第二次上田合戦と
徳川秀忠の遅参
一元化
犬伏新町薬師堂の真田家分裂会談・真田信繁の竹林院縁西軍方・真田信之の小松姫縁東軍方残留・鳥居元忠急使による石田三成挙兵伝達・小山評定と福島正則黒田長政誓約・山内一豊掛川城開放進言・石田三成の真田家宛て信濃国甲斐国宛行書簡・徳川秀忠軍宇都宮西上開始・徳川家康10月6日書簡の中山道経由美濃赤坂10月15日参集指示・碓氷峠通過軽井沢到着・徳川秀忠30,000名以上小諸城入城と真田3,000名への降伏勧告・真田昌幸の清掃理由翌日延期要求と支度万端整い挑発・真田信之軍戸石城略無傷確保・第二次上田合戦と染屋城本陣設置・牧野康成牧野忠成刈田挑発・神川渡河と真田勢激突・神川堰止水放出と虚空蔵山兵急襲・小諸城撤退と神川溺死多数・本多正信進言と徳川家康10月6日書簡10日遅着到着・仙石秀久進言による森忠政仙石秀久残留と美濃赤坂出発・下諏訪宿到着・関ヶ原野戦・妻籠宿東軍勝利書簡受領・真田信繁葛尾城夜襲・大津城合流と徳川家康面会拒否・仙石秀久取り成し・徳川家康徳川秀忠面会と使者言い間違い責任転嫁・戸田一西褒賞・真田信繁葛尾城朝駆けと井戸宇右衛門森忠政不仲門開放二の丸侵入──
「参陣の期限を伝えた使いの者が言い間違いをしたのではないか」──大雨10日に阻まれた書簡と神川堰止水に阻まれた本陣の2ヶ月を一冊に。
JPY 200(税込)
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本書について
西暦1600年8月29日、徳川家康に従い上杉征伐の為会津へ向かっていた真田昌幸・真田信之・真田信繁の親子3名が下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)に到着した日から、西暦1600年10月29日、真田信繁が徳川秀忠から上田城監視を命じられていた井戸宇右衛門の城代を務める葛尾城を朝駆けし、井戸が森忠政との不仲から門を開いて真田軍を二の丸まで迫らせた日まで。本書は、徳川秀忠率いる徳川家本軍が真田昌幸の上田城を攻略しようとして失敗し、結果として関ヶ原本戦に間に合わなかった「徳川秀忠の遅参」を、犬伏の別れによる真田家分裂から葛尾城朝駆けまで月日単位で時系列に一元化した電子書籍です。本書の核となるのは、1600年10月の僅か29日間に発生する事件群——10月1日の徳川秀忠軍宇都宮西上開始、10月6日の徳川家康による上田攻め回避指示書簡、10月8日の徳川秀忠30,000名以上の小諸城入城と真田3,000名への降伏勧告、10月10日の真田昌幸の挑発、10月12日の第二次上田合戦と神川堰止水放出による徳川勢の小諸城撤退、10月15日の徳川家康10月6日書簡の大雨による10日遅着到着、10月21日の関ヶ原本戦、10月26日の大津城における徳川家康の面会拒否、そして10月27日の面会で家康が「参陣の期限を伝えた使いの者が言い間違いをしたのではないか」と秀忠を庇い戸田一西を褒めるまで——です。大雨で10日遅れて届いた1通の書簡と、塞き止められた1本の神川が、徳川家本軍を関ヶ原から締め出した約2ヶ月を一冊に束ねます。
