正力松太郎は
3S政策の一環で
プロ野球を作った
一元化
西暦1,931年、野球は部数を生む興行だった──
正力松太郎が築いた日本プロ野球創設の二十年を一元化。
JPY 311(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。
本書について
西暦1,931年10月30日、アメリカ大リーグ選抜が日本の土を踏んだ。招いたのは読売新聞社——正力松太郎が、発行部数を伸ばす為に手配した興行である。翌月7日から30日迄の日程で、東京六大学野球チーム等との日米野球が17戦行われ、大リーグ選抜が全勝した。勝負としては一方的であったが、興行としては大成功であった。開催前に220,000部だった読売新聞の発行部数は、270,000部へと跳ね上がる。野球は、部数を生む——本書は、此の発見を起点として、正力松太郎が日本の職業野球を築き上げてゆく二十年の歩みを、年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,932年3月28日、「野球統制令」が公布される。小学校から大学に及ぶ広範な規制であり、営利企業が大会を主催する事は禁じられ、文部省の承認の無いプロ選手との試合も、来日した外国チームとの試合も封じられた。再びアメリカ大リーグ選抜を招いても、最早大学チームと対戦させる事は出来ない。ならば、対戦相手を自前で持てばよい——読売新聞社運動部長の市岡忠男、運動部嘱託の鈴木惣太郎、学習院野球部監督の浅沼誉夫、元慶應義塾大学野球部監督の三宅大輔の4名は、そう正力に働き掛けた。西暦1,934年6月9日、日本工業倶楽部にて「職業野球団発起人会」が開かれ、同年12月26日、同じ場所で「大日本東京野球倶楽部」の創立総会が開かれる。取締役会長には大隈重信の娘婿・大隈信常が就き、正力は取締役に名を連ねた。株主には、筆頭の京成電気軌道を始め、芝浦製作所・目黒蒲田電鉄・阪神電鉄・吉本興業・読売新聞社が並んだ。
西暦1,935年2月14日、大日本東京野球倶楽部はアメリカ遠征に出発する。最初の目的地サンフランシスコで対戦したのは、レフティ・オドールが監督を務める大リーグ傘下のサンフランシスコ・シールズであった。オドールは、西暦1,931年と西暦1,934年の日米野球で来日していた男である。彼はマネージャーの鈴木惣太郎に「チーム名が長くて分かりにくい。ニックネームを付けたらどうだ」と説き、自身の在籍した「ニューヨーク・ジャイアンツ」に因んで「ジャイアンツ」を提案した。鈴木は此れを採り、一行は「東京ジャイアンツ」として129日間108試合を熟し、75勝33敗の成績を残して帰国する。そして球団は「東京巨人軍」と改称した。同年12月10日には、阪神電鉄を親会社として「大阪野球倶楽部」が設立され、翌年1月、社内公募により「大阪タイガース」と名付けられる。
西暦1,936年、職業野球は一気に全国へ広がった。1月、新愛知新聞社が名古屋軍を、旧西武鉄道が東京セネタースを設立する。セネタースのオーナーには、正力の呼び掛けに応じた貴族院議員・有馬頼寧が就いた。そして2月5日、日本工業倶楽部にて「日本職業野球連盟」の創立総会が開かれる。加盟したのは東京巨人軍・大阪タイガース・名古屋軍・東京セネタース・阪急軍等の7球団であり、総裁に大隈信常、相談役に正力と小林一三が名を連ねた。同月には國民新聞社の大東京軍、名古屋新聞社の名古屋金鯱軍が続き、12月には株式会社後楽園スタヂアムが設立される。翌年には後楽園イーグルスが、西暦1,938年には南海鉄道の南海軍が加わり、鉄道会社と新聞社が球団を持つという構図が此処に出来上がった。
然し戦争が全てを覆う。西暦1,940年9月15日、日本野球連盟理事会は球団名の日本語化を決定し、大阪タイガースは阪神軍に、イーグルスは黒鷲軍に、東京セネタースは翼軍へと姿を変えた。ライオン軍は「ライオンは既に日本語である」と抗ったが、結局は朝日軍と改めさせられ、スポンサー契約も解消される。徴兵による選手不足は球団の合併を招き、名古屋金鯱軍と翼軍は大洋軍に、其れが西鉄軍となって西暦1,943年に解散した。同年、大和軍も最後の公式戦を戦い、河野安通志の手で解散する。西暦1,944年1月には連盟自体が「日本野球報国会」へと改組され、同年11月10日、大日本東京野球倶楽部は休眠会社となった。そして敗戦の年の12月2日、GHQは戦犯容疑で59名の逮捕を命じる。梨本宮守正王・笹川良一・児玉誉士夫等と並び、其の名簿に正力松太郎の名が在った。翌西暦1,946年1月4日、正力は公職追放処分となる。
