンは息子のエルテール・イレネー・デュポンと共に、ルイ16世とマリー・アントワネットを物理的に守った。此れによりデュポンは逮捕され、ギロチン処刑を宣告された。然し西暦1,794年7月28日にマクシミリアン・ロベスピエールがギロチン台に送られた事で、デュポンは執行を免れた。ロベスピエールは前日の演説で「フランス革命を企む人々の中には、腐敗放埒さから成る組織、即ち此の共和国の転覆の為に外国人勢力によって作られた凡ゆる策略に最高の実権を握る人々の手下が含まれている」と述べ、革命の背後に存在するイルミナティの人々を暴き出す事を示唆した為、ロスチャイルド側に始末されたとされる。

西暦1,795年、デュポンは元老院のメンバーに選出された。西暦1,797年9月4日、ナポレオン・ボナパルトの部下ピエール・オージュロー将軍によるブルボン朝に対するクーデターの際、デュポンの自宅は暴徒により襲撃され、逮捕されて一晩拘留された後、釈放された。此れがデュポン家がアメリカに亡命する切っ掛けとなった。西暦1,799年、デュポンはエルテール・イレネー・デュポンを始めとする家族を引き連れアメリカに亡命し、フィラデルフィアに移住した。西暦1,800年1月1日、ニューポートに上陸した一行は、トーマス・ジェファーソンを始めとする政治家や産業界との結び付きを強め、アメリカとフランスの非公式な外交に携わった。西暦1,802年、デュポンはナポレオン・ボナパルト政権下のフランスへ戻り、様々な役職に就いた。西暦1,814年4月16日、ナポレオン・ボナパルトがエルバ島に追放された際、デュポンは同年に加わった臨時政府のメンバーとして追放に携わった。本書は、此の重農主義者にして革命の動乱を生き抜き、アメリカにデュポン財閥の礎を築いた男の生涯を、年月日単位で記録した年表である。