西暦1600年8月29日、徳川家康に就いて上杉征伐の為会津へ向かっていた真田昌幸・真田信之・真田信繁の3名が下野国犬伏に到着した処に、石田三成からの豊臣方加担を促す密書が届きました。直様新町薬師堂で会談が持たれ、昌幸が石田方に就く事を告げると、石田方の大谷吉継の娘である竹林院を正室に迎えていた信繁が同意し、徳川方の本多忠勝の娘である小松姫を正室に迎えていた信之が徳川方に残留する事となりました。9月1日、鳥居元忠の急使によって徳川家康は小山にて石田三成等の挙兵を知り、同日真田昌幸・信繁の引き返しも徳川方に伝わりました。9月2日、家康は小山に諸将を招集し大坂の状況を説明した上で去就を問うと、福島正則が大坂の妻子を犠牲にしても家康に従い石田三成を討つと誓い、黒田長政も続き、山内一豊が居城掛川城の開放を進言、結論として石田征伐の為に西上する事となりました。9月3日に諸将は西上を始め、9月7日には石田三成が真田昌幸に対し自身の使者を真田の警護で沼田経由会津へ送る様依頼。9月11日、家康は江戸へ向け小山を出発、9月12日には三成が真田家宛てに「我らに味方すれば信濃国一国(小諸・深志・川中島・諏方)を与える」、翌9月13日には「甲斐国も与える」という書簡を送りました。
西暦1600年9月30日、徳川秀忠が徳川家康に向けて「上田城の真田征伐の為明日出発する」旨の書簡を送り、10月1日に宇都宮の徳川秀忠軍が西上を開始しました。10月6日、徳川家康は江戸から徳川秀忠に「こちらは10月7日に江戸を発ち東海道を進むので、秀忠も上田城攻めは行わず中山道を西へ進み10月15日美濃赤坂に参れ」という書簡を送りましたが、此の書簡は大雨の影響で10日程度遅れて届く事となります。10月7日、徳川秀忠軍は中山道の碓氷峠を通過し軽井沢に到着、10月8日には30,000名以上を率いて中山道から分岐する北国街道から小諸城に入り、3,000名程度の真田昌幸の兵は真面に抵抗しないと考えた秀忠は降伏勧告を送り、真田は応じました。10月9日、徳川秀忠は真田信之を上田に使いとして送り父の真田昌幸と上田城明け渡しの交渉を行わせると、昌幸は「清掃の為明日迄待って欲しい」と信之に伝え、徳川は「さもあらん」と喜びました。10月10日、真田昌幸は「漸く戦いの支度も万端整った故、存分に攻めて来られよ」と挑発、10月11日には真田信繁が入っていた戸石城を真田信之の軍が略無傷で確保し、信繁は信之が攻めて来た事を知ると城を放棄しました。
西暦1600年10月12日、徳川秀忠の軍は上田城を一望出来る染屋城に本陣を置き上田城攻めを開始、先ず牧野康成・嫡男牧野忠成が刈田を行い真田勢を挑発、対する真田昌幸は鉄砲隊を出撃させるが徳川勢の反撃で一旦退却、しかし徳川軍が城際まで迫ったタイミングで城から弓等で反撃して撃退、その後昌幸と真田信繁が徳川軍の目前に偵察に現れて挑発し、其れに乗った徳川勢の先陣が神川を渡って真田勢と激突、大久保忠隣・酒井家次・本多正信等の軍が援軍に出るも、昌幸は上流で塞き止めていた神川の水を開放し城に配置していた兵も動かして反撃に出た為徳川勢は混乱、しかも戸石城近くの虚空蔵山に配置していた兵に徳川の本陣を急襲させた為、徳川勢は混乱の中で小諸城まで撤退を余儀なくされ多くが増水した神川で溺死しました。10月15日、徳川秀忠は小諸城にて本多正信から「上田城を攻め始めて4日が経過している。簡単には落ちないかも知れない。信濃の諸将を城の押さえとして残し我々は先を急ぐべきである」との進言を受け、其処に徳川家康の使いがやって来て10月6日の書簡を手渡しました——大雨の影響で10日程度遅れての到着でした。