転機は西暦1,947年9月に訪れた。正力松太郎は不起訴となり、巣鴨拘置所から釈放される。CIAは正力に、エージェントとして働く事を約束させ、其れと引き換えに釈放したのであった——本書が「3S政策」という視座から問い直すのは、此処から先の歩みである。占領下、球界は急速に息を吹き返した。西暦1,949年2月23日、鈴木龍二・鈴木惣太郎・野口務等は、GHQ経済科学局長ウィリアム・マーカットの権威を利用して、正力を日本野球連盟の名誉総裁兼コミッショナーに迎える。4月15日の就任会見で、正力は2〜3年の内に球団を増やして2リーグにしたいと宣言した。5月2日、追放処分の解けぬ正力に法務庁特別審査局の圧力が掛かり、其の座を退く事となるが、拡張構想は止まらない。同年11月26日、2リーグ制の実施が決定され、「太平洋野球連盟」と「セントラル野球連盟」が生まれる。そして西暦1,951年8月6日、正力の公職追放処分が解除された。発行部数を伸ばす為の一興行として始まった野球が、国民的娯楽へと膨れ上がり、占領政策と冷戦の力学に絡め取られてゆく——其の全軌跡を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 正力松太郎 本書の中心人物。読売新聞社の経営者として、発行部数を伸ばす為に西暦1,931年の日米野球を仕掛け、野球統制令を承けて大日本東京野球倶楽部(東京巨人軍)を創設した。日本職業野球連盟では相談役を務め、戦後は名誉総裁兼コミッショナーとして2リーグ制を主導する。西暦1,945年12月にGHQから戦犯容疑で逮捕を命じられ、西暦1,947年9月、CIAのエージェントとして働く事と引き換えに釈放された。
- 市岡忠男 読売新聞社運動部長。鈴木惣太郎・浅沼誉夫・三宅大輔と共に、野球統制令によりアメリカ大リーグ選抜を大学チームと対戦させられなくなった正力松太郎へ、職業野球チームの設立を働き掛けた4名の1人。大日本東京野球倶楽部の経営陣にも名を連ねた。
- 鈴木惣太郎 読売新聞社運動部嘱託で、大日本東京野球倶楽部のマネージャー。アメリカ遠征中、レフティ・オドールが提案した「ジャイアンツ」の愛称を採用した。戦後は日本野球連盟副会長を務め、球団への愛称の義務付けを提案した人物でもある。
- レフティ・オドール サンフランシスコ・シールズ監督。西暦1,931年・西暦1,934年の日米野球にアメリカ大リーグ選抜の一員として来日した。西暦1,935年、遠征中の鈴木惣太郎に、自身が在籍した「ニューヨーク・ジャイアンツ」に因む愛称を提案し、「東京ジャイアンツ」の名付け親となった。
- 大隈信常 大隈重信の娘婿で、第12代平戸藩主松浦詮の五男。西暦1,934年に大日本東京野球倶楽部の取締役会長へ就き、西暦1,936年に発足した日本職業野球連盟では総裁を務めた。
- 小林一三 阪急の経営者。阪急軍を擁して日本職業野球連盟の相談役に名を連ね、細野躋と共に南海鉄道へ球団設立を勧めて南海軍の誕生にも関わった。株式会社後楽園スタヂアムの株主でもあった、関西の球団網を支えた実業家。
- 有馬頼寧 貴族院議員。西暦1,936年1月、正力松太郎の呼び掛けに応じて東京セネタースのオーナーに就任した。西暦1,945年12月、GHQが逮捕を命じた59名の中に、正力と共に名を連ねている。
- 鈴木龍二 元國民新聞社社会部長。西暦1,936年に大東京軍の球団代表・常務となり、戦後は日本野球連盟会長、株式会社日本野球連盟社長を務めた。西暦1,949年、鈴木惣太郎・野口務と共に、GHQ経済科学局長マーカットの権威を利用して正力松太郎をコミッショナーに迎えた連盟主導派の中心人物。
- 高橋龍太郎 第3代大阪麦酒社長。西暦1,937年10月、正力松太郎の誘いで、親会社との関係を解消した後楽園イーグルスのオーナーとなり、球団名を「イーグルス」に改めた。西暦1,942年には黒鷲軍を佐伯謙吉へ譲渡している。
- 田村駒治郎 第2代田村駒社長。西暦1,937年、大橋松雄に招かれてライオン軍の経営に加わった。同球団は朝日軍・パシフィックを経て、田村駒の子会社名と駒鳥に因む「太陽ロビンス」となり、戦中戦後の球団存続を支えた。