登場人物

  • ピエール・サミュエル・デュポン デュポン財閥の祖。重農主義者・経済学者・政治家。西暦1,775年1月にルイ16世から商務総監に任命され、西暦1,784年にルイ16世から叙爵を受け「ド・ヌムール」を名乗る事を許可された。西暦1,792年のテュイルリー宮殿襲撃時にルイ16世を守った為逮捕され、ロベスピエールの処刑により執行を免れた。西暦1,799年にアメリカに亡命した。
  • エルテール・イレネー・デュポン ピエールの息子。西暦1,792年8月10日のテュイルリー宮殿襲撃時に父と共にルイ16世とマリー・アントワネットを物理的に守った。西暦1,799年に父と共にアメリカに亡命し、西暦1,800年1月1日にニューポートに上陸した。後にアメリカでデュポン財閥の事業を発展させた。
  • ヴォルテール フランスの啓蒙思想家。西暦1,760年にピエール・サミュエル・デュポンの著作に注目した1人。
  • ジャック・テュルゴー フランスの経済学者・政治家。西暦1,760年にピエール・サミュエル・デュポンの著作に注目した1人で、デュポンの親友。西暦1,775年からデュポンを私設秘書兼顧問として下に置き、西暦1,788年迄続いた。
  • フランソワ・ケネー 第4代ブルボン朝皇帝ルイ15世の妾ポンパドゥール夫人の侍医。経済及び農業改革に専念する宮廷の自由主義者で構成される「エコノミスト派」のリーダー。西暦1,763年にピエール・サミュエル・デュポンを保護下に入れた。
  • ルイ15世 第4代ブルボン朝皇帝。妾のポンパドゥール夫人の侍医がフランソワ・ケネーであり、ケネーの保護下にデュポンが入った宮廷の主であった。
  • ポンパドゥール夫人 第4代ブルボン朝皇帝ルイ15世の妾。侍医としてフランソワ・ケネーを抱えていた。
  • ニコラ・ボードー 経済誌「市民日誌、国民精神時評」を創刊し編集者を務めた人物。西暦1,768年にピエール・サミュエル・デュポンが此の編集者の後任となった。
  • スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ 第15代ポーランド・リトアニア共和国国王。西暦1,774年7月にピエール・サミュエル・デュポンを同国の教育制度の組織化に協力する名目で招き、秘書とした。デュポンを国民教育委員会のメンバーに任命した。
  • ルイ16世 フランス王。西暦1,775年1月にデュポンを商務総監に任命し、西暦1,784年に叙爵を行い「ド・ヌムール」を名乗る事を許可した。西暦1,786年に国家顧問官に任命した。西暦1,792年8月10日のテュイルリー宮殿襲撃時にデュポンに守られたが、タンプル塔に幽閉された。
  • ベンジャミン・フランクリン アメリカの政治家。西暦1,783年9月3日のパリ講和条約締結の際、外交官として和平交渉に当たったデュポンと知己を得た。
  • トーマス・ジェファーソン アメリカの政治家。西暦1,783年9月3日のパリ講和条約締結の際にデュポンと知己を得た。西暦1,799年のデュポンのアメリカ亡命後、デュポンはジェファーソンを始めとする政治家との結び付きを強め、アメリカとフランスの非公式な外交に携わった。
  • マリー・アントワネット ルイ16世の王妃。西暦1,792年8月10日のテュイルリー宮殿襲撃時にデュポン父子に物理的に守られたが、タンプル塔に幽閉された。
  • シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ フランスの財務総監。フランスの国家破綻が近づいていた為、税制改革を実施する為、高等法院を廃止し西暦1,787年2月22日にヴェルサイユにて、西暦1,626年12月以来の名士会を開催した。デュポンが第二書記を務めた。ジャック・ネッケルと財政を巡り議論を交わした。
  • ジャック・ネッケル プロテスタントの元フランス財務長官。西暦1,787年2月22日の名士会開催前にカロンヌと財政を巡り議論を交わした。カロンヌからは、国家歳入が上方修正されていたという統計は虚偽であった、フランスの赤字はネッケルが増税を行わなかった為であると批判された。
  • マクシミリアン・ロベスピエール フランス革命の指導者。西暦1,794年7月27日に国民公会で革命の背後に存在するイルミナティの人々を暴き出す事を示唆する演説を行い、翌7月28日にギロチン台に送られた。前日の演説が原因でロスチャイルド側に始末されたとされる。其の処刑により、デュポンはギロチン処刑の執行を免れた。
  • 処刑人サムソン 西暦1,794年7月28日にマクシミリアン・ロベスピエールをギロチン処刑した処刑人。ロベスピエールの顎の包帯を外して処刑した。ロベスピエールは処刑の直前迄悲鳴を上げた。
  • ナポレオン・ボナパルト フランス軍の指揮官。西暦1,797年9月4日のクーデターは部下のピエール・オージュロー将軍が起こした。西暦1,802年に政権下のフランスへデュポンが戻り、様々な役職に就いた。西暦1,814年4月16日にエルバ島に追放され、デュポンは臨時政府のメンバーとして此の追放に携わった。
  • ピエール・オージュロー ナポレオン・ボナパルトの部下の将軍。西暦1,797年9月4日0時、気付けの為にシャンパンを飲み、12,000名の兵をパリに入れ、ブルボン朝に対するクーデターを起こした。無血でのパリの包囲に成功したが、総裁ラザール・カルノーを取り逃がした。
  • ルイ・ラザール・オッシュ フランスの将軍。西暦1,797年9月4日のオージュロー将軍のクーデターの前日に評議会で国家警備隊の編成が可決され、連れて来た兵をクーデター当日の朝迄にパリから撤退させた。
  • ラザール・カルノー フランスの総裁。西暦1,797年9月4日のオージュロー将軍のクーデターの際、無血でのパリの包囲に成功した中、唯一取り逃がされた人物。