秀忠は仙石秀久の勧めに従い森忠政・仙石秀久に真田に対する押さえを指示し美濃赤坂へ向け出発、10月19日に古道を使い下諏訪宿に到着、同日徳川家康は岐阜城に着陣しました。10月21日、美濃国不破郡関ヶ原で野戦が発生、10月23日に徳川秀忠は妻籠宿で東軍勝利の書簡を受け取り、10月24日には真田信繁が井戸宇右衛門城代の葛尾城を夜襲、10月26日に大津城で徳川家康と徳川秀忠が合流するも、家康は「気分が優れない」として面会せず仙石秀久が取り成し、10月27日に面会、秀忠が遅参を謝ると家康は「参陣の期限を伝えた使いの者が言い間違いをしたのではないか。お前が心配する必要はない。大きな戦いは囲碁と同じ様なものであり、関ヶ原で勝てば真田の様な小者が幾ら城を固めても結局は明け渡し降参する他ない。此の様な意見を言った者はいないか?」と問い、秀忠が「戸田一西がそう言いました」と答えると、家康は戸田を御前に呼んで褒めました。10月29日、真田信繁は再び葛尾城を朝駆けし、森忠政と不仲であった井戸宇右衛門は門を開いて真田軍を城内に入れ、二の丸まで迫らせた、徳川家本軍が関ヶ原本戦に遅参した経緯の全貌を一冊に束ねた書です。
主要登場人物
- 真田昌幸 上田城主。1600年8月29日の犬伏新町薬師堂会談で石田三成方に就く事を決し、9月12日・13日には三成から信濃国一国・甲斐国の宛行書簡を受領。10月8日に徳川秀忠の30,000名以上に対し3,000名程度の兵で対峙、降伏勧告に応じる素振りを見せ、10月9日には真田信之の交渉に「清掃の為明日迄待って欲しい」と返答、10月10日には「漸く戦いの支度も万端整った故、存分に攻めて来られよ」と挑発、10月12日の第二次上田合戦で上流に塞き止めていた神川の水を開放し徳川勢を混乱させ小諸城まで撤退させた、本書の主役にして徳川家本軍を関ヶ原から締め出した上田城主。
- 真田信繁 真田昌幸の弐男。石田方の大谷吉継の娘である竹林院を正室に迎えていた為、1600年8月29日の犬伏会談で父昌幸の石田方加担に同意し西軍に就いた。10月11日、入っていた戸石城を兄信之の軍が攻めて来た事を知ると城を放棄、10月12日の第二次上田合戦では昌幸と共に徳川軍の目前に偵察に現れて挑発し先陣を神川に誘い込んだ。10月24日には徳川秀忠から上田城監視を命じられていた井戸宇右衛門の葛尾城を夜襲、10月29日には朝駆けして二の丸まで迫った、本書の終幕で葛尾城を二度襲撃した次男。
- 真田信之 真田昌幸の長男。徳川方の本多忠勝の娘である小松姫を正室に迎えていた為、1600年8月29日の犬伏会談で父昌幸・弟信繁が石田方に就く中、徳川方に残留した。10月9日、徳川秀忠から上田に使いとして送られ父真田昌幸と上田城明け渡しの交渉を行うも昌幸の延期策に騙される形となり、10月11日には弟信繁の入っていた戸石城を略無傷で確保した、本書で家を二つに分けて生き残らせた長男。
- 徳川秀忠 徳川家康の三男にして後継者。1600年9月30日に父家康へ「上田城の真田征伐の為明日出発する」旨の書簡を送り、10月1日に宇都宮を出発、10月8日に30,000名以上を率いて小諸城に入城。10月12日の第二次上田合戦で染屋城に本陣を置くも神川堰止水の放出と虚空蔵山兵の本陣急襲により小諸城まで撤退を余儀なくされた。10月15日に家康10月6日書簡の10日遅着到着を受けて美濃赤坂へ出発するも10月21日の関ヶ原本戦には間に合わず、10月26日の大津城合流で家康に面会拒否され仙石秀久の取り成しで翌27日漸く面会した、本書の表題にして3,000名の上田城に手を焼き家本軍を遅参させた跡継ぎ。