- 永田雅一 第3代大映社長。西暦1,948年1月、中部日本を退団した赤嶺昌志らと野球チームを結成し、東急フライヤーズとの合併を経て、同年12月に金星スターズを買収し大映スターズとした。正力松太郎の2リーグ構想では、片方のリーグを託される立場に在った人物。
- 大川博 五島慶太に迎えられて東急電鉄に入社し、西暦1,947年1月、東急フライヤーズのオーナーに就任した。球団売却の話に対し、フライヤーズは戦争で憔悴した人々の心の拠り所であるとして反対し、西暦1,949年11月には太平洋野球連盟の設立に加わった。
- 谷川昇 第40代山梨県知事や第62代内務省警保局長を歴任した人物。西暦1,949年9月28日、広島球団の日本野球連盟への加盟を申請し、太田川・鯉城・出世魚の3点に因む「カープ」の名を世に出した。
球団とリーグの系譜
- 大日本東京野球倶楽部 西暦1,934年12月26日創立の、日本初の本格的職業野球チーム。翌年のアメリカ遠征中は「東京ジャイアンツ」を名乗り、帰国後「東京巨人軍」と改称した。西暦1,944年11月に休眠会社となるが、戦後、読売新聞社の運営を経て、西暦1,947年4月3日「東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)」となった。
- 大阪野球倶楽部 西暦1,935年12月10日、阪神電鉄事業課係長富樫興一を中心に設立。会長は松方正義の四男・松方正雄で、本拠地は甲子園球場であった。翌年1月の社内公募で「大阪タイガース」と命名され、戦時中は「阪神軍」、西暦1,946年3月に再び「大阪タイガース」へ戻った。
- 名古屋軍 西暦1,936年1月15日、田中斉が新愛知新聞社を親会社として設立。西暦1,944年に理研工業へ預けられ「産業軍」、戦後は中部日本新聞の下で「中部日本」を経て、西暦1,947年3月、オーナー杉山虎之助の干支に因み「中日ドラゴンズ」となった。
- 東京セネタース 西暦1,936年1月20日、旧西武鉄道が設立。有馬頼寧をオーナーに戴き、本拠地は上井草球場であった。「翼軍」を経て名古屋金鯱軍と合併し「大洋軍」となり、村上巧児の買収で「西鉄軍」と改めたが、西暦1,943年限りで解散した。
- 阪急軍 小林一三の阪急が擁した球団で、日本職業野球連盟の創立7球団の一角。後の「阪急ブレーブス」であり、西暦1,949年11月26日、南海・大映・東急と共に太平洋野球連盟を設立した。
- 南海軍 西暦1,938年3月1日、南海鉄道が設立。小林一三と細野躋が寺田甚吉・小原英一に勧めて実現した球団で、本拠地は堺大浜球場であった。戦時統合により「近畿日本軍」、戦後「近畿グレートリング」を経て、西暦1,947年6月1日「南海ホークス」となった。
- 後楽園イーグルス 西暦1,937年1月18日、河野安通志と押川清が設立し、株式会社後楽園スタヂアムが親会社となった。同年10月に親会社と袂を分かって「イーグルス」、戦時中は「黒鷲軍」「大和軍」と改称を重ね、西暦1,943年12月、河野の手で解散した。
- 大東京軍 西暦1,936年2月15日、國民新聞社が設立。宮田光雄をオーナー、鈴木龍二を球団代表とし、本拠地は洲崎球場であった。スポンサーを得て「ライオン軍」、戦時中は「朝日軍」、戦後「パシフィック」を経て、西暦1,947年3月「太陽ロビンス」となった。
- 金星スターズ 西暦1,946年2月、橋本三郎が朝日軍の選手の大部分を母体として「ゴールドスター」の名で設立。翌年1月「金星スターズ」と改称し、西暦1,948年12月21日、永田雅一の買収により「大映スターズ」となった。
- 日本職業野球連盟 西暦1,936年2月5日、正力松太郎を中心に7球団で発足。西暦1,939年「日本野球連盟」、西暦1,944年「日本野球報国会」と名を変えて戦中を凌ぎ、西暦1,945年11月に連盟名を復した。西暦1,949年11月26日、正力の主導により2リーグ制の実施が決まり、「太平洋野球連盟」と「セントラル野球連盟」へと分かれた。
日米野球から2リーグ制まで──
正力松太郎とCIA、そして日本プロ野球創設の全軌跡を一元化。
JPY 311(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。