主要な概念・組織

  • エコノミスト派 経済及び農業改革に専念する宮廷の自由主義者で構成される派閥。フランソワ・ケネーがリーダーであった。西暦1,763年にピエール・サミュエル・デュポンが此のリーダーであるケネーの保護下に入った。
  • 重農主義、又は人類にとって最も有益な政府の自然憲法 西暦1,768年にピエール・サミュエル・デュポンが出版した重農主義に関する著書。低関税と国家間の自由貿易を主張した。此の本はアダム・スミスに強い影響を与えた。
  • 農業・商業・財政ジャーナル 経済誌。西暦1,765年にピエール・サミュエル・デュポンが編集者となり、西暦1,767年迄務めた。
  • 市民日誌、国民精神時評 経済誌。ニコラ・ボードーが創刊し編集者を務めた後、西暦1,768年にピエール・サミュエル・デュポンが後任の編集者となった。
  • 市民の日記 西暦1,769年にピエール・サミュエル・デュポンが編集者となった経済誌。
  • 国民教育委員会 ポーランド・リトアニア共和国の教育制度の組織化を担当した委員会。西暦1,774年7月にピエール・サミュエル・デュポンがメンバーに任命され、数ヶ月間活動した。此れがデュポンがフランス政府に引き入れられる切っ掛けとなった。
  • 商務総監 フランス王国政府の役職。西暦1,775年1月にピエール・サミュエル・デュポンがフランス王国政府に招聘され、ルイ16世から此の役職に任命された。デュポンはジャック・テュルゴーの下で私設秘書兼顧問として西暦1,788年迄務めた。
  • パリ講和条約 西暦1,783年9月3日にアメリカとイギリスの間で締結された条約。イギリスはミシシッピ川より東側をアメリカの領土として認め、アメリカは独立・自由・主権を得、アメリカ独立戦争は終結した。ピエール・サミュエル・デュポンは外交官として和平交渉に当たり、ベンジャミン・フランクリン及びトーマス・ジェファーソンと知己を得た。
  • イーデン条約 西暦1,786年9月26日に財政困難が続くフランスが、国内産業の振興を狙い、第2次百年戦争で敵対していたイギリスとの通商に踏み切り締結した条約。ピエール・サミュエル・デュポンは此の条約の条件の取り纏めを行なった。施行直後にアブヴィルやボルドー等で綿や羊毛の製造業者による放火や暴力的行為が起き、フランス革命の一因となった。
  • 名士会 西暦1,787年2月22日にシャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌがヴェルサイユにて開催した、西暦1,626年12月以来の会議。フランスの国家破綻が近づいていた為、税制改革を実施する為、高等法院を廃止した上で開かれた。第二書記はピエール・サミュエル・デュポンが務めた。
  • 憲法制定国民議会 西暦1,789年7月9日にフランス王国の国民議会が改称した議会。ピエール・サミュエル・デュポンも此れに加わり、穏健なジロンド派と同盟を結び、ヌムールから第三身分の代表に選出された。
  • ジロンド派 フランス革命中の穏健派。西暦1,789年7月9日の憲法制定国民議会改称後、ピエール・サミュエル・デュポンが同盟を結んだ派閥。デュポンが穏健派に属していた為、ジャコバン派によってギロチンで処刑される懸念から、後にアメリカへ亡命する動機となった。
  • テュイルリー宮殿襲撃 西暦1,792年8月10日にフランス王国国民と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃し、ルイ16世やマリー・アントワネット等の国王一家を捕らえ、タンプル塔に幽閉した事件。其の際ピエール・サミュエル・デュポンとエルテール・イレネー・デュポンは、ルイ16世とマリー・アントワネットを物理的に守った。此れによりピエールは逮捕されギロチン処刑を宣告された。
  • タンプル塔 フランスのパリ3区に在る塔。西暦1,792年8月10日のテュイルリー宮殿襲撃の後、ルイ16世やマリー・アントワネット等の国王一家が幽閉された。
  • 元老院 フランス革命後の立法機関。西暦1,795年にピエール・サミュエル・デュポンがメンバーに選出された。
  • フリュクティドール18日のクーデター 西暦1,797年9月4日0時、ナポレオン・ボナパルトの部下ピエール・オージュロー将軍が、12,000名の兵をパリに入れ、ブルボン朝に対して起こしたクーデター。無血でのパリの包囲に成功したが、総裁ラザール・カルノーを取り逃がした。此のクーデターの際にデュポンの自宅は暴徒により襲撃され、アメリカ亡命の切っ掛けとなった。
  • アメリカ亡命 西暦1,799年にピエール・サミュエル・デュポンがエルテール・イレネー・デュポンを始めとする家族を引き連れフィラデルフィアに移住した行動。フランス革命にて穏健派に属していた為、ジャコバン派によってギロチンで処刑されると考え、祖国のフランスを離れた。西暦1,800年1月1日にニューポートに上陸した。
  • 臨時政府 ピエール・サミュエル・デュポンが西暦1,814年に加わったフランスの政府。同年4月16日のナポレオン・ボナパルトのエルバ島追放にデュポンは此のメンバーとして携わった。

重農主義の論客から商務総監、そしてアメリカ亡命へ──
デュポン財閥の祖の波乱の生涯を年月日単位で追跡した一冊。

JPY 200(税込)

購入する

購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します

お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。


皇室献上品 高級トイレットペーパー
皇室献上品 高級トイレットペーパー

AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。