- 徳川家康 徳川家当主。1600年9月1日に小山にて鳥居元忠の急使から石田三成挙兵を知り、9月2日の小山評定で石田征伐西上を決定、9月11日に江戸へ向け小山を出発。10月6日に徳川秀忠へ「上田攻めは行わず中山道を西へ進み10月15日美濃赤坂に参れ」との書簡を送るも此の書簡は大雨で10日遅着、10月19日に岐阜城着陣、10月21日の関ヶ原野戦で勝利、10月26日の大津城合流で秀忠に面会拒否、10月27日に面会し「参陣の期限を伝えた使いの者が言い間違いをしたのではないか」と秀忠の遅参を庇いつつ戸田一西を褒めた、本書で書簡が遅着した結果息子と離別を余儀なくされた当主。
- 石田三成 豊臣家奉行。1600年8月29日に真田昌幸・信之・信繁宛の豊臣方加担密書が犬伏に届き真田家分裂の発端となった。9月7日に真田昌幸へ自身の使者を真田の警護で沼田経由会津へ送る様依頼、9月12日には「我らに味方すれば信濃国一国(小諸・深志・川中島・諏方)を与える」、9月13日には「甲斐国も与える」と更に上乗せした書簡を真田家に送付した、本書で密書一通で徳川家本軍を引き戻した西軍奉行。
- 鳥居元忠 徳川家康の家臣。伏見城留守居として残されていた所、石田三成等の挙兵を急使に託して1600年9月1日に小山の徳川家康へ伝達した、本書で小山評定の引き金を引いた留守居。
- 福島正則 豊臣恩顧の武将。1600年9月2日の小山評定で「大坂に残してきた妻子を犠牲にしても家康に従い石田三成を討つ」と誓い、評定の流れを徳川方西上に決定付けた、本書で石田征伐の口火を切った先陣。
- 黒田長政 豊臣恩顧の武将。1600年9月2日の小山評定で福島正則の家康従属誓約に続いて同調した、本書で評定の方向を決定付けた追従者。
- 山内一豊 遠江国掛川城主。1600年9月2日の小山評定で居城の掛川城を家康に開放すると進言し、東海道筋の徳川方西上を後押しした、本書で居城を差し出した東海道の城主。
- 本多正信 徳川秀忠の家臣。1600年10月12日の第二次上田合戦で大久保忠隣・酒井家次と共に援軍に出たが神川堰止水の放出により撤退を余儀なくされた。10月15日に小諸城にて秀忠へ「上田城を攻め始めて4日が経過している。簡単には落ちないかも知れない。信濃の諸将を城の押さえとして残し我々は先を急ぐべきである」と進言し、其処へ家康10月6日書簡が10日遅れて届いた、本書で美濃赤坂出発の決断を促した参謀。
- 大久保忠隣 徳川秀忠の家臣。1600年10月12日の第二次上田合戦で酒井家次・本多正信と共に援軍に出たが、真田昌幸の神川堰止水の放出と虚空蔵山兵の本陣急襲により小諸城まで撤退を余儀なくされた、本書の援軍主力の一人。
- 酒井家次 徳川秀忠の家臣。1600年10月12日の第二次上田合戦で大久保忠隣・本多正信と共に援軍に出たが、真田昌幸の神川堰止水の放出と虚空蔵山兵の本陣急襲により小諸城まで撤退を余儀なくされた、本書の援軍主力の一人。
- 牧野康成 徳川秀忠の家臣。1600年10月12日の第二次上田合戦で嫡男牧野忠成と共に上田城近郊で刈田を行い真田勢を挑発し、合戦の口火を切った、本書で先陣の刈田挑発を担った武将。
- 牧野忠成 牧野康成の嫡男。1600年10月12日の第二次上田合戦で父康成と共に上田城近郊で刈田を行い真田勢を挑発し、合戦の口火を切った、本書で父と共に先陣を切った嫡男。
- 仙石秀久 信濃国小諸城主。1600年10月15日に小諸城にて家康10月6日書簡の10日遅着到着を受けた徳川秀忠に対し、自身を残して家康の元へ向かう様勧めた。10月26日の大津城合流で徳川家康が秀忠との面会を拒否した際には取り成し役を務め、翌27日の面会を実現させた、本書で美濃赤坂出発と父子面会の二度に亙り秀忠を救った小諸城主。
- 森忠政 信濃国の武将。1600年10月15日に徳川秀忠から仙石秀久と共に真田に対する押さえとして信濃に残された。井戸宇右衛門と不仲であった事が、10月29日の真田信繁葛尾城朝駆けにて井戸が門を開いて真田軍を二の丸まで入れる遠因となった、本書で家臣との不仲が城の二の丸を明け渡す結果を招いた押さえ役。
- 戸田一西 徳川家康・秀忠方の家臣。第二次上田合戦の最中に「真田の様な小者は捨て置き先を急ぐべし」という主旨の進言を行い、1600年10月27日の大津城面会にて徳川家康が「大きな戦いは囲碁と同じ様なものであり、関ヶ原で勝てば真田の様な小者が幾ら城を固めても結局は明け渡し降参する他ない。此の様な意見を言った者はいないか?」と問うと、秀忠が「戸田一西がそう言いました」と答え、家康によって御前に呼ばれて褒められた、本書で正論を吐いて主君に呼ばれた家臣。
- 井戸宇右衛門 葛尾城代。徳川秀忠から上田城監視を命じられたが、1600年10月24日に真田信繁の夜襲を受け、10月29日の朝駆けでは森忠政と不仲であった事から門を開いて真田軍を城内に入れ二の丸まで迫らせた、本書で同陣営の仲違いから真田に城内を明け渡した城代。
- 大谷吉継 石田三成方の武将。娘竹林院が真田信繁の正室であった事から、1600年8月29日の犬伏会談における信繁の西軍方加担の縁となった、本書で婚姻関係を通じて真田家分裂の一端を成した三成与党。
- 本多忠勝 徳川家康の家臣。娘小松姫が真田信之の正室であった事から、1600年8月29日の犬伏会談における信之の東軍方残留の縁となった、本書で婚姻関係を通じて真田家分裂の一端を成した家康与党。
犬伏新町薬師堂の真田家分裂会談・真田信繁の竹林院縁西軍方・真田信之の小松姫縁東軍方残留・鳥居元忠急使による石田三成挙兵伝達・小山評定と福島正則黒田長政誓約・山内一豊掛川城開放進言・石田三成の真田家宛て信濃国甲斐国宛行書簡・徳川秀忠軍宇都宮西上開始・徳川家康10月6日書簡の中山道経由美濃赤坂10月15日参集指示・碓氷峠通過軽井沢到着・徳川秀忠30,000名以上小諸城入城と真田3,000名への降伏勧告・真田昌幸の清掃理由翌日延期要求と支度万端整い挑発・真田信之軍戸石城略無傷確保・第二次上田合戦と染屋城本陣設置・牧野康成牧野忠成刈田挑発・神川渡河と真田勢激突・神川堰止水放出と虚空蔵山兵急襲・小諸城撤退と神川溺死多数・本多正信進言と徳川家康10月6日書簡10日遅着到着・仙石秀久進言による森忠政仙石秀久残留と美濃赤坂出発・下諏訪宿到着・関ヶ原野戦・妻籠宿東軍勝利書簡受領・真田信繁葛尾城夜襲・大津城合流と徳川家康面会拒否・仙石秀久取り成し・徳川家康徳川秀忠面会と使者言い間違い責任転嫁・戸田一西褒賞・真田信繁葛尾城朝駆けと井戸宇右衛門森忠政不仲門開放二の丸侵入──
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